「スリラー(Thriller)」は全く別の名前だった――映画『Michael/マイケル』が描かなかった名曲誕生秘話
なかでも観客の記憶に強く焼きつくのが、『スリラー(Thriller)』をめぐる場面の数々だろう。人類史上最も売れることになるアルバムが生まれ、世界を呑み込んでいく。その熱量は、映画のたしかな見せ場のひとつになっている。
だが、そのアルバムを象徴するタイトル『Thriller』が、どんな経緯であの一語に決まったのか。レコーディングの現場でマイケルが幾度も言葉を吟味していたその舞台裏については、映画は多くを語らない。スクリーンには映らなかった、タイトル誕生の物語がある。
■名曲には、もうひとつのタイトルがあった
その物語は、ひとつの意外な事実から始まる。のちに時代を席巻するこの曲は、当初まったく別の名前を与えられていた。「Starlight」――それが、ロッド・テンパートンの手によるデモに最初に記されたタイトルだった。サビも「We need some starlight, starlight sun」と歌われ、あの一語はまだどこにも存在していなかった。
もっとも、この曲は当初からただのポップソングとして構想されていたわけではなかったようだ。テンパートンは、マイケルが大の映画好きであることを知っていた。だからこそ、まるで一篇の映画のような曲を書きたい。そんな思いが、この曲の出発点にはあったと言われる。のちに「Thriller」がホラー映画さながらの様相を呈することになるのは、いわば必然だったのかもしれない。
ロッド・テンパートンという名に、聞き覚えのない人もいるかもしれない。だが、彼こそが「Thriller」を書いた当人である。イギリス出身のこの作曲家はファンクバンド、ヒートウェイヴの中心人物として「Boogie Nights」などのヒットを放ったのち、クインシー・ジョーンズに見出されてマイケルに「Rock with You」や「Off the Wall」、そして「Thriller」を提供した。表舞台に立つことを好まず、めったにインタビューにも応じなかったその姿から、彼は「透明人間」(The Invisible Man)とも呼ばれた人物である。
転機となったのは、プロデューサーのクインシー・ジョーンズがタイトルの練り直しを求めたことだった。テンパートンは2009年の英紙『The Telegraph』のインタビューで、その後の顛末をこう振り返っている。ホテルの部屋に戻り、200から300にものぼる候補を書き出した。テンパートンによれば一旦は「Midnight Man」というタイトルに落ち着き、ジョーンズもこの方向に手応えを示したという。
だが、本当の答えは翌朝にやってきた。目を覚ました瞬間、頭の中で何かが告げたのだ。これがタイトルだ、と。こうして「Starlight」は「Thriller」へと生まれ変わった。
■「Thriller」という一語に込められた意味
なぜ、この一語だったのか。理由のひとつは、そこに込められた意味にある。「Thriller」とは、人をぞくぞくと戦慄させるもの、サスペンスに満ちたものを指す。マイケルが映画を愛し、テンパートンが映画のような曲を志していたことを思えば、これほど作品の核心を言い当てる名はなかった。そしてもうひとつ、響きそのものの強さがある。短く、覚えやすく、それでいて鮮烈。テンパートン自身、その響きが『Billboard』のチャートを駆け上がり、たったひとつの単語でグッズへと広がっていく未来までも見てとっていたという。作品の中身を映す鏡であり、同時に世界へ打って出る武器でもある――「Thriller」とは、その二つを兼ね備えた一語だった。
なお、この幻の原型というべき「Starlight」は、2022年にリリースされた40周年記念盤『Thriller 40』に収録され、いまでは実際に耳にすることができる。マイケル自身の歌声で、あの名曲のもうひとつの可能性を聴き取ることができるはずだ。
タイトルとは、しばしば作品の最後に付け足される飾りにすぎない。だが「Thriller」においては、その一語こそが作品の核であり、進むべき方向を指し示す光だった。名がその姿を定めた瞬間から、曲は一気にその名にふさわしい表情を帯びはじめる。
完成した楽曲の幕開けを思い出してほしい。きしむ扉の音、轟く雷鳴、ゆっくりと近づく足音、吹きすさぶ風、そして遠くから響く狼の遠吠え。イントロを満たすこれらの音が、リスナーを真夜中のホラー映画の只中へと引きずり込んでいく。歌が始まる前から、私たちはもう、ただならぬ気配の漂う一夜のなかに立たされている。
■物語を完成させた最後の声
「Thriller」とは、もはや単なる曲名にとどまらない。それは、怪奇とスリルをまとったひとつの世界の設計図だった。そしてその世界に、最後の仕上げを施す人物がいた。
その人物とは、怪奇映画の名優ヴィンセント・プライスである。曲の終盤に置かれた、あの低く語りかけるようなナレーション。楽曲に決定的な深みを与えたこのパートをめぐって、レコーディングエンジニアのブルース・スウェディンが2018年に『Classic Pop』誌のインタビューで由来を明かしている。幻想と恐怖の物語に惹かれていたマイケルは、かねてエドガー・アラン・ポーを愛しており、何か尋常でないものを求めていた。そこでテンパートンに、プライスが演じるための語りを書かせたのだという。
スタジオに現れたプライスは長身で、ヘッドフォンを着けて録音した経験すらなかったというが、その語りはただ一度の収録で楽曲に唯一無二の質感を刻みつけた。こうして「Thriller」は、その細部にいたるまで寸分の隙もなく形づくられたのである。
ひとつのデモに記された「Starlight」が「Thriller」へと姿を変えた瞬間、一篇の曲の運命は決まった。いや、変わったのは曲だけではない。その一語は、アルバム全体を、そしてマイケル・ジャクソンという存在そのものを、誰も見たことのない高みへと押し上げる合図でもあった。
何百もの候補の末に選び取られたこの言葉がなければ、私たちの知るあの世界は、まったく違った姿をしていたかもしれない。映画『Michael/マイケル』のスクリーンに、その瞬間は描かれない。けれど、いま私たちはその舞台裏を知っている。次にあの幕開けの音が鳴り響くとき、きしむ扉が開き、遠くで狼が吠えるとき――そこにはもうひとつの物語が、たしかに息づいているはずだ。
(文:高橋芳朗)
映画『Michael/マイケル』は公開中。

