2歳でコケイン症候群と診断された荒木彪士朗さん

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 国が指定する難病のひとつに「コケイン症候群」という、通常の4〜5倍の速さで老化が進む遺伝子疾患がある。

 50万人に1人の割合で発症する病で、発達・発育の遅れ、聴力・視力の低下、歩行障害など様々な症状が表れる。平均寿命は15〜20歳とされ、現代の医療で根本的な治療法は確立されていない。2歳で確定診断を受けて13年。この難病と向き合う高校生と母親ら家族を取材した。(加藤雅浩)

老化の一因に紫外線

 「どんなに楽しくても幸せでも、一瞬で現実に引き戻される」。都内で夫と子供3人の家族5人で暮らす荒木香織さん(52)は、末っ子で長男の彪士朗(こじろう)さん(15)が小学校低学年で歩けなくなった時、強く思った。聴力が悪化した時も、小学校に入学する前後で視力の低下がわかった時もそうだった。体の機能が低下したり、失われたりする時はいつだって現実に引き戻された。彪士朗さんは現在、関節がつま先立ちのように伸びる「尖足(せんそく)」が進み、自宅では正座の状態で両手を使って移動する。右目はほぼ見えなくなり、玄関からリビングまでの数メートルでも迷ってしまう。聴力も徐々に悪化し、補聴器が欠かせない。

 彪士朗さんは2歳の時、同病と診断された。厚生労働省などによると、同病は成長障害や言語の遅れ、光線過敏症が幼少期の比較的早い時期にみられ、成長に伴い、脳の特定部位にカルシウムが異常に付着して起こる石灰化や聴力・視力の低下、高血圧、腎機能の低下、栄養障害などの症状が表れる。頭部が小さいのも特徴で、目がくぼみ、皮下脂肪の減少によって骨張った顔つきになる。彪士朗さんは身長104センチで、体重は13キロ。男性の平均で3歳前後に相当する。知的障害があり、発語もあまり明瞭ではない。単語に身ぶり手ぶりを交えて、コミュニケーションをとる。

 老化が早まる仕組みはほとんどわかっていない。関連があるのは太陽光に含まれる紫外線だ。紫外線は皮膚の組織や、細胞の再生に欠かせないDNAなどを傷つける。通常、紫外線によって損傷したDNAは自然に修復するが、同病ではそれが十分に機能しない。これが老化を進めていると考えられるが、同病を研究する重症心身障害児対象の施設「島田療育センター」(東京都多摩市)の久保田雅也院長は「この修復機能が弱いというだけでは、中枢神経系、全身の老化について説明できない」とした上で、治療法についても「個別の対症療法しかない」と現状を話す。平均寿命は15〜20歳で、日本人の場合多くは腎不全によって亡くなるという。

亡くなった姉の名前を呼ぶ

 彪士朗さんはこの春、高校生になった。平日午前8時前にはスクールバスに乗り、都立の特別支援学校「多摩桜の丘学園」(多摩市)に向かう。国語や数学などの授業を受け、歩行訓練にも励む。放課後等デイサービスを利用し、帰宅するのは午後6時頃だ。紫外線対策が必要な彪士朗さんにとって、外出時の日焼け止めクリームは欠かせない。4月下旬のこの日は、親子で電車に乗りに行くことになっていた。彪士朗さんの月に1度の楽しみだ。彪士朗さんを正面に座らせると、香織さんは顔から首筋、指先に至るまでクリームを丁寧に塗り込んでいく。駅に着くと、夫の賢さん(52)が、バギー(手押し型の車いす)に乗った息子に日傘を持たせた。

 彪士朗さんは時折、仏壇の方を向いて「ちーちー」と呼びかける。2017年に16歳で亡くなった長女の千晴さんを呼んでいるのだ。「ちーちゃん」とうまく言えないから「ちーちー」。千晴さんもコケイン症候群だった。賢さんは「姉が亡くなったという感覚が彪士朗にあるかはわからないけど、もういないことはわかっているんだろう」と言う。香織さんは「できたらいつまでも、千晴の名前を呼んでいてほしい」と願う。仏壇の線香に火をともし、両手を短く合わせると、人さし指で写真の中の千晴さんに何度も触れた。

 00年生まれの千晴さんと10年生まれの彪士朗さんの間には、03年生まれの次女・咲良さん(23)と、07年生まれの三女・美乃里さん(19)がいる。千晴さんは妹や弟が大好きだった。自分よりも体が大きくなった妹の頭をよくなでた。リハビリ中、別のことに関心が向く弟を「お(こ)じろー、あ(だ)めよ、あ(だ)めよ」と優しくたしなめることもあった。体は小さくても、出来ることは多くなくても、千晴さんは3人の「お姉ちゃん」だった。

2人同時に診断

 あの日の衝撃が忘れられない。13年1月、都内の大学病院で、診察に同席した女性医師が千晴さんの特徴的な顔を見て同病の疑いを指摘した。渡された資料を見ると、娘と似た顔つきの子供が写っていた。納得がいった。早老症ともいうらしい。同病の平均寿命は15〜20歳とある。香織さんは「娘はもう10代なのに。いつ亡くなってもおかしくないんだ」と、激しく動揺した。「違うよな」「でも症状が当てはまる」「そうだったらどうしよう」。否定と肯定を繰り返した。病名がわかる前は親亡き後、グループホームで暮らす娘を想像していた。足が動けば介助者も楽だろうと、何度か手術をした。自立を促すため、1人で祖母の家に泊まらせることもあった。そんなことをする必要はなかった。「ずっと私のそばにいてくれてよかったんだ」。後悔で胸が締め付けられた。大阪にある医療機関に皮膚片を送り、遺伝子検査の結果、同年7月、2人の病名が確定した。

 千晴さんの確定診断までに12年かかった。その間、家族はさまよい続けてきた。3歳になってもよちよち歩きで、明瞭な発語がなかった。MRI(磁気共鳴画像装置)検査で、脳の萎縮(いしゅく)などが確認されたことから「脊髄小脳変性症」の疑いと診断された。小学生になると、自力で歩くことが難しくなった。視力や聴力も悪化し、高学年になるとたんぱく尿が出るなど腎機能が低下し始めた。中学3年生の冬、自宅でできる腹膜透析を始めた。高校生になると、2度の長期入院を経験した。

「つらいことばかりでは…」

 一枚の写真がある。千晴さんが亡くなる前日にきょうだい4人で撮ったものだ。酸素マスクをした千晴さんがこちらを見つめている。17年10月、都内で開かれていた同病の当事者や家族らが集まるイベントで、体調が急変した。誤嚥(ごえん)性肺炎を引き起こしていた。体力も消耗しており、医師から「今後はどうされたいですか」と聞かれ、自宅に戻ることを選んだ。酸素マスクなどを整えたが、数日後、腎不全で亡くなった。17歳の誕生日を2か月後に控えていた。

 姉と弟の病名がわかった後、咲良さんは小学校の授業でこの病気について調べることにした。「じゃあその病気は何なんだろうって。知らないと怖いというか、知らないといけないと思った」という。「楽しいことをしないと。つらいことばかりではだめだな」とも考えるようになった。千晴さんが亡くなった時、美乃里さんは10歳だった。体から伸びるチューブや酸素マスクの意味が十分に理解できなかった。写真の中の姉を見て、改めて「つらかったろうな」と思う。弟には「病気を理由に、できることまでおろそかにしてほしくない」と考えている。「『いただきます』ぐらいは言えるようにね」。母親の膝の上でうたた寝する弟を見て言った。それぞれがこの難病と向き合ってきた。

母の幸せ

 今月に入り、医師ら3人の研究グループが同病の実態調査を始めた。小児科がある全国約1500の医療機関を対象に診療経験の有無を確認し、当事者の受診状況を把握したり、血液情報の提供を求めたりしていくという。メンバーの一人で東京科学大学大学院生の矢吹真菜さんは「当事者が必要な検査や適切な治療を受けられるよう、ケア指針の策定を目指したい」と話す。

 彪士朗さんはこの冬で16歳になる。ここ数年は腎機能の悪化や高血圧も気になり始めた。家族は塩分やカリウムの摂取に気を配る。同じ15歳ですでに腹膜透析をしていた千晴さんに比べ、腎機能はそこまで悪化していない。夜、寝ている息子をぎゅっと抱きしめて眠るのが母の幸せだ。「この時間が長く続けばいいのに」。心からそう願った。