■世界が注目した「戦争宣言」は登場せず

ロシアのプーチン大統領が5月9日の対独戦勝式典で行った演説は、ウクライナ侵攻を正当化し、攻撃継続を表明したが、「戦争宣言」や「東部2州併合」には触れず、新味はなかった。戦況はウクライナ軍が東部一帯で反撃するなど、クレムリンが手詰まり状態にあることを示唆した形だ。

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第二次世界大戦の犠牲になった人々の肖像画を掲げ、対ドイツ戦勝式典に出席するプーチン大統領=5月9日、モスクワ - 写真=EPA/時事通信フォト

戦闘がさらに泥沼化し、長期化するなら、ロシア国内で厭戦気分が生まれる可能性がある。新機軸のなかった演説を受けた今後の焦点の一つは、政権を支えるエリート層の動向だろう。

■怪死が相次ぐのは「政権の終わり」の兆候?

ロシアでは、長期政権が終わりに近づく頃、謎めいた事件が起きるジンクスがある。

300年に及んだ帝政ロシア・ロマノフ王朝末期、謎の怪僧ラスプーチンが皇帝一家に取り込み、皇帝を動かして国政を左右したが、1916年に貴族らに殺害され、翌年帝政が倒された。

30年近く続いたスターリン時代末期にも、ユダヤ人医師多数がソ連指導者暗殺を企てたとして逮捕される不可解な医師団陰謀事件が発生、新たな粛清かと恐怖を呼んだ。

18年続いたブレジネフ時代末期にも、ブレジネフの長女が関係するサーカス団幹部の汚職事件や、それに絡む旧ソ連国家保安委員会(KGB)ナンバー2の怪死が起きた。

ソ連邦が解体した1991年にも、内相や元参謀総長の自殺、共産党の財務部門担当者3人の怪死があった。

これらはいずれも、ロシアのエリート層を動揺させ、時代の終わりを印象付けた。ロシアの歴史を動かすのは、昔も今も庶民ではなくエリートだ。

現在のロシアでは、ウクライナ侵攻と並行して、オリガルヒ(新興財閥)や政府高官の不審死が頻発している。5月初めまでに8人が死亡。警察はいずれも自殺とみているが、不可解な点も目立つ。エリートの連続怪死は、22年に及ぶプーチン長期政権が「晩年」に入ったことを示唆しているのだろうか。

■「突然死は大統領の承認済み」という投稿も…

不審死は開戦前の1月末から起きており、天然ガス大手、ガスプロム関係者が4人、医療会社経営者やレストラン・チェーン経営者も死亡した。うち3人は一家心中とされ、別荘や自宅で家族ともども死んでいるのが発見された。5月8日には新たに、大手民間石油会社ルクオイルの元幹部がモスクワの霊媒師の自宅で死んでいるのが発見された。

報道統制下にあるロシアのメディアは事実関係しか報じていないが、ガスプロムバンク元副社長のアバエフ氏は、情報機関の特殊部隊が使用する銃で撃たれていたため、憶測を呼んだ。

ガスプロム関係の4人は主に会計部門を担当しており、政権の汚職・腐敗をめぐる機密を知っていたとの見方も出ている。

ロシアの情報交流アプリ「テレグラム」に「SVR(対外情報庁)将軍」の名称で投稿する謎の人物は5月2日、「ガスプロムバンク関係者の突然死は、プーチン大統領の承認を得て、ボルトニコフ連邦保安局(FSB)長官とパトルシェフ安保会議書記のイニシアチブで始まった。昨年末、ガスプロムバンクによる情報機関の秘密工作への資金提供について、情報漏れや横領に関する情報が大統領に報告されたことが発端だ」と書いた。

しかし、ロシアと欧米間では激しい情報戦が行われており、投稿はロシアを揺さぶるフェイクニュースの可能性もある。正確な情報に乏しく、相次ぐ猟奇的事件の真相は謎のままだ。

■エリートたちが悟った「オリガルヒ帝国」の終焉

ウクライナ侵攻が長期化する中、ロシアで反戦志向が最も強いのがオリガルヒだ。

「アルミ王」のデリパスカ氏、アルファ銀行のフリードマン会長はともに侵攻を「狂気」と非難した。オンライン銀行を創設したティンコフ氏は「大虐殺であり、狂った戦争だ」と反発した。今回死者を出したルクオイル社も「即時停戦」を求める声明を出した。

大統領の古い友人であるチュバイス大統領特別代表やドボルコビッチ元副首相らも戦争に反対し、要職を辞任した。

米紙ワシントン・ポスト(4月29日)によれば、開戦後、戦争に反対して職を辞し、出国した政府高官は4人、ロシアを去ったオリガルヒも4人という。

複数のオリガルヒや政府高官は同紙に対し、「大統領は孤立を深め、周辺の側近は強硬な治安機関出身者(シロビキ)に支配されている。外部から大統領に影響力を与える力は全くない」と述べた。

2月24日の開戦から数時間後、企業経営者ら27人のオリガルヒがクレムリンに招かれ、プーチン大統領と会見した。事前に予定されていた面会に2時間遅れて登場した大統領は、「あれ(侵攻)以外に選択肢がなかった」と述べた。企業経営者らは押しつぶされたように黙り、「ロシアが市場経済に移行した後、30年にわたって築いた帝国が終わったことを悟った」(同紙)という。

■反戦派の富裕層を「人民の敵」呼ばわり

プーチン大統領は富裕層の反戦機運を最も警戒している。3月16日のオンライン演説で、「欧州に豪華な邸宅を持っていても非難はしない。問題は彼らの心が欧米側にあることだ」「西側は第五列をロシアに送り込んで、国家の分断を図ろうとしている」と述べ、離反者を「裏切り者」呼ばわりした。

「第五列」とは、スターリン時代に「人民の敵」として粛清された共産党幹部らに押された烙印だ。「プーチンのスターリン化」(政治評論家のパブロフスキー氏)を思わせるすさまじい比喩だった。

政権によるオリガルヒへの締め付けも、8人の富裕層連続怪死につながる政治的背景にあるかもしれない。

プーチン政権の標的は主に、90年代のエリツィン時代に富を築いたオリガルヒであり、政権発足後に利権を握ったサンクトペテルブルク出身のオリガルヒとは異なる。

「大統領の金庫番」と呼ばれ、ガス大手ノバテク大株主のティムチェンコ氏、ロシア銀行大株主のコワルチュク氏、大統領の柔道仲間で建設業などを営むローデンベルク兄弟らは、プーチン氏のおかげで超富裕層になっただけに、戦争には沈黙を貫いている。

ただし、ロシアに約250人いるとされるオリガルヒの大半は、欧米諸国の制裁で資産を激減させており、ビジネスの立場から停戦を望む点で一致する。政権を支える親プーチン派オリガルヒが、大統領に停戦を進言するかどうかも注目される。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Andrey Danilovich

■強気発言とは裏腹に国内経済は混迷している

欧米の経済制裁で、ロシア経済の苦境も長期化しそうだ。通貨ルーブルは侵攻直後暴落したが、政府が輸出企業に対し、外貨収入の8割をルーブルに両替するよう義務付けたため、持ち直した。

プーチン大統領は、「西側諸国の経済的な『電撃戦』は効果がなかった」と強調し、インフレやエネルギー不足で苦境に陥ったのは西側経済だと皮肉った。

しかし、ロシアの3月の消費者物価指数(CPI)は前年比で16.69%上昇。首都では今後20万人が失業するとソビャーニン・モスクワ市長が警告した。世論調査では、43%の国民が「貯金ゼロ」と答えており、インフレが庶民生活を直撃している。ロシア人は90年代のハイパーインフレの経験から、現金を消費に回す傾向がある。

■損失が増えれば“反プーチン”に転じる可能性が高い

独立系世論調査機関のレバダセンターによれば、ウクライナ侵攻への支持率は4月末に74%で、1カ月で7ポイント下落した。82%が「ウクライナ情勢を懸念している」と答えた。

国内での反戦運動は下火になったが、開戦後、推定30万人のロシア人が、戦争反対や生活苦、ビジネス活動への支障を理由に、旧ソ連諸国などに脱出したとされる。IT産業などに従事する若い知識層が大半とされ、有能な人材の流出につながっている。

開戦後、大統領に辞任を申し出ながら、説得されて撤回したナビウリナ中央銀行総裁は議会で、「制裁の影響はまだ完全に表れていない。製造業では供給が不足し、輸入消費財の備蓄も減少している」と述べ、「最悪の事態」がやがて来ると警告した。

前出のワシントン・ポスト紙によれば、「ロシアのビジネスエリートは開戦後、恐怖で凍り付いたままだが、戦争が長引き、彼らの損失が増えると、政権に反発する可能性が高まる。ロシア軍が天王山のドンバス決戦に失敗するなら、ロシア国内で大きな戦いが起きるとエリート層の間で語られている」という。

戦争長期化で、「プーチン対ビジネスエリート」の対立構図が生まれつつある。

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名越 健郎(なごし・けんろう)
拓殖大学特任教授
1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。2022年4月から現職(非常勤)。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『独裁者プーチン』(文春新書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミア新書)などがある。
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(拓殖大学特任教授 名越 健郎)