同居を受け入れてくれた妻だけど…母を「こき使いすぎ」かもしれない 弟まで誘惑?「あの嫁には気をつけろ」50歳夫の違和感
【前後編の前編/後編を読む】要介護の母の体に「つねられたような痣」、妻を見るとおびえて…それでも離婚できない50歳夫が年下女性と続ける「ベッド以外のデート」
世の中には結婚と離婚を繰り返しながら、妙に前向きに生きている人たちがいる。一方で、「どうしても合わない」と感じるパートナーと離婚だけはしない、できないと思い込んでいる人たちもいる。何に価値観を置くか、変化を望むかどうかなど、その人の生き方に起因するところは大きいのかもしれない。
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「結婚したら離婚はしたくない。ずっとそう思って生きてきました」

野川剛徳さん(50歳・仮名=以下同)はそう語る。長年、建設現場で働いてきたため、頑丈そうな体躯にこめかみの白髪が渋く、「イケオジ」風だが、「小心者のダメオヤジです」と照れたように笑った。
浮気とギャンブルに生きた父
剛徳さんは、とある地方都市に生まれた。男ばかり4人兄弟の長男で、彼が10歳のとき両親は離婚した。父親の浮気癖とギャンブル好きに、母親がとうとう見切りをつけたのだ。
「浮気にギャンブルというと、とんでもない父親みたいですが、実は僕は父が好きだった。母に泣かれるとひたすら謝って許しを乞い、ギャンブルで勝つと家族で鮨屋に行って大盤振る舞いしちゃう。自分の欲望に忠実というか、ノーテンキに生きているだけというか。大人になってみると羨ましい生き方だったなと思います」
離婚後も、父はよく子どもたちに会いに来た。母が仕事で留守のとき、「これをおかあさんに渡して」と分厚い封筒を受けとったこともある。中にはかなりの金額の1万円札が入っていた。
「結局、父は僕が高校生のころ野垂れ死にしました。競馬で大負けして、その帰りに道端で倒れて、意識が戻ることなく亡くなった。本人としては本望だったのかなあ。父が死んだとき僕が18歳、弟たちは17歳、双子の14歳。すぐ下の弟は、なぜか父への恨みを抱えていましたね。あんな最低の男と結婚した母も悪いと、直に母を責めているのを見て止めたこともある。同じ兄弟でも親への思いはまったく違うのが興味深い」
母と弟たちを支えた日々
剛徳さんは高校を卒業すると、都内の建設会社に就職した。体は頑健で、体力にも自信があったから、現場で必死に働いた。その一方で20歳のころから専門学校に通い、建築のノウハウも知識として身につけた。
「職場の寮に住み、家にも25歳になるまで仕送りしていました。すぐ下の弟は高校を出ると北海道に移住、ほとんど連絡はとっていません。双子のほうは、ひとりは奨学金を借りて大学を出て、もうひとりは働きながら夜間、大学に通ったようです。まあ、みんなそれぞれ生きる道を見つけて、母もホッとしていたようです」
ホッとしたとたん、母が大病を患った。25歳の剛徳さんは母を引き取り、社宅でともに暮らすことを選択した。
「気づいたら30歳になっていました。その間、結婚相手も見つけられなかった。何度かつきあったことはあるんですが、給料も多いわけじゃないし、スマートな言動で女性を喜ばせることもできないし、そのうち母親と暮らし始めちゃったんで、自分でも恋愛はあきらめていたところがありますね」
無骨で実直、だが心根は優しい。こういう男性こそ夫としていいのではないかと思うが、若い女性に彼のよさは見抜けないかもしれない。
母との同居を受け入れた女性
30歳のとき、仕事関係の知人に紹介されたのが同い年の由利さんだった。20代半ばで1度結婚しているが、うまくいかずに半年で別れたという。そういう人だけど、母親との同居も承諾している、とにかく会ってみないかと言われて、剛徳さんは会うと即答した。
「変ないい方ですが、完璧な人生を歩んできた人より自分には気が楽なんじゃないかと思って……。でも本当に母親と同居してもいいと言っているのか。母はすっかり元気にはなっていたけど、この先、どんどん老いるだけ。彼女はそんな“他人”と一緒に住めるのか。そこは不思議だった。だからとにかく会ってみようかと」
会ってみると、「ごく普通の女性でした」と彼は言う。何度かデートを重ねて、トントン拍子に結婚が決まった。
「結婚するとき、本当にこれでいいのかなとちょっと思ったんです。もう少しお互いを知ったほうがいいのではないかと。でも彼女は子どもがほしい、楽しい家庭を作りましょとやけに前のめりだった。僕に財産があるわけでもないし、そこまで言ってくれる人にはもう巡り会えないだろうと結婚を決めたという経緯があります」
違和感を抱えたまま結婚へ…
どこか違和感を覚えつつ、だからといって失うものがあるわけでもない。撤退するより前進することを選んだと彼は言う。母は、「最初は別居したほうがいいんじゃないかしら」と言っていたが、何度か会ううちに由利さんとすっかり仲よくなっていた。
「共働きで子どもを育て、10年たったら家を買おうというのが僕らの目標になりました。由利も仕事を続けたので、家事は全面的に母がやってくれた。僕は気づかなかったのですが、由利は、穏やかな言い方ながら、かなり母に無理を強いていたようです。毎日の僕らの弁当作りをはじめ、クリーニングに出すとお金がかかるからとアイロンがけも頼んでいた。でもアイロンがけは由利が自分でやっているように僕には言っていました。母は『初めて娘ができたみたいでうれしい』と言っていたので、僕には愚痴を言いづらかったんでしょう」
2年後に男の子、その2年後に女の子に恵まれた。いずれも0歳から保育園に預け、由利さんは職場復帰している。その分、母に負担がかかっていたことをもっと真剣に考えるべきだったと剛徳さんは後悔しているそうだ。
「母が楽しそうに孫育てをしているように見えたし、元気だったから……というのは言い訳ですね。由利はいつも大げさなほど、母に感謝の気持ちを伝えていた。母が断れない性格だと織り込み済みだったんでしょう。母は本当に疲れていたんだと思う。下の子が3歳になったころ、母が倒れたんです。当時、60代でしたけど過去に大きな病気もしているし、具合が悪いときもあったんでしょう。でもそれを見せずにがんばってくれた」
家事と育児を背負った母
2ヶ月ほど入院し、その後はリハビリ病院に転院した。その間、剛徳さんと由利さんは保育園への送迎を始め、必死で家庭を維持したという。がんばればがんばるほど、こういうことを母ひとりでやっていたのかと後悔が募った。
「母が退院できることになったとき、僕は、ここへ戻ってきたらまた大変な思いをする。母自身も今は身の回りのことがやっとできる程度だから、いっそ施設に預けたほうがよくないかと言いました。すると由利は『それはかわいそう。やっぱり家族と一緒にいるのがいちばんだと思う』と。母も帰りたいというし、じゃあ、とにかく母がいなかった間に僕らがしていたことは継続、母に負担をかけないという約束で、また一緒に暮らすようになりました」
「あの嫁には気をつけたほうがいい」
ところが由利さんは時間がたつにつれ、母に家事を頼むようになっていたようだ。剛徳さんの知らないところで、「母をこき使っていた」らしい。そのあたりは由利さんと剛徳さんとでは気持ちの違いがあるとは思うが。
「ちょうどそのころだったかなあ、双子の弟の片割れが母に会いに来たことがあるんです。彼も結婚が決まったので相手も一緒に来て、母を囲んで夕飯をデリバリーでとって、にぎやかでした。ところが数日後、その弟から連絡があって、『兄ちゃん、あの嫁には気をつけたほうがいいかもしれない』と。どういう意味かと聞いたんですが、あまりはっきり言ってくれなくて。根掘り葉掘り聞き出したら、どうやら弟を誘惑したとか。ちょっと信じがたかったから、心に留めておくと言って電話を切ったんですけどね。弟は嘘をつくようなヤツではないから気にはなりましたが」
そこで剛徳さんは、子どもが生まれてからの夫婦関係を思い返してみた。母が中心になってくれていたとはいえ、夫婦もとにかく忙しかった。あっという間に経つ時間に、棹さすように流されてきた。
「子どもたちの七五三のお祝いをした翌日、母が倒れたんです。そこから遡っていろいろ考えたけど、日々のルーティンの中であった些細なことなどはあまり覚えてなくて。僕はもともとどこか妻を全面的に信頼できない何かを自分の中に抱えていた。それが弟の言ったことと一致しているのかもよくわからない。女を武器にするタイプではないと思うし、弟を誘惑して得することもないでしょうし」
妻に確認することもないまま、その話は消えていった。
彼が40歳を迎えるころ、母は次第に横になることが増えていった。
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剛徳さんが妻に抱いていた違和感は、思いがけない形で深まっていく。記事後編では、露わになった夫婦の亀裂と、剛徳さんが由利さんとは別の女性に抱いた思いを紹介している。
亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部
