来日公演を巡り大騒動に

写真拡大

世紀の来日

 本年は、ザ・ビートルズの来日60年にあたる。1966年6月30日から7月2日にかけて、2回の追加公演をふくむ計5公演が開催された。

【写真で見る】「ペートルに武道館は使わせん!」日本武道館会長を直撃

 当時のビートルズの人気ぶりは、いまの方々には想像もつかないであろう。1962年に《ラヴ・ミー・ドゥ》でデビュー以来、母国イギリスはもとより、すでに全世界で熱狂的な人気となっていた。そんな彼らが、いよいよ日本へ来る。5回の公演チケットは抽選で、応募ハガキは21万通に達した。ひと目ビートルズを見たいと、チケットもないのに地方から東京に家出してくる少年少女が続出し、社会問題にまでなっていた。

来日公演を巡り大騒動に

 会場は、1万人収容の日本武道館。1964年の東京オリンピックに際し、柔道の会場として建設された“武道の聖地”である。ところが……そこを、ポップス公演に使用するとは何事かとの声があがった。特に右翼陣営は意気軒昂で、赤尾敏総裁率いる大日本愛国党に至っては「ビートルズを日本から叩き出せ!」をキャッチフレーズに、派手な街頭演説を繰り広げていた。

 いまでこそ、日本武道館は巨大コンサート会場として認知されているが、当時はまだ、海外アーティスト公演の使用例はなかった。そもそもビートルズを、“不良の象徴”と見るおとなも多い時代である。辛口のTV番組「時事放談」で、政治評論家・細川隆元が「乞食芸人ごときは夢の島でやれ」と“暴言”を発し、抗議が殺到する騒ぎまで起きていた。

 なかでも問題となったのは、当の日本武道館会長・正力松太郎氏(1885〜1969)の「あのペートルなんとかちゅうのは、ありゃなんだね。(略)そんなもんを武道館に入れるわけにはいかんよ」との発言だった(「サンデー毎日」1966年6月12日号)。

 この発言は、予想以上の反響を巻き起こした――《正力氏の横ヤリでテンヤワンヤ/武道館は使わせん/代案・後楽園球場も難航か》(「東京中日新聞」1966年6月2日付)、《ビートルズ公演中止か/佐藤首相も難色/会場難で暗礁へ》(「デイリースポーツ」1966年6月5日付)……。

 ところが、この正力松太郎というひとは、読売新聞社の社主にして、日本テレビの創設者でもあった。実はビートルズ公演は、その読売新聞社が主催で、しかも日本テレビが実況中継することになっていたのである。そのため、事態はいっそうややこしくなった。“日本のメディア王”は、この騒ぎにどう収拾をつけるのか――週刊新潮が、さっそく正力氏に話を聞きに行った。

「武道館はいかん。後楽園でやれ」

 その週刊新潮の記事は、《もみにもんだビートルズ会場 日本武道館使用の理屈と対面》(1966年6月25日号)と題されていた。正力松太郎会長の“大演説”が載っている。

「僕の知らないうちに、読売で(ビートルズ公演を)武道館でやると決めてきた。だから僕は、いったよ。武道館はいかん。後楽園でやれといったんだ。なんとなれば、武道館は僕が作ったもんだよ。あれは武道の殿堂だよ」

 正力氏は、週刊新潮の取材に対し、まことに堂々と応じている。ちなみに、この当時の大御所たちは、ほとんどが「ビートルズ」といえず、「ピートル」とか「ペートル」といっており、グループ名なのか個人名なのかも理解していないようなので、ご了承を。

「ピートルなんかは、とかくのウワサもあるんじゃないか。前に読売でね、ピートルが結婚したと書いたら、間違いだと女が十人くらい泣いて押しかけてきたというんだ。そういう相手だ。日本の女もしょうがないねえ。とにかく、読売新聞の社主は誰だい? 僕だよ。武道館の会長も僕だよ。それで、武道館のためによくないことが、できるかい。それに、僕は読売の社主だけど、あれ(ビートルズ公演)は僕の承知して決めたことじゃない。だから、他の場所をさがせ、といったんだよ」

 かくして正力社主の命令で、読売社内では、武道館使用は撤回の方向で再検討に入った。記事には、読売新聞社のM企画部長のコメントもある。

「ビートルズファンが不安になっちゃうんですよね。なにしろ、ここの読売事業部の電話が朝から晩まで鳴りっぱなしで、仕事にならん状態だった」

 さらに正力氏あての抗議の手紙も殺到した。それでも正力氏は、武道館を使わせたくなかった。気の毒なのは、招聘実務を担当した協同企画(現・キョードー東京)で、“日本初のプロモーター”として知られる永島達司社長自ら、会場についての再検討の相談のため渡英するありさまだった。

 ところが、そんなすったもんだがつづいているうち、正力氏は、

「それでロンドンへ交渉に行かしたんだが、アメリカではカーネギー・ホールでもやってるというし、露天じゃ無理で、そうすると、ピートルは広い場所ないし、来ないっていうんだ。そこで、僕もしようがないからね。聞けば、英国の勲章もらっとるというし、武道館の本義がそこなわれなければいい」

 と、意外とあっさり折れてしまうのだ。

「ピートルスというのは……」

 そして、6月10日の読売新聞紙上に、「ザ・ビートルズ日本公演について」と題する、異例の「社告」が掲載される。

〈今回のザ・ビートルズ公演に際し各方面に多大な反響をおこし、また種々の報道などにより各位に対しご心配をかけましたが、公演は予定通り日本武道館において、6月30日、7月1日、2日の3日間行います。〉

 このような社告が全国紙に載るとは――武道館使用に関して、いかに騒ぎが大きかったかを示しているといえよう。

〈このたびの公演に日本武道館を会場としたことについては、日本武道館本来の使命に反するとの正力日本武道館会長の意向もあり、会場を変更すべく数回にわたってビートルズ側と折衝、このためロンドンへ責任者(永島達司氏)を派遣、協議の結果、1万人以上の観客を収容する完備した屋内会場は他になく、(略)再三武道館側と折衝の結果、日本武道館の同意を得て決定したものです。〉

 さらに社告の横には、日本武道館理事長・赤城宗徳(自民党政調会長)の署名入りで、下記のような《声明》なるものが、仰々しく掲載された。

〈このたび女王から勲章を受けられた英国の国家的音楽使節、ザ・ビートルズが読売新聞社の招きにより、初めて日本で公演することになりました。(略)しかし武道館側としては、武道振興の殿堂であり、青少年の心身錬成の道場でもあるので再三おことわりしましたが主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請がありましたので、諸般の情勢を検討した結果、その使用を許可することにしました。〉

 そこで週刊新潮は、今度は、この声明を発した赤城宗徳理事長にも話を聞きに行っている。

〈「僕もペートルズなんてのは知らんから、そりゃ何だと聞いたら、英国から勲章もらった歌手だっていうんだね。僕は、それじゃ芸術家じゃないか、といったんだがね。(略)ペートルズっていうのは、若い娘が騒いでたいへんだっていうことだがね。気絶するのもいるって? 気絶するほど感激するっていうのは、芸術として最高じゃないか」〉

 さらに、武道館の木村篤太郎副会長(元参議院議員)にも話を聞きにいった。すると、驚くべき“上から目線”で……

〈「ピートルスというのは、男が4人おるそうだが、とにかく、何者かわからんが、こいつをひとつ、日章旗のもとで試験的にやらせてみよう、ということだな。(略)音楽というのは、静かに聞くもんで、泣いたりわめいたりバカ騒ぎをするもんじゃない、ということを教えるんだな。開演の前にワシが説教してやったら、静かに聞くかもしれんね。それができんヤツは、たたき直さなきゃいかん。どうしてもおさまらんようなら、ホースで水をかけて冷やしてやればいいよ」〉

 というわけで、おそらく、あまりの世間の反響の大きさに、大御所たちも折れざるを得なかったという感じだ。そして正力会長の“最後っ屁”を。

〈「武道館を使わせる。ただし、声明を出して、武道館の精神を明確にする。ま、こうして、ああいう社告を出したわけだが、両方(読売も武道館も)立場が立って、円満に解決したわけだ」〉

ビートルズをアテンドした、JALのCA

 そんな騒ぎがおきているころ、日本航空国際線ホステス(当時の名称。現在のCA=客室乗務員)、川粼聡子さん(25歳)は、コペンハーゲンからアメリカ・アラスカ州のアンカレッジへ移動していた。

 当時の週刊新潮には《週間日記》というコーナーがあった。各界のひとが、先週1週間の出来事を日記形式で公開する欄だ。現在の長期人気連載《私の週間食卓日記》の原型である。1966年7月16日号(7月9日発売)の同欄に登場したのが、この川粼聡子さんだ。タイトルは《ビートルズと飛んだ7時間》(以下、抄録)。

〈【日曜日】私たちの便にビートルズが乗ってくるというスケジュールを知ったのが、ちょうど1か月前。当時、ビートルズのレコードをほとんど買い込んでいたファンの私と違って、同僚の2人はまるで関心がなかった。〉

 水曜日、川崎さんはDC8型機で、アラスカ・アンカレッジ空港に着く。この当時は東西冷戦の真っ最中で、旧ソ連のシベリア上空は、安全保障上、通過できなかった。また、当時の航空機は燃費が悪く、ヨーロッパ主要都市から無給油で日本へ直行できる便はない。そこでシベリア上空を避ける北極圏まわりの航路は、必ずアンカレッジを経由し、給油していたのである。よって当時のアンカレッジ空港と周辺は、深夜営業の飲食店などでにぎわっていた。西ドイツ公演を終えたビートルズは、ここから日本航空412便に乗って、東京へ向かうという。このとき東京を台風が通過しており、出発便は10時間遅れとなった。

〈【木曜日】東京を台風通過の情報とともに午前1時、アンカレッジ発が決まる。離陸直前に、パトカーの先導で空港バスがタラップに横付けした。/あっという間に、ジョン、ジョージ、リンゴ、ポールの4人と関係者7人、計11人が機上の人となった。/機内前部のファーストクラスの席に、ジョージとポールが前に、その後ろの席にリンゴとジョンが並ぶ。〉

 そのとき、ファーストクラスには、ほかに8人の一般乗客がいたが、

〈周囲の座席にいる乗客が、まことに平静で無関心なのは予想外だ。(略)それにしてもビートルズ4人はひどく疲れている。これから東京までの7時間、とにかくそっとしてあげたいと思う。〉

豆粒のようだった、たった35分の来日公演

 やがて4人は仮眠を終えると元気を取り戻し、ウイスキー・コークなどを注文する。

〈4人はラウンジに出てカードを始めた。周囲の乗客に気がねしてか、ごく静かなゲームぶりだった。ラウンジでも、ウイスキーのお代わりの注文をさかんに受ける。特にポールのアルコールの強いこと。それにしても、彼らの英語は聞きとりにくい。アメリカ英語に慣れた私の耳は、英国リバプールなまりのある発音には、ちょっと弱い。〉

 412便は、午前3時39分、無事に羽田空港に着く。勤務を終えた川崎さんは、午前7時、目黒の下宿に帰宅し、夕方まで寝た。ところが翌朝には、新聞や雑誌から取材の電話が殺到。なんとか対応していると、友人から、ビートルズ公演のチケットをプレゼントするとの連絡が。

〈【土曜日】午後2時、ビートルズ公演会場の武道館へ。席は前のほうだったが、豆粒ほどにしか4人が目に映らない。それもワーワー、キャーキャーの黄色い喚声で、ちっとも聞きとれない。7時間、身近に過ごした一昨日に比べて、なんと疎遠に感ずることか。〉

 公演終了後、表に出るが、車の行列と渋滞でタクシーも拾えない。川崎さんは、この日記を、以下の一文で結んでいる。

〈ここ数日、ビートルズ旋風にうかされていた夢から、やっと交通地獄の激化した東京の現実に引き戻された。〉

 ちなみに公演内容は、各回、前座が50分。ビートルズは12曲、たった35分の出演であった。

(参考資料:大村亨『「ビートルズと日本」新聞が見た来日協奏曲』シンコーミュージック・エンタテイメント刊)

※記事本文の引用は、明らかな誤記のほか、主旨を変えない範囲で一部表記を修正しています。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部