広島で活躍した川端順さん【写真:山口真司】

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元広島の川端順氏は鳴門高1年から甲子園出場のチャンスをつかむも届かず

 元広島投手の川端順氏は現役時代、パームボールの変型「バターボール」を武器に先発、中継ぎ、抑えもこなした。当時の投手陣には欠かせない存在だったが、鳴門高時代は徳島県屈指の本格派投手だったにもかかわらず、プロなんて思ってもいなかったという。「大学に行って、いい就職ができたらいいな、くらいしか考えてなかったですからね」。そんな中、プロ2球団から誘いがかかっていた。ところが、川端氏はその事実を全く知らずに高校を卒業していた。

 川端氏の夢は甲子園出場だったが、実現できなかった。チャンスはあった。レギュラー三塁手だった鳴門高1年夏(1975年)は南四国大会決勝に進出。3年生エースに、後に近鉄入りする住友一哉投手を擁し「いきなり1年で夢がかなうかと思ったんだけど、2-0の9回に2アウトから追いつかれて延長10回に勝ち越されて負けた。とても残念だったなぁ……」。

 エースで4番の2年秋は徳島大会を制して、四国大会に進んだが、1回戦で安芸高(高知)と延長18回1-1の引き分け。再試合では5-6で敗れた。「ひとりで27回投げたかな。精神力が弱くて、体力がなかったってことだね。再試合はボールも本当のキレがなかったんだろうね」。3年夏は南四国大会まで進んだが、準決勝で高知高に3-4。「確か、勝っていたんだけど、終盤にひっくり返された。惜しかったよね。あの時は高知高に勝っていたら、甲子園に行けるんじゃないかと思っていたからね」と悔しそうに話した。

「僕らのひとつ下の世代から夏の甲子園の代表校は1県1校になった。そういう意味でもついてなかったよね」。その後、川端氏は法大に進学することになるが、高校3年の時にプロからの誘いもあった。「僕には内緒で、親のところに中日さんと広島さんから話があったそうです。どちらもドラフト下位か、ドラフト外での話だったと聞きました」。実はこのことを川端氏が知ったのは、法大を経て社会人野球の東芝に入ってからだった。

鳴門高から法大へ…広島など2球団から誘いも本人の耳には入らなかった

「東芝の時、練習試合かなんかのトイレでね、(広島スカウトの)木庭(教)さんだったと思うけど『高校の時、ウチは君を獲りに行っていたんだよ、ドラフトの下の方でね。監督さんにも話したけど、ご両親に断られたよ』って言われたんです。えーっ、そうなんですかって言いましたよ」。その後に中日のことも分かったという。高校卒業後、大学4年間をも通り過ぎて、初めて知った事実。当時はすでに法大進学を決めていたこともあってか、両親だけで判断されたわけだ。

 もっとも、川端氏はこの両親の考えにも納得だったという。「もしあの時、ドラフトで指名されたら迷ったとは思うけど多分行かなかったじゃないかなと思います。僕は小心者だったんでね。今でも石橋を叩いて歩く方で、あの頃の僕もきっと……」。そもそも、その時点ではプロを全く意識していなかった。「野球のおかげで、いい大学に入れたらいいな、いい就職ができたらいいなってしか思ってませんでしたからね」。

 一人っ子の川端氏は当初、徳島から近い関西地区の大学進学を希望していたが「親父(治さん)がせっかくだから離れろって。近くだったら絶対やめて帰ってくるだろうからってね。修業しろって感じで東京に行かされたんです」。甲子園に行けなかったことは悔しくても、高校卒業時にプロに行かなかったこと、誘われたことさえ知らなかったことは何とも思っていない。実際、川端氏がプロ野球入りを真剣に考えはじめたのは東芝入り後のことだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)