信長を演じる小栗旬

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叔父の信長は父のかたきだった

 織田信長(小栗旬)は天下一統の拠点として、同時に、みずからの権力と権威を内外に示すための装置として、琵琶湖東岸の内湖に突き出した安土山(滋賀県近江八幡市)に城を築いた。その安土城がいよいよ完成する。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第25回「変事の予兆」(6月28日放送)。

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 完成を祝う盛大な宴の場で、羽柴秀吉(池松壮亮)は重臣たちのなかにいる織田信澄(緒形敦)に注目し、弟の小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)に告げる。「わしはこの城よりも、信澄さまが上様の大きさを示す証だと思うとる」。そして、信澄の生い立ちについて小一郎に語り出すようだ。

信長を演じる小栗旬

 たしかに、信長と信澄の関係は、叔父と甥ではあるが、普通に考えれば非常に難しい関係であったに違いない。というのは信澄にとって、信長は父の仇だったからである。最初に、なぜ信長が信澄の父の仇になったのか、説明しておかなければならないだろう。

 織田家といっても複数の家があり、信長の家は「織田弾正忠家」といった。その当主の信秀を父に、同母兄弟として生まれたのが信長と弟の信勝だった。ただ、当時の弾正忠家の支配領域は、今川家との争いの最前線にあったため、政治的にも軍事的にも不安定で、家中の意見も分裂しがちだった。

 そんな状況下で天文21年(1552)3月、当主の信秀が数え42歳で病死した。家督は兄の信長が継いだものの、弾正忠家の内部は、信長を立てる勢力と信勝を立てる勢力に分かれてしまい、信勝と彼を立てる勢力は、信長がいる那古野城(名古屋市中区)ではなく、末森城(名古屋市千種区)を拠点に一定の勢力をたもち続けた。

 その後、信長は尾張(愛知県西部)の守護だった斯波義銀をかついで清洲城(愛知県清須市)に入城するが、信勝と彼を支える家臣たちは、あからさまに信長と敵対。ついに弘治2年(1556)8月、稲生(名古屋市西区)で激突した。結果は信長の勝利で、敗北した信勝は信長に恭順の意を示し、ひとまず許された。しかし、やはり兄弟の対立は解消せず、信勝は別の織田家(織田伊勢守家)と組んで信長に対抗しようとした。

弟は謀殺したがその子供は助命した信長

 信長はこの期におよんで、最後の手段に訴えることになった。永禄元年(1558)10月ごろ、まず岩倉城(愛知県岩倉市)を攻略して、織田伊勢守家を追い払った。そのうえで信長は、自分が病に臥せっていると偽り、清洲城に見舞いに訪れた弟を謀殺したのである。

 信長が信勝を呼び寄せたきっかけは、それまで信勝側だった柴田勝家が、信勝の不審な動きを信長に密告したのがきっかけだと伝えられる。『豊臣兄弟!』の第4回「桶狭間!」(1月25日放送)では、信長の目の前で信勝(中沢元紀)が柴田勝家(山口馬木也)に斬られる場面が流れた。勝家が信長に密告したという話が土台になったと思われる。

 信長はこうして実弟を暗殺したのだが、当時、数え4歳だった信澄以下の子供たちは助命され、柴田勝家のもとで養育されることになったといわれる。

 その後の信澄については、ある時期まで一次史料が乏しいので、経歴のアウトラインだけでも示しておきたい。ただ、信長は信澄の父への後ろめたさがあってのことかどうかはわからないが、次第に信澄を重用するようになった。

 信澄は織田家の一門衆だったが、姓は津田姓を名乗った。つまり津田信澄といった。織田家のルーツは近江(滋賀県)の津田郷(近江八幡市)にあり、嫡流以外の一門には津田姓を名乗らせた、という説がある。また、元亀2年(1571)には浅井氏の家臣から織田家に寝返った磯野員昌の養嗣子になっている。

 初陣は天正3年(1575)8月の、信長による越前(福井県東部、南部)の一向一揆征伐で、養父の磯野員昌とともに従軍。信長の祐筆だった太田牛一の『信長公記』には、8月15日に攻撃を開始した秀吉や勝家、明智光秀や丹羽長秀ら、信長の錚々たる重臣たちの名のなかに、磯野員昌や織田信澄の名も見える。

信長と光秀の両者から信頼され

 その後は、明智光秀の丹波(京都府中部、兵庫県北東部)の攻略を救援し、光秀の強い信頼を勝ち取る。それに前後して信澄は、光秀の娘を正室に迎えたが、そのことがのちの信澄の運命を大きく左右することになる。

 光秀との縁は続く。天正6年(1578)2月、養父の磯野員昌が信長に叱責され、高野山へ追放になると、員昌の所領だった近江国高島郡(滋賀県高島市)が、そのまま信澄の所領になった。そこは南方に広がる光秀の所領と隣接していた。

 信長は信澄に、安土城の対岸約18キロメートルの大溝に城を築かせた。これは琵琶湖の制海権を掌握するための戦略で、信長は安土城のほか、光秀の坂本城(滋賀県大津市)、秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)、そしてこの大溝城と、四方に城を配置することで、琵琶湖を完全に自分の掌中においた。また、江戸時代後期に成立した『鴻溝禄』の記述だから信用できるわけではないが、大溝城を設計したのは光秀だといわれる。

 いずれにせよ、年を追うにつれ信澄は、武将として信長の高い評価を得ると同時に、岳父である光秀の強い信頼も勝ちとっていく。

 大坂本願寺への攻撃にも、信長の嫡男の信忠に従って参陣し、天正8年(1580)8月、いよいよ本願寺が明け渡される際には大坂に下向し、本願寺受け取りの検使を務めた矢部家定を警護。以後は大坂に司令官として常駐し、事実上、大坂の地を仕切ることになった。

 信長は大坂を日本一の土地と評価し、いずれ天下を一統した暁には、政権を大坂に置くつもりだったとされる。その大坂をまかされたのだから、信長の信澄への信頼が、いっそう高まっていたことがわかる。

謀反の噂であっという間に討たれた

 そこに天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起きる。

 その直前に信長の命で、京都から堺に向かった徳川家康の接待役を、丹羽長秀と一緒に務めていた信澄だったが、本能寺の変後の混乱のなかで、明智光秀の娘婿であったという事実が、信澄に不幸をもたらすことになった。

 6月3日、つまり変の翌日、信長の三男の信孝を総大将とする軍勢が四国征伐に向かうはずだった。その軍には副将として、丹羽長秀と織田信澄の名もあった。しかし、信長と信忠が討たれ、渡海は急遽中止された。そこまではよかったが、信澄が舅の光秀と共謀して謀反を起こした、という噂が駆けめぐったのである。

 疑いを明白に否定する材料はないものの、信長に大いに目をかけられていた信澄である。いくら舅が謀反を起こすからといって、共謀する動機がない。しかし、信澄が光秀の娘婿であることには変わりなかった。信長は信澄の親の仇だったから、噂がなおさら信じられやすかったのかもしれない。

 疑心暗鬼になった信孝と丹羽長秀は、とにかく真っ先に大坂城(大坂本願寺跡地)の信澄を攻め、討ち取ってしまった。しかも、信孝の命で、その首は謀反人のそれとして堺の町にさらされる、という不幸まで重なった。

 興福寺の僧、英俊が記した『多聞院日記』には、本能寺の変の3日後である6月5日の条に、この日に討ち取られた信澄を指して、「一段逸物也」と書かれている。これは「ほかにないほどの傑物だ」という意味で、その死を惜しんでいる。そんな傑物がどさくさに紛れて殺される。それほど本能寺の変は、武将たちに動揺を強いたということだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部