「少年たちに日弁連がついてから、謝罪はなくなった」 山形中学1年生マット死事件、亡くなった有平さんの父が明かす苦悩 「発狂するように泣き喚いたことも」
【全2回(前編/後編)の前編】
中学生が体操用マットに押し込まれ、窒息死。世間を震撼(しんかん)させたおぞましい事件から33年経てなお、遺族は戦いを強いられている。当時、逮捕・補導された7人のうち3人に、約1億1260万円もの損害賠償金の支払いが命じられた。被害者の父が語る、苦悩の日々。
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【写真を見る】「賠償金1億円を払いたくない」 “元少年”は反省の色を見せていない 亡くなった児玉有平さんのイラストを基に、父が作成したペンダント
その日、山形県新庄市立明倫中学校1年生の児玉有平さん(13)=当時=は、部活動の後、一度帰宅してから英語塾に行くことになっていた。ところが、夜7時を過ぎても学校から帰ってこない。心配になった母親が学校に電話をすると、部活動はとっくに終わっているという。

父の昭平さんが近所を捜索したものの、有平さんは見つからない。不安な気持ちを抱いたままいったん家に戻ると、電話が鳴った。学校からである。午後8時過ぎ、同校の教諭が、体育館の用具室にあるマットに頭から押し込められた有平さんを発見したのだ。
昭平さんは一目散に学校へ向かい、土足のまま体育館に上がり込んだ。床に寝かされていた有平さんを抱きしめると、すでに息はなく、顔は痣だらけで腫れ上がり、にわかには息子だと思えないほど変わり果てていた……。
1993年1月13日に起こった「山形マット死事件」。有平さんの死因は窒息死だった。マットの高さは1.2メートルで、身長1.5メートルだった彼は脛まで埋まっていた。逆さの状態で3時間近く苦しんだとみられている。
「カミさんが仏壇に声をかけるのを聞くのが切ない」
あれから33年、遺された家族にとって、事件はいまだに“進行形”である。7月15日には、遺族が起こした訴訟により、元少年たちに1億1260万円の支払い命令が下されたばかりだ。
「有平は今年47歳です。働き盛りですよ。どんなふうに成長していたか、今の彼に会ってみたいですね。小学校の文集には40代で“映画を作る”と書いていたけど、本当に作っているんじゃないかな」
そう語るのは、現在77歳の父・昭平さんだ。
「有平のことを忘れた日なんてありません。僕が朝起きて一番初めにやる仕事は、仏壇にお線香をともして、ごはんやお茶を下げて、湯飲みや茶碗を洗って、カミさんが新しく供えるための準備をすること。仏壇の横には、アルバムの中からピックアップした写真を写真立てに入れて並べています。カミさんは毎朝、お茶を供えながら“ゆうちゃん”と声をかけているんです。それを聞くのが本当に切ない。その呼びかけ方に、彼女なりの無念さのようなものが感じられますから」
だが、父と母、兄、妹の遺された4人の家族同士で、有平さんの話をすることはあまりないという。
「軽々にできないんですよ。グサッときて、もう精神のバランスが狂っちゃうかもしれないと思うので。事件の後、私たち家族四人は、それぞれ場所は違うかもしれないけれど、ハートの一角が壊れていますよ。それは一生治らないと思う。気分によっても違うんですけど“今これを言われたら正常ではいられないな”ということがあります」
「発狂したように泣き喚いたことも」
そうして、事件後の出来事を振り返る。
「娘が中学生のとき、いろいろ心が揺れ動いて、爆発したのかな。“有名ブランドのスーツが欲しい”と言い出したことがあります。うちのカミさんはその服を買ってあげたのですが、後で聞くと40万円もするものでした。さすがに中学生にはふさわしくないと思って、カミさんにもそう言いました。するとカミさんは“私も最初はそう思ったけど、彼女が欲しいと言っている。有平はそんなことすら何一つできなかったじゃない”とね。僕もそうだな……と思って“買ってあげてよかったね”とカミさんに言い直しました。こういう話をすると、がぜんハートが壊れちゃうんです。車の中で、突然発狂したように泣き喚いたこともありますよ」
そう言うと、昭平さんはペンダントを差し出した。
「これは有平の自画像を基に作った純金のペンダントです。銀座の田崎真珠さんに作ってもらいました。精神のバランスがおかしくなりそうなとき、なんとかして有平と一緒にいたいな、と思ってね。それならペンダントを作って首にかけていたら、いつも一緒にいることになるんじゃないかな、なんて考えたんですよ」
もちろん、ペンダントは特注品だ。
「有平が好きだった手塚治虫さんのマンガには、よくベレー帽をかぶった手塚さん本人が出てくるでしょう。あれと同じで、有平が描いていたマンガにも有平が出てくる。本当に有平そっくりでね。机の引き出しに残っていたマンガの自画像を基に、ペンダントの表面をデザインしたんです。裏面には遺された家族四人の名前を彫りました。表と裏を合わせて、いつも家族五人一緒にいることになる。これを家族みんな、一つずつ持っているんですよ」
「日弁連がついてから、少年の親が謝罪に来ることはなくなった」
あくまで穏やかに語る昭平さん。しかし有平さんの死後、その胸に真の平穏が訪れたことはないのではあるまいか。というのも、事件当時に傷害と監禁致死の疑いで逮捕・補導された、有平さんと同じ中学に通う元少年7人との“戦い”が、現在に至るまで続いているからである。
昭平さんが続ける。
「捜査の初期には、少年たちは事件への関与を認める供述をしていたと聞いています。ただ、夕方に家へ帰ると親から“やっていないと言いなさい”と言われ、翌日になると前日の供述内容を撤回してしまう。そのため、供述調書の作成に非常に時間がかかったと聞きました」
こんなこともあった。
「事件直後、ある少年の父親は花と線香を持って、毎週水曜日に僕の家に来て“申し訳ありません”と謝っていました。有平が亡くなったのが水曜日だったんですよ。それから、別の少年の父親も、床に這いつくばるように土下座をしていた。ところがその後、少年たちが“自分たちは関与していない”と主張するようになると、保護者が家に来ることはパタッとなくなりました。こうした変化が起きたのは、少年たちに日弁連がついてからですね」
「お金が目的ではない」
当時12歳だった少年を除く6人を対象にした少年審判で、山形家裁は3人を少年院と教護院送致の保護処分に、3人を不処分にした。
「少年審判が終わった後、95年に僕らは少年7人を相手に損害賠償請求訴訟を起こしました。お金が目的だったわけではありません。証拠を調べてもらい、公開された法廷で有平に何が起きたのか確定させたい。それが一番大きな理由でした」
昭平さんにとって、切実な事情があったのだ。
「当時の少年法では、僕ら遺族は少年審判に参加することができませんでした。自分の子どもが亡くなった事件なのに、どのような証拠が出され、誰が何を話しているのか、十分に知ることができなかったんです。だから、僕はその後の民事裁判には必ず出るようにしていました。民事の法廷に出ることは、何が起きたかを知るための数少ない方法だったんです」
そして、この民事裁判こそが、実に奇妙な道程をたどることになる。
後編では、“元少年”の一人に直撃取材を敢行。賠償金を支払っていない理由などについて聞いている。
「週刊新潮」2026年7月30日・8月6日号 掲載
