『宮本から君へ』『ザ・ワールド・イズ・マイン』の鬼才・新井英樹がいま「文鳥」を描く理由…「えぐるのはダメ、安心して読めること」が求められる漫画界に、最新作で突きつける”物語の存在意義”
『宮本から君へ』『ザ・ワールド・イズ・マイン』――人間の暴力や弱さを容赦なく描き、「鬼才」と呼ばれてきた新井英樹さんが、新連載で選んだ題材は「文鳥」だった。7月10日に単行本第1巻が発売された『ピとポとまちながら』は、殺しを生業とする男と、彼が飼う小さな鳥の日々を追うサスペンスだ。なぜ今、壊れやすい小さな命を物語の真ん中に据えたのか。本人に聞いた。
「作品ではなく商品が欲しい」
始まりは、ある編集部とのやりとりだったという。新井さんがもともと描こうとしていたのは、まったく別の物語だった。
「最初は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を60代でやりたかった。当時、20代の男の子や女の子が、何者にもなれないと目の前で悩んで泣き出すのを見て、それ知ってる、と思って。今の自分なら、その頭を撫でてやる漫画が描けると」
ところが、その企画は2度、3度とボツになる。腹を立てた新井さんは「はっきり言ってくれ」と迫った。返ってきたのは、作品ではなく商品が欲しい、という答えだった。
「商品を狙って漫画を描いたことがない。だったら、やったことがないならやってみる、と思った。でも、好きなものじゃないと絶対に描けない。ぼーっとしていたら、文鳥だったら描ける、と」
文鳥を漫画にするとは、自分でも思っていなかったという。連載前にキャラクターの「練習描き」をしたのも初めて。紙2枚に数個描けば主人公が決まる作家が、半年以上、ひたすら文鳥を描き続けた。
「写真や動画だと止まった画になる。だから、なるべく見て、記憶して描く。今でも、あ、こんな動きをするんだ、というのが毎回ある」
動物を擬人化するな、とはよく言われる。だが新井さんは、文鳥から学ぶことのほうが多いと考えている。「アホみたいに遊んで、ヘトヘトになって寝る。一日一生を、本当にやっているから」
一番泣いたのは、白文鳥が死んだとき
新井さんはもともと、鳥に何の興味もなかった。きっかけは娘である。小学生のころ、漫画『文鳥様と私』にハマった娘が、どうしても飼いたいと言い出した。
「祭りでもらってきた金魚も、もらった以上は生かすからな、と。文鳥も、すぐ死ぬかもしれないけど、ちゃんとやらなきゃダメだよ、と言って飼い始めた。それから家族旅行は一度もしていない」
先代の白文鳥は11年生きた。その死は、いまも尾を引いている。
「自分の父親や母親、仲のよかった義理の父が亡くなったときも泣いた。でも、その比じゃないくらい、白文鳥が死んだときは泣いた」
子育てと鳥は、彼に「自分が一番」を手放させた、とも言う。
「若いうちは悩みが大きくて、自分が一番、というのがでかい。でも子どもが生まれて目の前にしたら、もうその言葉は言えないなと。鳥からは、今これが欲しい、これは嫌だ、というのを汲み取ろうとする。他者の気持ちを汲み取ろうとしたら、喧嘩にはならない」
争う人間と争わない文鳥
この「汲み取る」という感覚こそ、本作の核にある。新井さんは、インターネットが登場したとき「これで人類は終わる」と思い、手を出さなかった。携帯もスマホも、いまだに持ったことがない。
「普段なら絶対に出会えない人と、ぱっと出会えてしまう。人間が体験したことのないことだから、人間は壊れていくと思った。言葉の訓練もしていない人が、言葉まみれになるとどうなるか。それが現状だと思う」
言葉を多く持つ人ほど、語彙力がある、表現力があると称賛される。だが、と新井さんは言う。
「語彙力があって、争っているじゃないか、と。マウントを取る、勝ちにいく。それを言葉でやっているのが問題だなと。一方で文鳥は、言葉が通じないのに、群れの中で喧嘩もせずにやっている。相手が何を考えているかを汲み取っているうちは、争いも起きなくていい」
こんなこともあった。『SPUNK』の参謀とLINEで大喧嘩になり、2日後、険悪なまま顔を合わせることに。妻も外出中で放鳥しなければならず、「ごめん、ちょっと出すから」と文鳥を放した。すると、まだ怒った顔の相手と新井さんのあいだで、文鳥がどこに止まればいいか決めかね、右往左往しはじめる。それを見た相手のほうが、つい「新井さん、ずるい」と折れたという。
意味のない、自分でも意味を込めない話を描きたかった。それでも、描くうちにテーマめいたものが滲み出てくる。言葉をいったん手放してみる――その問題意識の延長に『ひとのこ』『SPUNK』があり、そして文鳥がいた。
文鳥は「暴力」からは線を引いた存在
暴力をなまなましく描いてきた作家にとって、その暴力はもう「衝撃」ではなくなっている。
「暴力は現実に溢れていて、衝撃じゃなくなった。なのにルール上は、あれは良くないものだと思わなきゃいけない。今いちばん隆盛を極めているのは言葉の暴力やネットの暴力なのに、そこはみんな規制しない。規制したふりはしているけど」
かつて自ら漫画化した、山田太一原作『空也上人がいた』を引きながら、施設で暮らした自身の祖母の話もした。「同室の面倒な人は?」と聞いた母に祖母は「やっと死んでくれた」と漏らした――その言葉に、新井さんは深くうなずいたという。
「建前では、人の命は大事だ、死は大きいことだと言われる。でも本当はそうじゃない部分もある。なのに、死んだら追悼しなきゃ、悲しまなきゃいけない、というのが嘘だなと思ったら、命のやりとりが面白くなくなった。死ぬことがすごいんじゃない。それ以上に、そこに起こる感情がすごい」
だからこそ、文鳥にだけは線を引く。
「文鳥には指一本触れない、と決めている。自分が漫画に描くと、それが本当になってしまう気がするから」
主人公にも「殺し屋」という肩書きをつけるのが、本当は嫌だったという。殺すというより、処刑人に近い存在として考えている。そして彼は、いなくなった妻を待ち続けている。彼にとっての妻も、文鳥にとっての「ママ」も同じ、いちばん大事な存在を失った者同士なのだ。
「えぐるのはダメ」と言われる時代の物語の意味
根っこは変わっていない、と新井さんは繰り返す。『宮本から君へ』も『ザ・ワールド・イズ・マイン』も、当時は「全然売れなかった」。後者は何度も打ち切りの話が出て、延命してもらいながら続けた作品だという。
新井さんの妻・入江喜和さんも、漫画家である。手塚治虫文化賞などに輝いた代表作『ゆりあ先生の赤い糸』には、周囲が口をそろえて「これは新井さんだ」と指摘する人物が登場する。物語の冒頭で突然倒れ、意識が戻らないまま、隠していた関係が次々に明かされていく夫――それが、新井さんの分身だというのだ。本人は「何の抗弁もできない自分が、ずっと描かれている」と、怖くて読めないのだとか。周囲は「出ているんだから読め」とすすめるのに。
ボクシングを描いた『SUGAR』『RIN』では、勝ち負けよりも動きの美しさを描きたかった。文鳥は、その延長線上にある。
「癒しを描いている気はない。文鳥で癒すより、美しいものが好きなのは、ずっと変わらない。文鳥の動きがこんなに美しい、というのを、飼っていない人にも届けたい」
一方で、いまの漫画の現場で言われることには、なかなか馴染めない。
「えぐるのはダメ、安心して読めるように、わかりやすく――今はそれを、売れっ子から新人まで前提として言われる。1発目で、これがどういう漫画かを宣言しないとダメだ、と」
それは、自分がずっと嫌ってきたことばかりだ、と。
「だとしたら、物語に触れる意味は何なのか。代わりに、この人がこうなってくれている――そう思って読んできたのに」
それでも、描き続けてきたことを、彼はこう引き受ける。
「売れないで来ているのは、お前は描き続けろ、というなんらかの啓示かもしれない(笑)」
「世界平和がテーマ」と、『ゴドーを待ちながら』
テーマを尋ねると、意外な言葉が返ってきた。
「40代半ばで気づいた。自分は、世界平和がテーマなんだと。この文鳥の話も、たぶん一番それに近い話になる」
『ザ・ワールド・イズ・マイン』で人の死を描いていたときも、「すごいだろ」と思ったことはない、と言う。現実に起きていることだから、と。
「弱い人から死んでいくのを、みんな無視しているのに、表現でそれを止めるのはおかしくないか、と」
タイトルの『ピとポとまちながら』は、ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』から来ている。
「何かを待っていることって、現実そのものだよな、と。これは、暇つぶしとは違う、心の交流の話。ただ、主人公はその『交流』という意味すら、まだわかっていない」
失踪した妻を探す話になりそうで、ならない。仕事柄、警察にも頼れず、探す術もない。だから、ただ待つ。作中、妻は彼にこう問いかける。すべてを告白し懺悔すれば、許されるのか許されたいのか。許されたら、それで終わると思っているのか――。アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』を引きながら、新井さんは「考えたら終わり、というサスペンス」と言った。
今後は、ハードなアクションも、滑稽なアクションも出てくるという。
「文鳥を怖がらせちゃいけないから、たぶん、歌って踊りながら戦わなきゃいけない」
人間には少し厳しく、文鳥にはどこまでもやさしい。言葉が溢れ、誰もが言葉で勝とうとする時代に、新井さんが小さな鳥に見ているのは、相手を汲み取ることの意味なのだろう。
【『ピとポとまちながら』試し読みはコチラ】
新井英樹
1963年9月15日、神奈川県横浜市生まれ。1989年、『8月の光』でアフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞しデビュー。1993年、サラリーマン時代の経験を基に描いた『宮本から君へ』で第38回小学館漫画賞青年一般向け部門を受賞。最新作『ピとポとまちながら』が月刊コミックビーム(KADOKAWA)で連載中。
【こちらも読む】『アメリカで過熱する「日本のホラー漫画ブーム」の実態…『ルックバック』や『ヘルタースケルター』もホラー扱い、その広すぎる振り幅』
