この記事をまとめると

■他社の工場で作られたクルマを販売していた過去が存在する

■パーツの一部が他社のクルマと構造が似ていたために製造を委託したケースがある

■工場の近さなどを理由に製造を委託したクルマも存在する

他社の工場で作られた特殊なクルマたち

 市販される乗用車は、それぞれのメーカー製と当たり前のように思っている。しかし、過去には他社の工場で製造された車種がある。たとえば、日本車では、ホンダのシティ・カブリオレが、パジェロ製造という三菱自動車工業の子会社で製造された。またトヨタ2000GTは、ヤマハで製造された。

 海外では、ポルシェ914がフォルクスワーゲン(VW)で製造され、メルセデス・ベンツ500Eはポルシェで製造された。背景に、さまざまな事情があったようだ。

 かつて三菱自の子会社だったパジェロ製造(創業時は東洋航空機)は、もと航空機の部品を製造していた。第二次世界大戦が終了すると、SUBARUの前身となる中島飛行機などと同じように、航空機製造ができなくなった。なので、トヨタのトラックや、三菱自のピックアップトラックなどの製造に携わってきた。そこからパジェロの製造を一貫して担うことになり、その後、シティ・カブリオレの製造に携わることになる。

 社名がパジェロ製造になるのはそれからあとのことで、シティ・カブリオレを製造した当時は東洋工機という社名だった。三菱自の子会社になるのはさらにあとで、つまり、シティ・カブリオレを製造していた時代は、クルマの製造技術を売りとして、いくつかの車体メーカーとかかわりをもつ会社だったといえる。

 三菱との関係では、三菱ジープの製造を行っており、それには幌の仕様があった。つまり、鋼板の屋根ではなく、幌を使うオープンカーの製造に手慣れていたといえる。そこから、シティ・カブリオレを市販するに際し、白羽の矢が立ったのだろう。

 ドイツには、カルマンという製造業者がある。ここは量産車をもとにした特別な1台を作るのに長け、もとは馬車の客室を作っていた。車台に架装することで特別な1台を仕立てる技術をもつ。同じことが、パジェロ製造にもいえるだろう。

 トヨタのスポーツカーとして名高い2000GTは、2輪で知られるヤマハが製造した。2000GTに搭載される直列6気筒エンジンはヤマハが高性能化したことで知られるが、ヤマハは車両の製造も担っていた。

 トヨタは、1955年に初代クラウンを売り出し、2000GTの開発を構想した時代、トヨタスポーツ800はあったが、高性能かつ少量生産のスポーツカー開発や製造まで手がまわらなかったといえるのではないか。ヤマハは、トヨタと関係をもつ前に他社とスポーツカーの試作を行っていた。ところが、発表を前に頓挫していた。

 トヨタとヤマハのそれぞれに事情があり、両社が協力することで、世界に誇る日本のスポーツカーが誕生したのである。

のちに生まれる名車の祖となったケースも

 ポルシェ914は、世間では「ワーゲン・ポルシェ」などと呼ばれた。

 1964年にポルシェ911は発売されていたが、それより身近に手にできるスポーツカーとして、914は構想された。構成する部品はフォルクスワーゲン(VW)・タイプ1(通称ビートル)と共通するところがあった。そして、製造はVWで行われたのである。

 それでも、単に安価なポルシェのスポーツカーという価値だけではなく、外観は911とまったく異なるうえ、911が356から継承したリヤエンジン・リヤドライブ(RR)ではなく、914は後輪駆動ながらエンジンをミッドシップに搭載した。

 手ごろさだけでなく、914を選ぶ理由をもたらしていた。この発想は、のちのボクスターでも活かされる。スポーツカーと一言でいっても、価値が多様であることをポルシェは示している。

 ポルシェのかかわりでは、メルセデス・ベンツ500Eがポルシェで製造されていた。今日では、メルセデス・ベンツEクラスと呼ばれる、その初代は、W124の型式名で呼ばれるほど人気を得た。

 メルセデス・ベンツといえば上級のSクラスが主体と考えられがちだが、台数の点で量を稼げるのはEクラスだ。たとえばカンパニーカーとしてはもちろん、ドイツへ行けばタクシーのほとんどがEクラスという位置づけであった。

 そのなかで、500Eは、V型8気筒エンジンを搭載し、その馬力にこたえるようにフェンダーを張り出し幅の広いタイヤを装着できるようにした。

 メルセデス・ベンツにとって米国も本国に加え重要な市場であり、SLの人気が高かった。そうした高性能なセダンが欲しいとの米国消費者の声が、500Eの構想につながったとも伝えられる。

 実現するに際し、メルセデス・ベンツの工場は通常のEクラス製造で手一杯であり、高性能車に長けたポルシェに依頼したといわれる。今日では、メルセデス・ベンツの高性能車はAMGとして知られるが、当時のAMGは、まだメルセデス・ベンツ傘下ではなかった。

 製造にあたっては、両社がともにシュツットガルトを拠点とする地の利もあった。車体はメルセデス・ベンツからポルシェへ送り、そこで製造した500Eを再びメルセデス・ベンツに戻して塗装し、仕上げたとされる。

 両社にとって、ウイン・ウインの事業になった。