医師も患者もベストな意思決定をしていると思われがちだ。しかし、多くのバイアス(偏見)が医療現場には潜んでいるという。より良い選択をするためにはどうしたらよいか。「行動経済学」が合理的な判断を助ける、という大竹教授に話を伺った。

■より良い選択ができる「患者の行動経済学」

最近、医療の現場に「行動経済学」の知見を活かすことで、患者と医療関係者の双方にとってより良い行動を促す研究が世界中で進んでいます。日本の医療界にもその流れをぜひ導入してほしいと考え、複数の研究者たちと協力して、2018年『医療現場の行動経済学』という本を出版しました。

amanaimages=写真

現在の医療現場では、どこでも「インフォームド・コンセント」という手法が取り入れられています。これは医師が患者に治療の内容や、その副作用の可能性などについてきちんと説明し、患者もそれに合意したうえで治療方針を決定するという概念です。

この考え方のもとには「患者やその家族は正確な医療情報を与えられれば、合理的にメリット・デメリットを勘案して正しい意思決定ができる」という前提があります。この前提は伝統的な経済学の想定する人間像が、「高い計算能力を持ち、得たすべての情報を使って自己利益を最大化する正しい決定を下す人=ホモ・エコノミクス」だったことを想起させます。

しかし実際には、生きるか死ぬか、後遺症が残るかどうかの急性期の医療現場で、急を要する意思決定が求められた際に、合理的な判断をできる人はそう多くありません。慢性疾患では治療を先延ばししてしまいがちです。

そこで近年、エコノミクスに大きな潮流を起こし、複数のノーベル経済学賞受賞者を輩出している行動経済学の考え方を、医療に応用しようという流れが生まれてきました。行動経済学では、「人間の意思決定にはバイアスが存在し、一定のパターンに基づき合理的判断から逸脱する」と考えます。意思決定に影響を与えるバイアスは、患者だけではなく、治療にあたる医師にも確実に存在します。患者と医療関係者の双方が、行動経済学の知見を得ることで、よりハッピーな医療に関する意思決定ができるようになるはずです。

■なぜ健康診断をサボってしまうか

例えば、健康診断について行動経済学的に考えてみましょう。多くの人は「健康診断は毎年受けたほうがいい」と考えていますが、つい忙しくてサボってしまったり、面倒な検査項目をパスしてしまう人が少なくありません。

なぜサボるかといえば、健康診断の結果得られるメリットが、すぐに目に見える形では表れないからです。

これは「夏休みの宿題をいつやるか」という問題に似ています。多くの人は夏休みの前半に宿題を終わらせてしまったほうがいいことはわかっていますが、つい目の前の楽しみを優先して先送りしてしまいます。行動経済学ではこれを「現在バイアス」と呼びます。

例えば「今1万円もらうか、1週間後に1万100円もらうか」では前者を選ぶ人が多いのに対し、「1年後に1万円をもらうか、1年1週間後に1万100円をもらうか」では、後者を選ぶ人が多くなります。これは「現在から遠い将来の選択では忍耐強い意思決定ができるが、現在に近い将来の選択だとせっかちになる」というバイアスが人間に存在することを示しています。計画を立てられるけれど実行できないという理由の1つです。

がん検診の例ですが、内閣府の調査では、検診を受けない理由として多くの人が「受ける時間がないから」「健康に自信があり必要性を感じないから」といった回答を寄せています。がんになる可能性は未来に起こる不利益ですが、検診を受ける「面倒くささ」はすぐ生じる不利益のため、目先の不利益回避を優先してしまうのです。

そこで1人でも大腸がん検診を受ける人を増やすために、2016年に東京都八王子市がとった手法が参考になります。大腸がんは日本人のがん死亡原因の中でも2位、女性なら1位と、非常にたくさんの人がかかる病気。大腸がんによる死亡を防ぐには早期発見・早期治療が大切で、そのためには毎年検診を受けることが必要です。

八王子市では前年に大腸がん検診を受けた人全員に対して検査キットを送付していましたが、翌年も受診する人は7割しかいないことに頭を悩ませていました。そこで受診を促すために、以下の2種類のメッセージを記載したハガキを送ることにしました。

1つは「今年も大腸がん検診を受診すれば、来年度も検査キットを送付します」、もう1つは「今年、大腸がん検診を受けなければ、来年度は検査キットが送付されません」という内容のもの。その結果、後者のメッセージを受け取った人は、前者に比べて7.2%ポイントも受診率が高まりました。

両者のメッセージの内容はよく読めば一緒ですが、後者はより「検査キットが送られてくるという現時点の権利を失うこと」が強調されています。今年受診しないという判断を下すことで、将来得られたはずの行政サービスが受けられなくなる損失が確定するのです。

これは02年のノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン氏が提唱する「プロスペクト理論」において、「損失回避性」と名付けられた人間の傾向を反映しています。プロスペクト理論は、人は「利得」と「損失」では、損失のほうをより重要視して、なるべく損しないように行動することを明らかにしました。

また同じ内容であっても表現の仕方が異なるだけで、人々の意思決定に変化を促す「フレーミング効果」もこのメッセージは活用しています。例えばある手術を行うかどうかについて、「術後1カ月の生存率は90%です」という情報を与えられた患者と、「術後1カ月の死亡率は10%です」と言われた患者では、前者の約80%が手術を受けると答えたのに対し、後者は約50%しか手術を受けると答えなかった、という研究があります。これも両者はまったく同じ内容ですが、「死亡」という損失が強調されたメッセージを受けたことにより、患者の損失回避行動が引き起こされたと考えられます。

個人ができる対策として、がん検診のような「先延ばし」をしがちな行動には、先の予定を確定させる「コミットメント」が有効です。「○月○日の○時に◯◯病院で検診」と決めて、予約を入れてしまうのです。すると予約を変更するのは面倒ですから、予定通りに検診を受ける確率が高まります。

また先延ばしは「目先の利益」を優先する行動ですから、検診を受けたことに対して自分で「ご褒美」を設定するのも効果があります。お酒が好きな人なら検査前に一定の期間、禁酒をして、検査日の夜に飲む少し高いワインを買っておく。そんな小さなことで構いません。大切なのは自分が楽しめるルールを決めることです。

■1度始めた治療をやめられないワケ

がんになった場合の治療法の意思決定でも、行動経済学は役に立ちます。

がんの診療現場では「ここまで治療を続けたのだから」という理由で、それ以上必要のない治療法を継続したがる患者さんも少なくないと、多くの医療関係者が述べます。

例えば10年にわたって数種類の抗がん剤治療を続けてきた患者は、副作用で心臓の病気が悪化するため抗がん剤の中止を医師に勧められても、「10年間もつらい思いを耐えてきたのに、治療を無駄にしたくない」と反対しました。これは行動経済学では「サンクコストの誤謬」と呼ばれるバイアスです。

サンクコストとは「埋没した費用」を意味し、過去に支払った費用や努力のうち、これから先何があっても戻らないものをいいます。閉店間際のスーパーマーケットでは、売れ残ったお惣菜を半額以下で売っています。その値段は、人件費や仕入れ価格を考えて赤字であってもです。しかし惣菜を作るのにかかった費用、すなわちサンクコストは、もうどうしようもありません。捨てるか売るかの二択であれば、わずかな金額でも売れたほうがいい。それがサンクコストの考え方です。しかし、多くの人は、取り戻すことができないサンクコストを取り戻そうとします。

先ほどの患者の場合も、10年かけた抗がん剤治療の過去は、これから先の治療の選択をするうえで、医学的にはまったく無関係の状態でした。それならば、少しでも延命につながる治療法を選ぶべきです。治療法を判断するうえでは、過去にかかったコストではなく、将来得られるメリットであることを認識しておくことが大切なのです。

■なぜがん患者は、治療法を間違えるか

行動経済学では、「何らかの利益・損失を評価する際の基準となる原点」を「参照点」と呼びます。がんの治療の選択の場合でも、参照点をどこに置くかで、判断が大きく変わってきます。

例えば末期のがん患者に対して行われる「緩和ケア」。がんがもたらす苦痛を軽減しながら穏やかな最期を迎えるためのケアですが、これを選択することは、末期がん患者にとって「死」という損失を確定させることを意味します。「どんなに痛くてつらくても生きていること」を参照点にする人は、たとえ1%でも生き延びられる可能性があるなら、緩和ケアを受け入れるより、失敗の可能性が高くても積極的な治療を選択するほうが望ましいと考えるでしょう。その逆に「人はいずれ必ず死ぬ。それならば穏やかに死を受け入れたい」と考えて、いずれ来る「死」を参照点にする患者は、緩和ケアを受け入れる確率が高いと考えられます。

大切なのは、参照点は自分あるいは他の人によって、書き換えることができるということです。

アメリカで数年前に巨大なハリケーンが襲来した際に、大きな被害が予想される地域で暮らす人々に避難勧告が出されました。そのとき「どうせ大した被害はないだろう」と逃げずに家にとどまっていた人に対して、実に効果を挙げた呼びかけがあったそうです。

それは「逃げなくても結構です。そのかわり、体に社会保障番号を書いておいてください」という呼びかけでした。つまり「あなたが遺体になったときに、身元がわかるようにしておいてね」と伝えたわけです。このメッセージは、残っていた人の参照点を見事に書き換え、彼らに避難行動をとらせました。それまで彼らは「逃げなくてもこのまま生き延びられるだろう」と、現時点の自分が生きていることに参照点を置いていたわけですが、「社会保障番号を書け」と言われたことで、「迫りくる自分の死」に参照点が移り変わったのです。

このように相手を無理やり説得しなくても、参照点を動かすメッセージを伝えることで、行動変容を促すことは可能なのです。医学的により望ましい治療法を患者に選択してもらううえでも、この参照点を動かすという考え方は、有効ではないかと考えています。

■健康サイトを信じる罠

科学の進歩で効果のある新たな治療法が次々発見される一方、まだまだがんは「不治の病」のイメージも根強く残っており、患者の中にはエビデンスのない民間療法や怪しげな薬に頼ってしまう人も少なからずいます。その原因として、「利用可能性ヒューリスティック」と呼ばれるバイアスが働いていると考えられます。

ヒューリスティックとは「近道による意思決定」という意味で、正確な情報を手に入れずに、身近で得た情報やすぐに思い浮かぶ知識をもとに行動することを指します。例えば医師からの情報ではなく、知人から聞いた「この食べ物を毎日食べたら、がんが消えた」といった情報を信じて、科学的に実証された適切な治療よりもそちらを優先してしまうなどの行動が代表的です。そうした非合理的な選択をしてしまう背景には先ほど述べた「損失回避」の心理も働いていると考えられます。「やれることが残っていたのに、やらなかった」という後悔を回避するために、非科学的な治療法でも「やらないよりはマシ」と感じてしまうのです。

そのような非合理的選択を避けるためには「人には身近で得た情報を信じ込む傾向がある」ことを知って、週刊誌やテレビなどから得た科学的裏付けの乏しい情報に対しては、批判的な視点を持つことが大切です。とくに最近は、何かしらの病気にかかった際に、多くの人がまずはインターネットで情報を調べると思います。しかしネットの医療情報は玉石混交で、広告収入を得るための怪しいサイトもたくさんありますので、注意が必要です。

最後に、冒頭にも申し上げましたが、意思決定のバイアスは患者だけでなく、医師にも存在します。『医療現場の行動経済学』の中で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の医学部に所属する津川友介氏が執筆した章では、「医師が合理的な判断をいつもしているとは限らない」ことを様々な研究から明らかにしています。なかでも興味深いのは、0.4%というわずかな差ですが、「女性医師が担当する患者のほうが、男性医師の担当患者よりも死亡率が低い」という研究結果です。

それは「女性医師のほうが、男性医師よりもガイドラインに沿った治療を提供している率が高い」ことにあると考えられるのですが、津川氏はその理由として、「株式投資のパターンなどにも見られる、男女でリスクに対する態度が違う可能性」を挙げています。男性のほうがリスクを好み、女性のほうがリスク回避傾向が強いことが、医療行為にも影響を与えている可能性があるのです。

医師は医療の専門家で、常に医学的知識に基づき、最善の意思決定をしているはずだ、と一般には考えられていますが、現実には様々な行動経済学的バイアスの影響を受けることを、医師自身も自覚する必要があるでしょう。

医療行為は必ず大きな不確実性を伴います。手術や投薬を行っても、期待通りに病気が治るかどうかはわかりません。その前提を医師も患者も共有したうえで、より良い意思決定をお互いが積み重ねていくことに、行動経済学は大いに役立つはずです。

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大竹文雄
大阪大学大学院経済学研究科教授
編著書に『医療現場の行動経済学』(東洋経済新報社)、著書に『経済学的思考のセンス』『競争と公平感』『競争社会の歩き方』(いずれも中公新書)ほか多数。
 

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(大阪大学大学院経済学研究科教授 大竹 文雄 構成=大越 裕 撮影=福森クニヒロ 写真=amanaimages)