2013年シーズンの苦悩を語った。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

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 入団1年目から鹿島でレギュラーを務めてきた男は、2013年シーズンにベンチメンバーへの降格を言い渡される。その後のサッカー人生を左右する大きな岐路――。世代交代を推し進めるチームでの孤独な戦いを経て、岩政大樹が見つけ出した答は、未知なる世界への挑戦だった。
 
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 ルーキーイヤーの2004年9月末にレギュラーとなって以来、岩政大樹には怪我と出場停止を除いてスタメンから外れた経験が、一度もなかった。ただ、すべての監督が初めから岩政を評価したわけではない。07年に鹿島アントラーズの監督に就任したオズワルド・オリヴェイラには開幕直後のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で途中交代させられ、12年にやって来たジョルジーニョにも開幕前の紅白戦でサブに回された。
 
 しかし、いつだってパフォーマンスで評価を覆し、信頼を掴み取ってきた。
 
 プロ10年目となる13年シーズンを迎えた時も、ポジションが保証されていたわけではなかった。

 その年に新監督として迎えられたのは、2000年から6シーズン、鹿島を率いたトニーニョ・セレーゾだった。
 
 彼が若い選手を好むことは、9年前に抜擢された岩政自身がよく分かっていた。それでも実力でポジションを死守し、最終ラインの中央に君臨した。
 
 ところが――。
 
 2-4で敗れた7月6日の川崎フロンターレ戦で86分に交代を命じられると、その後サブに降格させられてしまう。4日後の清水エスパルス戦は、9年前にレギュラーとなって以来、怪我を除いて初めてリーグ戦でキックオフをベンチで迎える試合となった。
 
 この時、岩政には「やはり」という気持ちがあった。
 
 夏場のこの時期、確かにコンディションを崩していたし、開幕してからずっと指揮官が若手に切り替えるきっかけを探しているようにも感じていたからだ。
 
 一方で、もう一度チャンスを与えられるだろう、とも考えていた。
 
「前半戦の自分のプレーには手応えを掴んでいたし、9年間レギュラーだった選手を外して、そのままってことはないだろうと。カップ戦もありましたから、どこかでもう一度チャンスが来るはず――そんなふうに思っていました」
 
 淡い期待を胸に、ベンチから仲間の戦いを見守る日々が始まった。
 
 実は岩政は、13年シーズンを迎える前、移籍を視野に入れていた。
 
 若い頃は鹿島で現役をまっとうすることを夢見ていたが、リーグ3連覇、ワールドカップ出場、アジアカップ優勝と経験を重ねるうちに、将来のビジョンに変化が生じていく。
 
「特に、日本代表の選手たちが経験を積んで変わっていく姿を見て、じゃあ、自分はひとつのクラブだけで十分な経験が積めるのか、いや、明らかに足りないだろうと。鹿島ではできない経験をするために、どこかで外に出なければいけないなって思うようになったんです」
 11年のナビスコカップ決勝を怪我で棒に振った岩政にとって、12年のナビスコカップ優勝は、個人として三大タイトルすべてを手に入れた瞬間だった。「獲り終えたな」との想いが芽生えた岩政はシーズン終了後、鹿島サイドと13年1月半ばまでというタイムリミットを設けて、移籍の可能性を探った。
 
 中国から破格のオファーが届いたのは、いくつかのクラブとの交渉がまとまらないまま1月半ばを迎え、鹿島に「残ります」と伝えたあとだった。
 
「迷いましたね。ただ、チームメイトが『出ないでくれ』と言ってくれたし、始動日が迫っていたので、今出て行ったら迷惑をかける。それに、祖父と祖母が体調を崩したり、娘が生まれそうだったり、いろいろ重なって、『今は出るタイミングじゃない』と結論付けたんです」