どこででも働け、生活できる時代に人はなぜ上京するのか。元号が令和になってから上京した人にその理由を尋ねるシリーズ「令和の上京」。第1回は、トヨタのライン作業員としての働き方に疑問を感じ、高給を捨てて東京の伝統工芸「江戸切子」の世界に飛び込んだ27歳の男性――。(取材・構成=ノンフィクションライター・山川徹)

(取材日:2024年12月25日)

撮影=プレジデントオンライン編集部
江戸切子を手に取る原野高光さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■テレビで「江戸切子」を見て職人の世界へ

江戸切子を知ったのは、6、7年前くらいです。確か所ジョージさんのテレビ番組で江戸切子を取り上げていました。細工が細かくてキレイで……パッと一目見て惹かれました。それから、ずっと頭のなかにあったんです。江戸切子っていいなって。

そして、この工房に就職したのが、2023年5月だから、上京してから1年半前が過ぎました。まだまだ一人前の職人と言えないですね。見習い……いや、新人かな。見習いと言うと先輩たちにもっと自覚を持てって言われそうなんで(苦笑)。

ようやく最近、及第点と言ってもらえるような作品がつくれるようになりました。社長にも「クオリティがいい作品は売り物としてあつかえるんだから、もっとがんばれ」と言ってもらえたんです。

模様を考える楽しさは想像以上ですね。難しい分、やりがいがあるんです。

■後継者不足とは無縁、中国富裕層から人気

江戸切子は江戸時代末期から、江戸――現在の東京でつくられはじめた工芸品だ。02年には国の伝統的工芸品に指定された。細やかなカットが施された精密なデザインが江戸切子の特徴だ。日常に使うグラスや器として愛用する人も多い。

原野高光さん(27)が働く篠崎硝子工芸所は、江東区大島にある。「墨東地区」と呼ばれる江東区や墨田区は、令和のいまも江戸切子職人が集まるエリアだ。かつては職人たちがガラスを削る音が響いていたという。

篠崎硝子工芸所の創業は1957年。伝統工芸というと後継者不足などとともに報じられがちだが、江戸切子業界には原野さんのような若い職人が少なくない。篠崎硝子工芸所の3代目となる篠崎翔太さんは「年々、売り上げが上がっている」と語る。

「以前、お茶や紹興酒などを温めて飲んでいた中国の富裕層がワインやビール、ウイスキーを好むようになった。それに付随して、いい器を求めだした。希少性が高い江戸切子が人気になったのです」

また50近くある江戸切子工房ごとに特色もある。篠崎さんは続ける。

「アーティスト性を前面に打ち出したブランディングに成功している工房もあります。うちは、高品質な製品をコンスタントに製造する。そのためにも、職人さんたちの技術が重要になるんです」

再び原野さんの言葉に耳を傾けよう。彼は細工が施された薄い青色のグラスを手に取った。

■模様の細やかさと精密さに惹かれた

1、2、3、4……。ここに菱形の小さな粒の模様がありますよね。この模様、全部同じ大きさで、形も位置も正確じゃないですか。

カットには、ダイヤモンドホイールという回転する道具を使います。大きなカットなら、素人目でも失敗がわかる。でもカットが細かくなればなるほど、見極めが難しくなる。

撮影=プレジデントオンライン編集部
江戸切子は、細かな模様が特徴的だ - 撮影=プレジデントオンライン編集部

作品によっては、模様の大きさがまばらだったり、位置がずれたりしていることがあるんですよ。見る人が見れば、雑だなとすぐに分かる。

もちろん最初から良しあしが具体的に分かったわけではないのですが、うちの工房の作品を見て、模様の細やかさと精密さに惹かれました。

その点で言えば、はじめは精密にキレイに仕上げるのが、職人としての目標だと思っていました。ただ実際に働きはじめるとそれだけではないとわかりました。コスパと言えばいいのか。材料となるガラスもムダにできないし、失敗するとガラスを磨いたり、カットしたりする道具の減りも早くなってムダも増えるし、効率が悪くなってしまいます。そうした意識を持ちつつも、一つひとつの品質を高めていく。そこがうちの工房の強みなんです。

だから早く技術を磨かないと。手先が器用な方だという自信はあったんですけどね。

■トヨタは高卒でも手取り20万後半稼げた

自分は、もともと物づくりが好きで、愛知県豊田市の実家では、子どもの頃から、おばあちゃんに教わっていろいろとつくっていました。

たとえば、広告チラシを折ってつくる、トゲトゲのドリアンみたいな形の鞠とか。貝殻に布を被せて刺繍した小物を小学校の担任に渡したら、とても喜んでくれたのも覚えています。

地元の高校を卒業したあとは、市内の堤工場というトヨタ自動車の工場で8年間働いていました。別に物づくりがしたかったからトヨタに入社したわけじゃないんです。就職は、とりあえず、という感じ。

豊田で生まれ育って、トヨタ自動車で働く。それが、地元では、王道なんです。先輩もたくさん働いていましたし、高卒でも数年で手取り20万後半になりますから。周囲の人たちには「給料いいじゃん」ってうらやましがられましたけど、地元ではそれが当たり前の感覚でした。

ただずっとトヨタで働き続けようとは思っていませんでした。やりがいを感じられなかったんです。

■ひとつの物を最初から最後までつくりたかった

自分は工場のラインのなかで、頭上を通過するクルマにマフラーを取り付けたり、ボルトを締め付けたりする作業を担当していました。

ライン作業には、ひとつの作業を終わらせるための時間が決まっています。

仮に、60秒で終わらせなければならない作業があるとします。自分は50秒で終わらせて、残りの10秒で作業が正確に済んだか確認したくなる。でも、早く済ませて10秒を確認に費やしてはダメなんですよ。標準作業からズレると不具合が生じる可能性が高くなるからです。

写真=iStock.com/gerenme
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gerenme

自分は不具合を出したことはなかったですが、担当の作業が終わったあとにクルマがどうなったのか、いつもとても気になっていました。休憩に入るときにチェックするのが、ルーティンになっていたくらいです。

当時から、ひとつの物を最初から最後まで自分の責任でつくりたいという思いがあったのかもしれません。

テレビで江戸切子を知ったあと、すぐに地元を出なかった理由は、友人や職場の人たちがいい人ばかりで、給料もよかったから。あとは家庭の事情です。

■ローンを払い続けるだけの人生はつまらない

20歳のときに、両親が離婚して、父が家を出たので、自分がローンを払い続けて実家を残すか、売却するか、という選択に迫られました。2つ上の兄貴がいるんですが、名古屋でカメラマンのアシスタントをやっていてお金に余裕がなかった。母も年齢的にローンが組めない。家を残すなら、自分が契約するしか手がなかった。

おばあちゃんと母が暮らす家を手放すか、残すか。どっちがいいか、って言われたら、絶対に残したほうがいいに決まっていますよね。ガラスか何かの職人になりたいとは思っていましたけど、当面、工場で働きながら実家や家族を支えていくほうを選びました。

ローンの支払いを始めて感じたことがあるんです。家族を支える誇りや自信を感じる一方で、このままではローンを払っていくためだけの人生になってしまうんじゃないか。それじゃ、つまらない、って。

■いつか見つかる「やりたいこと」のために貯金はしていた

背中を押してくれたのが、トヨタ自動車の同期の友だちです。彼とは「将来、どうしたい」みたいな話をよくしていたんですよ。地元の仲間にも、工場で働く同僚にも、とてもお世話になったんですけど、たぶんやりたいことを持っている人はほとんどいなかった気がします。そんななかで、自分が江戸切子職人に憧れていることを知っていた同期の彼が「瀬戸に知り合いがいるから、行ってみようよ」と声をかけてくれました。

東京の江戸切子や鹿児島の薩摩切子ほど有名ではありませんが、愛知県瀬戸市にも瀬戸切子の工房があります。友だちと一緒にワークショップに参加して、一泊しました。そして思ったんです。「こんだけ自分のことを思ってくれる友だちがいるんだ。彼のためにも、踏ん切りを付けよう」と。

それに、母も「経済的に厳しかったら、ローンを払い続けなくてもいい」と話してくれました。その言葉も仕事を辞める不安を解消させてくれました。

これもテレビの受け売りなんですけど、確かスガシカオか藤井フミヤが「やりたいことが見つかったときに、お金がなかったら何もできない」って言っていたのを覚えていたんです。だから、いつ会社を辞めても大丈夫なようにローンを払いつつも貯金をしていました。

■アポも取らずに工房の扉を叩いた

そうしてトヨタ自動車を辞めたのが、22年12月。その後、自分のなかで数カ月の準備期間を設けて、鹿児島に足を運んで薩摩切子の工房を見学しました。

こんな話をすると「若いのにしっかりしているね」とよく言われるんですが、慎重でも、しっかりしているわけでもないですよ。だって、慎重でしっかりした人なら、仕事を辞める前に、次の就職先を見つけているでしょう。

江戸切子の工房を見られるだけ見てみようと上京したのは、工場を辞めた3カ月後、23年の春先です。これはあくまでも自分が持っていた職人に対する勝手なイメージなんですけど、いちいちアポ取って「見学させてください」「いつ行っていいですか?」っていうのも違う気がして、飛び入りで訪ねたんです。

撮影=プレジデントオンライン編集部
職人の手によって模様が加えられた江戸切子 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

「うちはそういうのは受け付けていません」と断られたり、話は聞いていただけたものの募集はしていなかったりという工房が多かったのですが、うちの工房は社長と翔太さんが対応してくださって作業場を見学させてくれただけでなく、休憩時間にお茶を飲みながら先輩たちと話をさせてもらったんです。

そして帰り際に「もしうちがよかったら、連絡してね」と言っていただいて。改めて連絡をして、ほかに何人かいた希望者のなかから運よく採用していただけました。

■家賃は7万円、食事は節約のために作り置き

いまは、この工房から自転車で5分ほどの家賃7万円のワンルームに暮らしています。朝は8時過ぎに出勤して、昼休みにアパートに戻ってパパッとメシを食って午後の仕事をします。定時は午後6時ですが、終業後は腕を磨くために工房を自由に使わせてもらっています。夜は2時間くらい苦手な工程を練習したり、試作品をつくったりしています。

撮影=プレジデントオンライン編集部
ガラスを削り模様を入れていく様子 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

そのあと帰宅してメシを食って眠るというサイクルですね。週に1、2回は早く帰宅して、節約のためにカレーなんかを作り置きするようにしているんですよ。休みの日も工房を使わせてもらっているので、あまり出歩く機会はないですね。実家のローンも残っていますし、トヨタ時代に比べると収入も半分以下――5分の2くらいに減ってしまったので。

それでも、上京してよかったと思っています。

地元の友だちに江戸切子をつくるために上京すると話したとき、みんな自分の気質を知っていたから、驚いてはいましたけど、「原野らしい」と感じてくれたみたいです。前の職場の人たちも「原野はそっちのほうが向いている」と言ってくれたので、上京して職人になるという道を選んだのは間違いではなかったのかな。

■「形にして渡せる」ところが江戸切子職人の醍醐味

つくった試作品は、母と祖母、地元の友だちにいくつか渡しました。この間も友だちの結婚式があり、ペアグラスをプレゼントしました。東京では、26歳まで毎日のように会っていた地元の友だちと会えないわけじゃないですか。寂しさもあって連休のたびに帰省しているんですよ。

実は、地元にずっと思いを寄せている子がいるんです。先日、帰省した時にようやく渡すことができました。「スゴい、キレい」と喜んでくれて。形にして渡せる――それもこの仕事のいいところですよね。

地元にいたときの東京への憧れですか?

まぁ、たくさん買い物ができたり、雑貨を見て回ったりするのが楽しいっていうのはありますけど、お金を使っている場合じゃないですし……。憧れとかはぜんぜんありませんでした。だから、いま、東京にいるのは、江戸切子との出合いがあったからなんです。

上京するとき、見送りにきてくれた友だちと名古屋のカフェに入りました。店内に、江戸切子の花瓶が飾られていたんです。女性の店員さんに「これ、江戸切子ですか?」と聞いたら「そうですよ」って。店員さんにこんなふうに話したのを覚えています。

「自分は、江戸切子をつくるために、これから東京に行くんですよ」

プレジデントオンラインでは、「令和の上京」の体験者を募集しています。

本連載は、個々の上京を通して、令和という時代や、東京と地方の格差、社会の変容を浮かび上がらせる目的で取材を続けています。

取材をお受けいただける方は、生年や出身地、ご職業、上京の時期や動機、思い出やエピソードなどを添えて、右のQRコードのアドレスもしくは〈reiwa-jokyo★president.co.jp〉(★を@に変えてください)までお送りください。

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山川 徹(やまかわ・とおる)
ノンフィクションライター
1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大学二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館)、『それでも彼女は生きていく 3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)などがある。『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)で第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。最新刊に商業捕鯨再起への軌跡を辿った『鯨鯢の鰓にかく』(小学館)。Twitter:@toru52521
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(ノンフィクションライター 山川 徹)