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 嫌なことやつらいことがあったあとに、「なぜこんなに落ち込むんだろう?」と思ったことはないだろうか。あるいは、家族や友人がうつ病などで苦しんでいるのを見て、“心の病い”を理不尽に感じたひともいるだろう。精神科医であり、進化医学の提唱者でもあるランドルフ・M・ネシーの『なぜ心はこんなに脆いのか 不安や抑うつの進化心理学』(草思社)は、そんな疑問に答えようとする試みだ。

 アリゾナ州立大学に「進化医学センター」を創設したネシーは、『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』(新曜社)で、進化の視点から病気を考えるべきだと主張して大きな反響を得た。本書はその試みを精神医学に適用したものでもある。

 本書を執筆した意図を、ネシーは冒頭でこう説明している。

 私たちが、正常な反応であるとはいえ不必要に辛い情動を感じるのは、感じなかった場合に発生するコストが甚大なものになり得るからだ。また、決して叶えられない欲望や、コントロールできない衝動、対立だらけの人間関係が存在することにも、進化的に見て妥当な理由がある。しかしおそらく何よりも重要なのは、愛すること、善良でいることを可能にする、私たちのこの驚くべき力がどこからくるのか、そしてその代償としての悲嘆や罪悪感が存在する理由、さらに(実にやっかいなことに)私たちが他人にどう思われているかをむやみに気にしてしまう理由も、進化によって説明できる、ということなのだ。

 原題は“Good Reasons for Bad Feelings; Insights from the Frontier of Evolutionary Psychiatry(バッドな気分のグッドな理由 進化精神医学のフロンティアからの洞察)”

わたしたちの身体や心は、遺伝子の伝達(複製)を最大化するよう自然選択されている

 進化医学の大きな成果のひとつは、「ひとはなぜ老いるのか?」という疑問に、科学的に明快な答えを出したことだ。それは、「若いときにより多くの子どもをつくるため」になる。

 その前提にあるのは、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」説だ。進化とは、より効率的に遺伝子を後世に残せる形質が自然選択されていく単純で強力な仕組みで、「利己的な遺伝子」にとっては、生き物はそのための乗り物(ヴィークル)に過ぎない。当然、ヒトというヴィークルも、わたしたちの幸福を実現するためではなく、遺伝子の都合によって「デザイン」されている。

 カブトムシやミバエの寿命の長さを交配によって変化させる数多くの研究では、若い時期に繁殖する個体を選択していくと、寿命が短くなっていく。逆に、寿命が長くなるように交配させると、とくに自然環境下では、顕著に子孫が少なくなる。

 ここからわかるように、自然選択は老化に非常に強く作用する。老化を速める遺伝子は、従来いわれていたように、「影響が出始めるのが遅すぎるために自然選択による排除を免れてしまった不運な突然変異」などではなく、(そのような遺伝子の一部は)若い時期における繁殖を増やすうえで有利な条件を提供するのだ。

 同様に、病気を進化から説明することも可能だ。鎌状赤血球症はアフリカなどで見られる遺伝性疾患で、ヘモグロビン分子の遺伝子突然変異により、赤血球のかたちが鎌形になる。これよって赤血球の毛細血管内の循環が難しくなり、かなり深刻な慢性貧血が引き起こされる。

 だがこれは潜性(劣性)遺伝で、この病気の原因となる遺伝子(鎌状変異遺伝子)を2つ保有しているときしか発症しない。そればかりか、野生型の(正常な)遺伝子と変異型の遺伝子を1つずつもっている場合は、マラリアへの耐性が生じることがわかった。だからこそ、マラリアが蔓延する熱帯地方でこの「病気」が自然選択されたのだ。

 これはわかりやすい例だが、そうなると、「なぜ自然選択は冠状動脈疾患を形づくったのか? 乳がんはどうか? 統合失調症は?」という疑問が生じるだろう。だがこれは、「病気を適応としてみる(VDAA:Viewing Diseases As Adaptations)」という誤りだとネシーはいう。

 鎌状赤血球症のような一部の例外を除けば、ほとんどの病気は生物学的な適応の結果ではなく、進化的に説明できない(病気は、自然選択によって形づくられてはいない)。ただし、私たちを病気に対して脆弱にするような身体的特徴は、進化的に説明することができる。こうしてネシーは、「病気そのものから、私たちを病気にかかりやすくする体の形質に焦点を移すこと」を提唱する。

 身体と心が病気に対して脆弱である理由を、ネシーは6つ挙げている。

1) ミスマッチ:わたしたちの身体や心が、現代的な環境に対応する準備ができてない。
2) 感染症:細菌やウイルスがわたしたちよりも速い速度で進化している。
3) 制約:自然選択には限界があり、欠陥(バグ)をただちに修正できるわけではない。
4) トレードオフ:身体と心の機能には利点(メリット)と難点(デメリット)がある。
5) 繁殖:自然選択は繁殖を最大化するのであり、健康を最大化するのではない。
6) 防御反応:痛みや不安などの反応は、脅威を前にした状況では有用だ。

 わたしたちの身体や心は、健康や寿命を最大化するようにできているのではなく、遺伝子の伝達(複製)を最大化するよう自然選択されている。すなわち、適応度を増すような機会があれば、たとえ健康と幸せを犠牲にしてでも非合理的な行動をとるように「設計」されている。これが身体的な病気と同様に、「心の病」を考えるときの前提になる。

「利己的な遺伝子」は、「複製(コピー)の効率性」にしか興味も関心もない

 自然選択の原理はきわめて明快で、「その種における平均的な個体は、子の数がもっとも多かった個体に似てくる」。これは単なる仮説ではなく、前提がすべて真であれば必然的に成立する演繹的結論で、自然選択がつくり出すのは、「繁殖まで生き残る子の数を最大化できるような脳」ということになる。

 だとしたら問題は、「そのように“最適化”された脳が、なぜさまざまな不調を引き起こすのか」だろう。この疑問に対するもっとも単純な(そして身も蓋もない)答えは、「ネガティブな情動は有用だから」になる。「情動は私たちではなく私たちの遺伝子に有益なように形づくられている」のだ。

 2人の男がいて、1人はパートナーが他の男とつき合うことに激しい嫉妬を燃やし、妻(恋人)を支配しようとする「家父長制主義者」で、もう1人は「君の人生なんだから、好きにすればいいよ」という「リベラル」だとしよう。このとき、より多くの子どもを残すのがどちらだったかは考えるまでもないだろう。「利己的な遺伝子」は、政治イデオロギーではなく、「複製(コピー)の効率性」にしか興味も関心もないのだ。

“嫌な気分(bad feelings)”には、遺伝子にとっては役に立つ“よい理由(good reasons)”がある。それに輪をかけて(わたしたちにとって)やっかいなのは、自然選択が「煙探知機の原理」を採用したことだ。

 トーストをすこし焦がしただけで警報が鳴る探知機は煩わしいが、本物の火事でも警報を鳴らさない探知機より100倍もましだ。この単純な理由から、脳は致命的な事態を避けるために、わずかなことでも大音量で警報を鳴らすよう進化した。パートナーの些細な振る舞いに激怒するのは理不尽だが、他の男の子どもを育てさせられるという「最悪の事態」に比べれば、(「利己的な遺伝子」にとっては)どうでもいいことなのだ。

 ネシーはこれを、「人間の苦しみを生み出す防御反応のほとんどは、そのときだけに限ってみれば不必要だが、それでも完全に正常な反応なのである。このような防御反応はコストが低く、かつ起こり得る甚大な損害も防いでくれるからだ」と述べている。

 だが「煙探知機」の感度が高すぎると、さまざまな不都合が生じる。不安障害のひとは、人込みを歩くなど、ごく当たり前のことに大きな不安を抱く。公式な診断基準に当てはまるほどの不安障害を一生のうちに体験する割合はおよそ30%で、「人前で発表するのが怖いという人の割合は50%近くにのぼり、その多くが助けを求めている」という。これは「陽気で楽天的」とされるアメリカ人のデータだから、日本人の不安障害はもっと多いにちがいない。

 パニック障害はストレス調整システムの不全で、視床下部から副腎皮質刺激ホルモン(CRH)が一度に大量に放出されると、パニックの症状とほぼ同じ生理学的覚醒が起きる。CRHは、脳の下部に位置する青斑核と呼ばれる部位の細胞を興奮させる。青斑核にはノルアドレナリン含有ニューロンのうち80%が集合しており、ここに電気刺激を加えると、典型的なパニック発作に似た症状が引き起こされる。

 たとえ誤報であったとしても、いちどパニックを経験すると、患者はさらに注意深くその兆候を探すようになり、興奮の度合いが上がり、探知システムの精度も上がっていく。この負のスパイラルによって、発作がさらに起きやすくなる。

 不安障害やパニック障害は「進化の適応」ではないが、なぜ不安やパニックになりやすいひとがいるのかは進化によって説明できるのだ。

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