「もし俺が死ぬようなことがあっても、おまえは飛んで来なくていい」 渥美清さん没後30年 家族同然に付き合った盟友だけに見せた素顔とは
『男はつらいよ』の寅さんで知られる渥美清さんが、転移性肺癌のため68歳で亡くなって、今日で30年になる。渥美さんは国民的な人気を誇る一方、私生活や自分の考え方について語ることは極端なほどなかった。心を開いた非常に数少ない相手は、浅草での下積み時代の仲間である。なかでも盟友だった関敬六さんも、この8月23日で他界して20年が経つ。だが、その特別な想いはお揃いで作った意外な品を通じて、お互いに亡き今もつながっている。
渥美清の原点と生涯の友
映画『男はつらいよ』シリーズが始まったのは、1969年。寅さんは「生まれも育ちも葛飾柴又」だが、1928年生まれの渥美清さんが役者として育った原点は浅草にある。浅草のフランス座で自分と同年生まれの喜劇役者、関敬六さんと出会ったのは1953年のこと。関さんも端役を演じる、まだ駆け出しの時期だった。そこに年下の谷幹一さんも加わり、生涯の友となっていく。

渥美さんが旅立ってから10年後、2006年の同じく8月に、関さんが78歳で亡くなった時、週刊新潮の「墓碑銘」の取材に谷さんは「渥美やんは静かな男で、友達大勢と騒いだりせず、寂しがりやでした。関やんと馬が合ったとしか言いようがないですが、渥美やんの人柄と才能に惚れていました」と語り、谷さんの妻で女優の玉川みどりさんは、「関やんの前では隙を見せても大丈夫と、渥美やんは何でもさらけ出していました」と回想していた。
さらに、映画『男はつらいよ』の原点となるテレビ版で演出を務めた「寅さん」生みの親のひとり、小林俊一さんは「渥美清さんとの身内以上の信頼関係もそうですが、関やんは子供のようで邪念がなく、誰とでも仲良くなるし慕われる。気持ちのいい根っからの喜劇人でした」と評している。
ふたりで話がはずんで夜が更けて、関さんの住む二畳の屋根裏部屋に渥美さんが転がり込むこともあった。綿もろくに入っていない布団が一組しかなく、凍える冬には抱き合うようにして寒さをしのいだという。
渥美さんは間の良いしゃべりと絶妙なアドリブの面白さで人気を博すが、肺結核で倒れた。片肺を切除する大手術を受けた渥美さんを足繁く見舞い、励まし続けたのも関さん、谷さんらごく少数の浅草仲間である。約3年の闘病生活を経て復活を遂げると、1959年、3人はテレビのコント番組に『スリーポケッツ』を名乗って登場、一躍人気者となったが、すぐに渥美さんが抜けてしまう。ひとりで役者をやっていきたいという理由だった。それでも親しい仲は壊れなかった。テレビや映画で名を成していく渥美さんをうらやむどころか、成功を素直に喜んだ。
親戚同然のつきあい
関さんは本名を関谷敬二という。妻は関谷恵子さん。関さんがようやくアパート暮らしができるようになった1950年代後半に、同じアパートに住んでいた縁で交際が始まった。関さんより8歳年下の恵子さんは総理府の恩給局で働いており、芸能界に興味はなかった。現在90歳の恵子さんは、声や耳もしっかりしており、記憶も明瞭だ。
「主人を訪ねてきた渥美さんと当たり前のように会って話していたなんて、今思えば、なんとも特別でぜいたくなことですよね。渥美さんはどんどんスターになったのに、主人や私の前で全く変わらなかったのです。家にふらっと来てくれました。私達もこれまで通りにしていました。役者として渥美さんと主人では比べられない ほどの差があるのは、素人の私でもわかりました。でも、主人は大の友達なんだからと全然気にしていませんでした。私達は渥美さんを特別扱いしなかったというより自然なままにしていただけですが、それが渥美さんには心地良かったのかもしれません。私や子供達にも親戚のように接してくれました」
恵子さんはもちろん、関さんが渥美さんとの親しいつきあいを語るようになったのは、渥美さんの没後である。渥美さんが私生活を大切にしていることを関さんは十分理解し尊重していた。渥美さんのペースに任せながら、浅草での下積み時代同様に、思ったことははっきり伝えていたのだ。
関さん夫婦が長男の太朗さんを授かった1963年、渥美さんは映画の撮影中で多忙だったが産院に駆けつけ、「俺がおまえの父ちゃんだぞ」などと冗談を言って、夫妻を笑わせている。
「主人が生まれた栃木の足利では、1歳のお祝いに一升餅という大きなお餅を背負わせて歩かせ、幸せを願う風習があります。ちょっと歩けるかなという頃に、大きくて重いお餅を背負って2、3歩でも歩くのです。主人の実家からそのお餅が届いて、長男が実際にお餅を背負って歩く時、渥美さんも家にいました。その時の様子を憶えていてくれたのですね。(1991年に)長男の結婚式の披露宴に出席して下さった渥美さんは、この一升餅を思い出してお祝いの言葉を話してくれました。心がこもっていて温かくて感激しました。そのうえ披露宴に最後までいてくれて、お客様をお見送りする時、主人や私と並んで渥美さんが“本日はありがとうございました”と挨拶をしながら頭を下げているものですから驚きました」(恵子さん)
1969年開始の映画『男はつらいよ』第1作に、関さんも出演。渥美さんは「寅さん」の役柄と一体化するように国民的スターとして愛されていく。一方、関さんに見せる顔は変わらない。
「長男が小学生の時、ピアノの発表会に渥美さんが主人と現れた。静かに入ってきて端っこで長男の時だけ見ると帰っていきました。びっくりしましたよ。渥美さんはアフリカが好きで帰ってくると、長男と次男にお話をわざわざしてくれるのです。フン転がしという虫がいてな、とその虫が目の前にいるように話して下さり、子供達が夢中になっていたのを思い出します。語りが見事なんでしょうね。主人がスナックを開くと、ふらっと来て下さいました。ロケ先からスタッフの皆さんと一緒に寄って下さった時、主人は店にいなかった。店で過ごした後、渥美さんがお財布を置いて“関やんに渡してここから出しておいてよ”と言って帰った、と聞いてこれまた驚きでした。渥美さんから電話がよくかかってきました。携帯電話のない時代です。主人がいない時もあります。すると“お恵さん、今何していたの”と聞かれて、掃除をしていたなどと答えると、そのまま雑談になりました。渥美さんは話上手で、普段からなんでもない話が面白いのです。主人に伝える用件が特にあるわけでもないのに15分ぐらいすぐに経ってしまいました。家や店に来て下さった時、渥美さんは人の話をよく聞いて、周りをよく見ていたと思います。長男の一升餅にしてもよく観察されて憶えていたんだな、と感じました」(恵子さん)
『男はつらいよ』で共演
関さんは『男はつらいよ』第1作から間を置いて、1980年の第26作以降、主に寅さんのテキ屋仲間の役で毎回登場した。関さんにしばらく声がかからなかったのは、1作目で張り切りすぎたのかNGを出し過ぎて、山田洋次監督が困ったかららしい。関さんは『男はつらいよ』に復帰したものの、短い出番にもかかわらず台詞を覚えておらず、山田監督に注意された。するとすかさず渥美さんが“監督、それは無理です。こいつは仕事じゃなくて遊びに来ているんです”と言い、場が和んだとか。山田監督も盟友関係の深さに気づいた。「ふたりの友情を驚きと憧れの目で見ていました。関さんがそばにいると渥美さんの気持ちが解放されるのです。話相手になって下さい、と出番が終わった後も同行してもらいました」。山田監督は関さんの逝去時に週刊新潮の「墓碑銘」の取材にそう述懐していた。ほんのわずかな出番しかない関さんは『男はつらいよ』を支える重要な役目を担っていたのだ。
一方、『関敬六劇団』を率いて浅草の軽演劇を守ろうと活躍を続けた関さんを渥美さんは励ましていた。舞台にふらっと現れ、「私、関敬六の付き人で渥美清と申します」と笑わせることもあった。
ロケ先での急な出来事
1983年、シリーズ第32作『口笛を吹く寅次郎』のロケ先から宿舎への帰り道、渥美さんは仏具店の前で車を止めさせた。この作品で寅さんはお世話になった寺の一大事を救うために僧侶のふりをする展開で、袈裟姿のままだった。関さんを連れて仏具店に入ると、ふたりの位牌を作りたいと告げる。要らないと慌てて断る関さんに、「こういうものは験のもので、生きているうちに作っておくと、逆に長生きすると言うぞ」などと説得した。こうして数日後、ふたりの位牌が届いた。
関さんの位牌には「関敬六之霊」と表書きされ、裏には「昭和五十八年十一月二日 岡山県総社市にて 朋友 渥美清と之を作る」と記されていた。一方、渥美さんの位牌には「田所康雄之霊」の表書き、裏には同じく日付と場所が記され、「朋友 関敬六と之を作る」と続いていた。
渥美さんの位牌には本名の田所康雄としっかり刻まれているのに、関さんは芸名のままなのか、当時関さんは気にしなかった。
「お位牌を持って帰ってきた時、主人が特に何か言った憶えはありません。大切にしまっていたと思います。渥美さんが海外に出かけた時などにおみやげをよくいただいていたので、主人はあまり気にせず同じような感じで受け止めていたのではないでしょうか」(恵子さん)
渥美さんは思いつきを即実行に移すことがあり、位牌もそんなところではないかと当初、関さんは気にとめていなかった。ところが後日、位牌をどうしているか渥美さんと話すうち、これまで思った以上に真剣に作ったものだとわかった。渥美さんは自分の位牌を両親の位牌と仏壇に並べて手を合わせていたのだ。
位牌を作った頃、渥美さんの体調は悪くなかった。糖尿病という持病をかかえていたのは関さんの方である。
「ロケ先や旅先で主人が気にせずたくさん食べようとすると渥美さんが、だめだよと手を軽くたたいて止めてくれたそうです。主人が入院した時、渥美さんはお見舞いに来て下さいました。少し話をして帰られたのですが、包みが残されていました。中身は2着のパジャマでした。直接渡すのが照れ臭かったのだと思います」(恵子さん)
盟友にも見せない姿
渥美さんが盟友の関さんにも見せなかったのは、結婚後の家庭と自身の癌闘病の姿だ。1969年に結婚した正子さんは17歳年下の才女。正子さんの父と渥美さんが親しかった縁で交際が始まった。関さんは交際中のふたりを車に乗せたことはあったが、仲を詮索などしなかった。結婚後、渥美さんは最も親しい関さんですら、家に招いていない。それを不満に思わず、自宅は役者の世界と別だからなと納得するところが、関さんの良さである。
5年に及んだ癌闘病のなかで、渥美さんは関さんの糖尿病を気遣う話の流れから、「もし俺が死ぬようなことがあっても、おまえは飛んで来なくていい」「俺が死んだのがわかるのは2〜3日経った後だから」などと、死を匂わせる話をそれとなくしている。自分が癌であり思わしくない状態だと伝えるのは、まっすぐな性格の関さんを苦しめてしまうだけだと考えたのだろう。
最後となってしまった48作目のロケで渥美さんの体調の異変に関さんは気づいていた。
「撮影を見学している大勢の人が、寅さん、と手を振っているのに応じる元気がなかった、と主人は話していました」(恵子さん)
突然の訃報
かつて渥美さんが匂わしていた通り、悲報は突然のことだった。妻子だけで荼毘に付し、お骨になってから妻子は山田監督ら関係者に連絡をとり始めたが、これは渥美さんが生前から言い伝えていた手順だった。
妻子にとっては「田所康雄」でも、名優としての「渥美清」、そして誰にもまず浮かぶ姿「寅さんこと、車寅次郎」がいる。訃報に世間は騒然とした。
松竹大船撮影所で営まれた「お別れする会」で関さんはメモも見ることなく、遺影に語りかけたが泣いてしまい、話はどんどん長くなった。その弔辞のなかでお揃いの位牌についても触れ、記者会見で問われたことから位牌の存在が広く知られることになった。
四十九日が過ぎ、落ち着いてから関さんは初めて渥美さんの自宅に上がった。そして、あの一緒に作った位牌が祀られているのを目にする。位牌になぜ本名を刻んだのか、亡くなる時は渥美清でも車寅次郎でもなく、田所康雄という人間で旅立つとの思いが込められていたのでは、と関さんは感じるようになる。
墓石に刻まれた文字
新宿区内の寺にあるお墓にも渥美清や寅さんを連想させる文字は一切ない。そもそも渥美さんが父のために1962年に建立し、田所家の家族が眠るお墓だ。墓石には田所康雄の名が新たに刻まれた。
関さんは渥美さんの月命日の4日には、お墓参りを欠かさなかった。
「家の近所にお花屋さんがあるのですが、あらかじめお花を頼んでいました。毎月1度以上お墓に出かけていました。渥美さんと話をしている気持ちだったと思います」(恵子さん)
8月の命日に合わせて、関さん夫婦、谷幹一さん、玉川みどりさんなど浅草の古くからの仲間が少数で集まってお墓参りを続けていた。渥美さんはおおげさで派手なことが嫌いだった。だからひっそり内輪で会いに行くのである。
盟友も他界
関さんは2006年に78歳で他界。棺に花を添え最後の別れを告げる参列者が引きも切らず押し寄せ、用意された花が追いつかず、供花を勝手に摘む人も。思い思いに話しかけ、それでもこの場を去りがたい人が棺を幾重にも囲んだ。余りにも多くの花が詰められ、棺に蓋をするのが難しかったほどだ。渥美さんが絶大な信頼を寄せた関さんの人徳を改めて感じさせる葬儀だった。
「主人に続いて谷幹一さんも(2007年に)亡くなり、どんどんさびしくなっていきます。主人の位牌も、渥美さんが作ってくれたお揃いの位牌です。仏壇に置いてあって手を合わせていますよ。関谷敬二の本名ではなくて、関敬六って書いてありますけれど、渥美さんの思いが入っています。それに作った時、ふたりは一緒にいたんだな、と思い浮かべますね」(恵子さん)
渥美さんの妻、正子さんとの交流は続いていた。
「丁寧な年賀状をいただいていました。正子さんからの年賀はがきのくじが当たったことがあって、新春からこんなことがありましたと御礼のお手紙を出したら、またお返事を下さいました」(恵子さん)
渥美さんは正子さんとの間に1男1女を授かっているが、皆、表に出ることはない。
「私も歳を取り、渥美さんのお墓参りになかなか行けなくなって申し訳ないです。数年前でしたか、新聞記者の人に一緒に来て欲しいと言われて、車に乗せられて
お墓参りをしたこともありました。渥美さんが亡くなって30年の命日は、家の仏壇の位牌に手を合わせて昔を思い出します」(恵子さん)
相手の名が裏に記されたお揃いの位牌は、作られて約43年を経てそれぞれの家の仏壇に納まっている。位牌を通じた永遠の盟友関係である。
デイリー新潮編集部
