人生を変えた2年前の大事故 山下泰裕さん「私が生かされた意味っていうのは他にある」 麻痺が残る体で湧き出る思い「障害者、弱者が暮らしやすい社会作り」を…単独インタビュー
柔道の1984年ロス五輪金メダリストで、現在は事故による上・下半身が麻痺(まひ)状態から懸命なリハビリを続けている山下泰裕さん(69)がスポーツ報知の単独インタビューに応じ、「私が生かされた意味を考え、弱者や障害者が暮らしやすい社会作りを目指す」と強調した。全日本柔道連盟(全柔連)会長や日本オリンピック委員会(JOC)会長を務め、日本スポーツ界を代表してきた山下さんは、優勝の思い出が残る米国ロサンゼルスで再び行われる2028年夏季五輪には行かないと明言。自らの大きな目標へ尽力することを誓った。(取材・構成=谷口 隆俊)
迷いは見せなかった。山下さんに「28年ロス五輪を見に行きたいですか?」と聞いた時だった。「全く(行きたい気持ちは)ないですね」。質問に間髪入れず毅然(きぜん)と答えた。
「ずっと過去は振り返らないで生きてきましたので…。昔を懐かしいとか、そういうことは、あんまり好きじゃないんです。五輪を見に行くというのは、言うが易し…で、この体じゃ、簡単ではない。周りの人にもすごい迷惑をかけるし…。(五輪は)テレビで一生懸命応援していればいいんです」
五輪柔道最後の無差別級王者となり、引退後も全柔連、JOCを率いて競技の発展に尽力した山下さんに、五輪への興味がないはずはない。
「そういう昔の話なんて、どうでもいい。そういうことのために生かされたんじゃないと思いますよ。昔を懐かしんだり、旧知の友達と会うことを楽しんだりするよりも、生かされてきた意味っていうのは、もっと他にあるんじゃないですかね」
23年10月29日。JOC会長在職中だった山下さんは休暇で家族と神奈川・箱根町の温泉施設へ。露天風呂から上がった時、ふいに意識を失い、約2メートル下へ転落する事故に遭った。頸髄(けいずい)を損傷し、計4つの病院で手術やリハビリに励み、昨年9月に退院した。首より下は左手が少し動かせるものの、四肢は麻痺(まひ)し、車いすでの生活を強いられている。
「最初の手術は、骨折した首の骨を取り除き、そこに腸骨から骨を持ってきたんです。その後も金属を入れる手術の話もありましたが、その頃は生死をさまよっていたから、あまりよく分からない。あまり記憶がないんです。何回か手術を受けてから徐々に話ができるようになって、食事も流動食で、管で直接おなかに入れる。食事がとれるようになったのは2〜3か月くらいたってから。一番に思ったのは直接会話がしたいということと、冷たい水をグーッと飲みたいということでした」
転落して意識を取り戻した時、最初に考えたのが「これでプレッシャーから解放される」ということだったという。当時は札幌五輪誘致が、様々な疑惑による諸問題なども重なって、JOC会長の立場にある山下さんを苦しめていた。ただ「辞めたいと思ったことはなかった」。責任を全うし、常に前だけを見ていた。
だが、畳の上で躍動した柔道王が、突然自由を奪われた。
「今、体調そのものは良いですよ。崖から落ちる時、無意識のうちに体から落ちるようにしたみたい。生きていてよかったと思うことはいっぱいある。たくさんの励ましをいただいたし、今では知人とも会って話せますし…」
自暴自棄になりかけた時、山下さんを救ってくれたのは家族の言葉だった。「こうして命があって生かされている。その意味を考えて頑張らないといけない」―。もし首の骨がもっとひどく折れていたら、横隔膜が破れていたら、自分で呼吸ができなかったかもしれない。生かされた意味を探し、それが生きる道しるべになった。こういう姿を見てもらうことが、「少しでも障害者への理解とか励みになったらいい」と考えている。
「弱者とか、障害者の方々とか、そういう人たちが暮らしやすい社会になっていくために、私に何ができるか。できることは小さなことかもしれない。何しろ私が動くには多くの支援が必要だから、たいしたことなんてできないと思う。でも、それが私が生かされた意味だと思います。おいしい物を食べたり、友達とだんらんするためだけに生かされたんじゃない」
人の倍以上あった食欲は4分の1になった。野菜中心の食事だが、肉も魚も食べられる。旧知の仲間にも会うことができる。「五輪、パラリンピック、スペシャルオリンピック…お役に立てる時があれば何か協力したい」という思いもあることは隠さない。昨年11月からは東海大で「柔道論」の授業を受け持つようになり、今年も春、秋学期各1コマずつの授業を担当する。
「学生たちも真剣に聞いてくれていると思います。私にとって今は東海大学で学ぶ車いすの学生たちが、もっと学びやすい環境を作ることの方が、はるかに優先度は高いと思っています。秋学期になったら、車いすの学生たちとのミーティングを持ったりしていきたいなと思っています。身の回りから、できることから始めていかないと。言うは易し、行うは難し、ですが」
そう言う山下さんの優しい笑顔は変わらない。その目は光り輝いて、力強かった。
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柔道で気になる存在は斉藤立「お父さんと彼の戦う姿がたぶって見えます」
山下さんが注目している競技は「特にないですね」と多くを語らないが、やはり柔道では気になる存在も。現役時代に宿敵だった故・斉藤仁さんの次男・立(たつる、24)=JESエレベーター=がその一人だ。
「体が大きく、いいものを持っている。ケガに泣いていますけどね。彼にはすごい期待したい部分がありますね。お父さんと彼の戦う姿がだぶって見えます。タツル、頑張れって、声援を送っている人です」
山下さんと斉藤さんは最大のライバルで、ともに84年ロス五輪で優勝。山下さんの全日本選手権9連覇は、決勝で斉藤さんに判定勝ちして手にした栄光だった。
「全柔連で強化委員長や副会長、会長をやっていた時、仁ちゃんの奥さん(三恵子さん)からいただいた仁ちゃんのネクタイをいつも締めて試合会場に行っていましたからね。仁ちゃんはライバルでしたが、やっぱり、お互いが信頼できる間柄。2人で協力して日本の柔道界を引っ張っていこうなっていう思いがありましたよ」
【取材後記】山下さんは本格的な柔道取材が26年ぶりという記者を、変わらない笑顔で迎えてくれた。記者が講道館少年部時代に演舞で参加した全日本選手権で、初出場の山下さんは17歳で3位の快挙。笑顔は当時のままだ。
柔道はテレビやユーチューブなどで見ることがあるという。6月の全日本学生優勝大会で明大が25年ぶりに優勝したが、山下さんは「関係者の方々はうれしかっただろうと思いますねえ」としみじみ。母校・東海大を率いてライバル校と戦っていた時代を取材してきたから、笑顔での祝福には驚いた。「去年も日大が28年ぶりに優勝。また柔道界が盛り上がってくれればいいなと思います」。母校とか宿敵校とか関係ない。柔道界全体の発展を心から願うのだ。
「明治の関係者の方々の、喜ぶ顔が頭に浮かんできましたよ。よかったなあって。国士舘大も、塘内(ともうち)将彦監督のもとでよくチームを立て直した。明治大の中濱真吾監督とともに『あっぱれ』をあげたいですね」と山下さん。晴れやかにそう言う笑顔もまぶしかった。(1990〜2000年柔道担当・谷口隆俊)
◆山下 泰裕(やました・やすひろ)1957年6月1日、熊本・上益城郡生まれ。69歳。東海大相模高―東海大―同大学大学院。77年日ソ親善試合から9連覇した85年全日本選手権決勝まで203連勝。84年ロサンゼルス五輪無差別級金メダル。同年10月に国民栄誉賞(中曽根康弘首相)を受賞。世界選手権は79年から95キロ超級3連覇。81年は無差別級と2冠。85年に引退。92年から2000年シドニー五輪まで日本代表男子監督。17〜23年まで全柔連会長、19年〜25年にJOC会長。

