ウクライナ戦争でロシア軍兵士として戦った日本人がいる。なぜ日本人がロシア軍の義勇兵になったのか。金子大作さんの著書『ロシア軍の日本人兵士 最強の特殊部隊「アフマット」で見た地獄』から、その経緯を紹介する――。(第2回)

※本稿は、金子大作『ロシア軍の日本人兵士 最強の特殊部隊「アフマット」で見た地獄』(講談社)の一部を再編集したものです。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fortton

■軍歌を聴いて育った少年時代

なぜ僕がロシアに渡ったのか。それを説明するために、少し長くなるが半生を振り返りたい。

1975年12月21日、僕は大阪府八尾市で生まれた。父親は寿司屋を営み、朝から晩までどころか、次の日の朝まで働き詰め。一日に一度も顔を合わさないこともザラだった。店を手伝っていた母親とも朝食と夕飯時に顔を合わせる程度で、米屋に預けられた妹は常に不在。一人っ子同然だった僕は保育園が終わると、ひとりで留守番するのが日常だった。

親から愛情を受けた思い出はないに等しいが、そんな孫の境遇を見かねて、祖父が八尾の自宅までたびたび訪ねてきた。祖父は戦時中、特攻兵に志願。出撃する前に終戦を迎えて運よく生き残ったという。幼い頃から子守唄のように祖父の軍歌を聞いたお陰で、今でも僕のカラオケの定番ソングとなっている。

小学校にあがると習い事という習い事は何でもした。エレクトーン、スイミング、書道、相撲、リトルリーグ、絵画教室と、毎日が習い事で埋まった。ただ何より好きだったのは、読書だ。父は子育てに無関心だったが、「小説ならば好きなだけ買っていい」と言ってくれた。本屋で週に1冊のペースで文庫本を買って、片っ端から読み漁った。小学校5年生のときには小松左京や半村良、船戸与一、落合信彦などの作品を読破。同じ小説を5回、6回と何度も読み返した。

■成人式は塀の中で迎えた

この頃には地元の秀才が集まる学習塾にも通い、入塾してからずっと一番上の「特進クラス」から一度も落とされることはなかった。

中学受験はせず、地元の公立に進学したが、これが良くなかった。授業はすでに塾で習った内容ばかりで、退屈でしょうがない。次第に悪友とともに授業に出なくなり、悪さを覚えていった。大阪・ミナミの繁華街で喧嘩の日々を送り、先輩に誘われて13歳で暴走族に入ると、3年後には総長になった。

地元のヤクザと揉め事を起こしたのをきっかけに親分に気に入られ、土木の仕事を任されるようになり、17〜18歳で月に40万円を稼いでいた。だが、度重なる素行の悪さから捕まるのも時間の問題だった。ある日の早朝、自宅周りを大阪府警の刑事に囲まれて逮捕。少年刑務所に収容されてしまう。当時19歳。成人式も塀の中で過ごすことになった。

日本最悪の少年刑務所――それが僕の入った奈良少年刑務所の評判だった。そして、その評判が間違いでないことを入所初日から思い知らされた。

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■「ゴキブリを食わされる」のは当たり前

拘置所から移送されて奈良少年刑務所に到着すると、看守が連れて来られた僕ら少年たちを前にこう指示した。

「みんな、座れ」

素直に、僕らはコの字形のベンチに座った。すると少年の1人が看守3人に囲まれて、無言のまま、いきなり殴打された。少年が椅子から転げ落ちて倒れると、今度は一斉に顔面に蹴りを入れられる。顔面が1.5倍に腫れ上がった少年を横目に、少年刑務所の生活はスタートした。

当時の看守は少年たちを人間とすら思っていなかった。暴力に理由はなく、ただのストレス発散で、毎日誰かがサンドバッグのように殴られた。そんな過酷な環境で暮らしていると人は怒りの矛先を弱者へ向けるということも、この刑務所で覚えた。

奈良少年刑務所に収容された少年は、地元で番長を張っていたような不良か、重罪を犯した少年のいずれか。後者には成人なら長期刑になっていた者も多く、恋人に腹を立て妹ともども惨殺した奴や、後続車のクラクションにキレてアイスピックで運転手の目を刺した奴もいた。そしてそんな少年たちは、刑務所内で名古屋派閥と大阪派閥の2つの勢力に分かれ、互いをライバル視していた。

集団のなかに優劣が生まれ、弱者と見なされれば徹底的にシゴかれる。一番軽いシゴキがゴキブリを食わされること。書くのも憚られるようなイジメに遭って、地元で大きな顔をしていたワルが、真夜中、枕に顔をうずめ嗚咽を漏らす姿を何度も見た。精神的に追い込まれて自殺者も出たほどだ。

■服役中に国家資格を3つ取得

ただ、僕はこの刑務所でも喧嘩しまくって番長になった。おかげで2度も懲罰をくらって独房送りになったが、独房で過ごした時間はすべて資格の勉強に割いた。そのおかげで電気工事士二種、危険物取扱者乙種4類、商業簿記2級を服役中に取得。出所後にも保険募集人上級資格を一発合格で取得した。

資格を取ったのは、将来を考えてのことだ。中卒の刑務所上がりでも国家資格を持っていれば、「ただのバカではない」と周囲に見てもらえると思った。それでも周囲から認めてもらえないと感じれば、ヤクザの世界に行こう。そっちの世界で命懸けでやる。当時は本気でそう思っていた。

入所から3年2カ月で仮釈放となった後も、奈良少年刑務所で同じ釜の飯を食った仲間たちとは交流があった。僕はその後刑務所のお世話にはなっていないが、成人してから再び罪を犯した奴らは、こう口を揃えた。

「あの地獄の生活が待っているなら、警察の留置場で本気で自殺しようとも考えた。でも、収監された関西の某刑務所は驚くほどラクだった。辛さでいえば奈良の10分の1ぐらい。人間としての生活を許されたからね」

そんな地獄の奈良少年刑務所は、2016年度をもって閉鎖された。

■“ヤクザの車”ばかり扱う会社に弟子入り

23歳で刑務所を出た後、僕は大阪市郊外にある板金塗装の会社に弟子入りした。その会社は飲んだくれの師匠が一人で経営しており、持ち込まれるのは大阪近辺のヤクザの所有車ばかりだったが、技術は本物だった。

弟子入りして約4年間、トラックのミッション交換やエンジンの乗せ替え、板金、塗装、フレーム修正に至るまで、板金工に必要とされる技術をすべて身につけ、顧客に納品できるまでになった。

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ただその頃には師匠のアル中は悪化しており、僕との些細な口論が最終的には殴る蹴るの大喧嘩になった。事務所がひっくり返るほど暴れ、僕はこの一件を機に退職し独立した。28歳になってすぐのことだった。

同じ頃に結婚し、娘も生まれた。だが、家庭円満とは程遠かった。起業に伴う借金の支払いや部品代、材料費、従業員の給料などを差し引くと、自分の労働時間を長くして多くの仕事を請け負うほかない。朝早くから出勤して、深夜0時を回ってから帰宅する毎日である。資金繰りに追われて精神は摩耗し、新婚なのに家庭を顧みずに働きまくった。

妻には本当に苦労をかけた。娘の成長もほとんど一緒に見ることができず、生活に余裕もなかった。

■「43歳で会社を閉じて戦場に行く」

起業から約2年が経ったある日、夜半過ぎに帰宅するとベッドは空っぽで、妻は娘を連れて家を出て行った。ひもじい思いをさせたから当然の結末ではあったが、少しの幸せも与えられなかった家族に対しては、今でも後悔しかない。

だが、皮肉にも家庭を失った翌年、僕の会社は軌道に乗り始める。2000年代初頭に始まった「VIPカーブーム」にあやかったのだ。

VIPカーブームとは、トヨタのクラウンやセルシオ、日産シーマなどの国産高級セダンをベースに、車高を極端に下げたり(シャコタン)、大径ホイールを履かせたり、派手なエアロパーツを装着したりといったカスタムが大流行した現象のこと。我が社でカスタムしたVIPカーが車雑誌の表紙に採用されたことが契機となって、依頼が次々と舞い込んだ。そこで独自のカスタムパーツを売り出すと、これも大ヒットとなった。

会社は急成長し、35歳でマイホームを建て、貯蓄も1億円を突破した。正規ディーラーでベンツも購入し、アメックスとVISAのプラチナカードも手にした。

そして38歳になったとき、僕は従業員たちを前にこう告げた。

「43歳で会社を閉じて戦場に行く」

■いくら金を稼いでも幸せにはなれなかった

カネであれだけ苦労したのに、いざ羽振りが良くなると使い道に困った。いかにして暇を潰すかばかりを考えて、仕事の時間以外はとにかく退屈でしかたない。ヒマを潰すためにカネを遣って豪遊しても、充足感は得られない。

そんな生活をしていると、いつからか僕はこんなことを考えるようになった。

〈いったい人生ってなんやねん?〉
〈なんのために必死こいて仕事をして、生きんとアカンねん〉

人は幸せになるために仕事をしてカネを稼いでいるはずなのに、少なくとも僕の場合は、富を築いても幸せは感じられなかった。では、何のために生きているのか。実はただ、生存本能に従って生きているだけなのではないか。

金子大作『ロシア軍の日本人兵士 最強の特殊部隊「アフマット」で見た地獄』(講談社)

だとしたら、「生」を最も感じられる場所に身を投じたい。理解し難いかもしれないが、熟慮の末に僕が導いた結論が「戦場に行く」ということだった。

〈死ぬ間際、生存本能に打ち勝ったと神様を笑ってやろう〉

僕はそう決意した。

出発を43歳としたのは、戦場で精一杯生ききるためには、準備が必要だと思ったからだ。仕事を続けながら海外に渡航して射撃の訓練をし、基礎体力を向上させるため、登山にも挑戦した。休日を自主的な訓練に充て、戦場で戦うという目標に向けて歩み始めたのだ。

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金子 大作(かねこ・だいさく)
ロシア軍特殊部隊「アフマット」所属
1975年、大阪府生まれ。20代で大阪府内に板金塗装会社を設立。2000年代初頭の「VIPカーブーム」に乗り財を成した。2023年8月にロシアへ渡り、外国人傭兵部隊「ピャトナシュカ旅団」に狙撃兵として採用。現在は特殊部隊「アフマット」に所属する。アウディーイウカ、ルガンスク、クルスクなど激戦地での戦闘を経験。2026年5月現在は、ベルゴロドで戦う。著書に、『ロシア軍の日本人兵士 最強の特殊部隊「アフマット」で見た地獄』(講談社)がある。
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(ロシア軍特殊部隊「アフマット」所属 金子 大作)