かつては夜市で見る未知の食べ物にも「興味津々」だった亜弥さん。やがて吐き気を催すまでに…

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「私のせいで」という罪悪感が引き金

 夫の仕事の都合で、約2年前から一家で台湾に駐在している亜弥さん(仮名・30代)。観光やグルメの街としても人気の高い台湾への赴任が決まった当初、亜弥さんも期間限定の海外生活を前向きに楽しもうと、ポジティブな気持ちを持っていたという。しかし、現地での生活が軌道に乗り始めた矢先、ある出来事がきっかけで日常の様子が変わっていった。

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「私の手料理を食べて、子どもがお腹を壊してしまったんです。幸い、入院するほど重症化はせず、2日ほど自宅で安静にしていたら元気になりました。ですが、それ以来、あらゆる衛生面に対して過剰に神経質になってしまって……。食あたりの明確な原因は結局よく分からないままだったのですが、『私のせいで子どもに危ない思いをさせてしまった』という強い罪悪感を抱くようになってしまいました」(亜弥さん、以下同)

 その日を境に、亜弥さんのこだわりは周囲から見ても明らかに強くなっていった。日本以上に、外食やテイクアウトが身近な文化の台湾で、ローカルな食堂やフードコートなどの飲食店に出かけることがつらくなってしまったのだ。

かつては夜市で見る未知の食べ物にも「興味津々」だった亜弥さん。やがて吐き気を催すまでに…

 もっともきつかったのは夜市だ。臭豆腐や海産物、八角といったクセの強い食材・調味料に加え、油や生薬、珍味のニオイが入り混じる。時にハエや羽虫も飛び交う屋外での調理の様子や、店先に積まれた食べ物……夜市を歩くだけでも吐き気を催すようになってしまった。

 ムワッとした暑さのなかに野菜やフルーツ、肉類、魚介類が並べられた市場には恐怖を感じるほど。とはいえ、少し衛生的だと感じる高級スーパーへ買い物に行っても、何が「安全」なのかが、もはや分からない。商品の成分表や原産地を厳しく繰り返しチェックして、カラの買い物かごを持ったまま店内をグルグルとしてしまう。

“グルメの街”全体に不信感がわき、何を見てもニオイを嗅いでも「これは衛生的に大丈夫なのか、身体に悪いものではないか」と息が詰まって胸がザワついたという。亜弥さんは家族で外食をすることはもとより、買い物などの外出すべてが苦手になってしまった。

「自分はおかしくなったかも」という恐怖

 衛生面への過度な不安は、家の外だけでなく自宅にいるときも収まることはなかった。

「キッチンのまな板や包丁はもちろん、食器類や冷蔵庫の中の衛生環境も気になって仕方がなくなりました。あらゆるところを、隅々までアルコールで徹底的に除菌しないと気持ち悪くて落ち着かないんです」

 家族の出入りしかない室内のドアノブを1日に何回も除菌した。

「手についた目に見えない菌への恐怖から、外出先では電車の吊革やドアノブに触ることに強い恐怖を感じるようになり、家に帰ったときやトイレの後は、皮膚が荒れてボロボロになるほど、何度も手を洗い続けてしまうようになりました。これはもう普通の潔癖症の域を超えている、自分はおかしくなったのではないかと、不安でたまらなくなりました」

 不潔への恐怖から、日常生活に大きな支障をきたすようになってしまった亜弥さん。相談を受けた駐在妻専門カウンセラーで臨床心理士・公認心理師の前川由未子さんは、このような強迫観念の背景には、実は全く別のところに本当の不安や気掛かりが隠されているケースが多いと話す。

「人は、自分にとって本当に直面するのが辛い不安や悩みを抱えているとき、それを直視したくないため、心が無意識にまったく別の対象へと不安をすり替えてしまうことがあります。これを『借り物の不安』といいますが、不潔や菌に対する不安で脳内をいっぱいにすることで、本当に向き合わなければならない別の苦痛から目を背けようとしているのです。ただしこの行動は、別の側面から見ると、心が壊れてしまうのを防ぐという自衛のメリットがあります」

根底にあった実母との複雑な親子関係

 カウンセリングを重ねると、亜弥さんの本当の不安の正体が見えてきた。それは、台湾での生活環境への不満ではなく、幼少期から彼女を縛り続けてきた実の母親との関係性だった。

 亜弥さんは子どもの頃から、実母から過度な干渉や心理的な抑圧を受け続けて育った。小学校低学年からスカートや長い髪を禁止され、成人するまではメイクも許されず、もちろん男子や恋愛、男性アイドルに関する話さえもご法度……そんな「潔癖すぎる実母」との関係に強いプレッシャーを抱えたまま大人になった亜弥さんは、心の奥底に「母のようになったらどうしよう」という不安を隠していた。そこへ、海外生活という環境の変化や、それに伴うストレスが重なった。

「亜弥さんが作った食事で子どもがお腹を壊したという事実が、幼い頃に彼女が母親から受けてきた『親から害を与えられる恐怖』の記憶と重なってしまったのです。『私も母と同じように、自分の子どもに害を与える存在になってしまったらどうしよう』という恐怖や不安。それが菌や衛生面への恐怖という、借り物の不安に形を変えていたのです」

 根底にある親子関係の問題に気づき、「子どもがお腹を壊したこと」と「過去の母親との問題」は別問題だと冷静に捉え直せるようになったとき、亜弥さんの行為は落ち着きを見せていった。

周囲は、症状の否定ではなく寄り添いを

 もし身近に突然、衛生への過度な不安に囚われてしまった人がいる場合、周囲の接し方には極めて慎重な配慮が求められるという。

「亜弥さんのケースでは、いくら日本とは食文化や生活環境が違う国とはいえ、何度も手を洗ったり、外食を過剰に拒んだりする姿は、神経質すぎる異常なワガママ行動だと周囲からは映るかもしれません。しかし、それは内面の不安から身を守るための無意識の手段です。亜弥さんのような親子関係の葛藤だけでなく、過去に受けた虐待や性被害など大きな傷が隠されているケースもあります」

 そこで最もやってはいけないのが、周囲がその強迫症状をむやみに否定したり、無理やりやめさせようとしたりすることだと前川さんは強調する。

「関係性にもよりますが、よかれと思って本人の過去の傷を無理に聞き出そうとすると、土足で心に踏み込まれるような感覚を与えてしまいます。また、相手を拒絶するような『消毒し過ぎはヤバい』『嗅覚おかしいよ』などの否定的な言葉も避けるべきです」

 では、身近な人にできる正しいサポートとは何なのだろうか。

「行為そのものを無理に直そうとするのではなく、『今、何か困っていない?』『衛生面は大丈夫? この国って色々大変じゃない?』など、本人が抱えている辛さそのものに寄り添ってあげることです」

 まずは、安心して弱音を吐ける環境を作ってあげることが大事なようだ。

「その中で、本人が『実はちょっと大変で』とか『ほんとはこう変わりたい』といったニーズを見せてくれたらチャンスです。『こういう方法もあるよ』と臨床心理士や心療内科などへ繋げてあげてください。専門家が症状の裏にある心の痛みに寄り添い、一緒に解決のお手伝いをします」

 本人のニーズを引き出し、自然な流れで専門家に繋げる――それが回復への第一歩になるという。

※紹介する事例は、プライバシー保護等のため、アレンジを加えている。

取材・文/荒木睦美

デイリー新潮編集部