【福田正博 我が道5】原点は読売クラブ流の技術
私が幸運だったのは、節目でいい指導者に出会えたことだった。サッカーに誘ってくれた田中先生の奥さんの兄・橋本章也さんが読売クラブに勤務していて、週に2度、大庭FCに来てくれた。日本は代表の特別コーチだったクラマーさん(西ドイツ)の影響で、ヨーロッパ流の組織的なサッカーを目指すチームが多かったが、読売クラブはブラジル流の個人技を重視したサッカーをやっていた。橋本さんは、ドリブルや1対1、2対1、壁パスなどを教えてくれて、ボールリフティングも手ほどきしてくれた。小学5年生の3月に藤沢市のボールリフティング大会があり、私はサッカーを始めてまだ4カ月だったが、約150回できた。翌年の同じ大会では約1200回で3位になった。
今なら先生に怒られるかもしれないが、休み時間に校舎の廊下で小さいボールを使ってサッカーをした。壁を使ったパスなどのアイデアもあり、ストリートサッカーのようなものだった。砂場や傾斜面でもボールを蹴ったし、チーム練習が休みの月曜日もみんなで校庭に集まってサッカーをやった。
橋本さんのつてで、駒沢オリンピック公園や等々力陸上競技場で、読売クラブの試合を観戦した。松木安太郎さんや戸塚哲也さんがいたが、ジョージ与那城さんのテクニックを見て、「ああいう選手になりたい」と憧れた。よみうりランドの練習場にも行った。来日して間もないラモス瑠偉さんと一緒にミニゲームをしたことも覚えている。ラモスさんははだしだったが、ボール扱いのうまさは別格だった。あれほど野球が好きだったのに、もはや野球のことは頭になくなっていた。
私がサッカーを始めたのは小学5年生の11月中旬、11歳になる直前だが、今思えば、上達するギリギリのタイミングだった。人間は10〜12歳ごろが一番神経系が発達し、技術が習得しやすい。体が大きくなると筋肉の発達が追いつかなくなり、技術が習得しにくくなる。私は体が小さい方で、神経系の発達がやや遅かったことが幸いした。ちょうどサッカーを始めたときがゴールデンエージといわれる時期で、「即座の習得」ができた。
この頃初めてW杯を見た。小学6年生の6月、78年W杯アルゼンチン大会決勝のアルゼンチン対オランダ戦だった。NHK総合テレビの録画中継だったと思うが、アルゼンチンのFWケンペスがゴールを決めたときに紙吹雪でグラウンドが真っ白になり、「これがW杯なんだな」と目がくぎ付けになった。オランダのMFハーンのロングシュートも、「こんなのが打てるんだ」と驚いた。のちに浦和のコーチになったヤンセンさんもこの試合に出場していたが、一緒に仕事をすることになるとは、不思議な縁を感じる。「こういうところでサッカーができるんだ。日本のサッカーはまだマイナーなんだ」と実感し、世界との差を知った。
◇福田 正博(ふくだ・まさひろ)1966年(昭41)12月27日生まれ、神奈川県出身の59歳。相模工大付高(現湘南工大付高)から中大を経て三菱重工に入社。Jリーグ開幕後は浦和で95年に得点王、ミスターレッズと呼ばれた。日本代表でも92年アジア杯や93年のW杯米国大会アジア予選などに出場。現役引退後は08年から3年間で浦和のコーチとして指導。現在はテレビ解説者やスクールコーチを務めている。

