NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、安土城の宴に四国の戦国武将が現れ、信長に四国切り取りの順調を報告する場面が描かれる。だが信長はその直後、約束を一方的に覆して四国攻撃軍を編成する。両者を取り持った明智光秀の顔は、完全に潰された。信長の心変わりは、単なる「気まぐれ」だったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、論文などを基に史実に迫る――。
織田信長像 賛・跋。狩野元秀・筆(部分)(写真=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■信長に“従属”した元親、その後に訪れた破局

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。6月28日放送の第25回、ついに長宗我部元親(磯部寛之)が登場する。安土城の宴に現れた元親は、信長(小栗旬)に頭を下げ、四国の切り取りが順調に進んでいることを報告する……。

史実を知っていれば、これは破局の序章だとわかる。

『信長公記』によれば、1580年6月、元親は弟の香宗我部親泰を安土に派遣し、阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。この時点では、元親は信長への従属姿勢を示していた。しかしその後、関係は急速に悪化する。

信長の助力を受けた三好康長・十河存保が反攻を開始し、信長は阿波南半国と土佐のみを元親の領有と認める停戦令を出した。さらに天正9年11月、淡路平定を受けて信長は三好康長に阿波・讃岐の領有を認める朱印状を与えた。元親が血を流して取った阿波・讃岐が、まるごと三好康長のものになる……そういう話だ。

明智光秀が調停に動いたが事態は動かず、1582年5月7日、信長は織田信孝を総大将とする四国攻撃軍を編成。その渡海予定日の前日、6月2日に本能寺の変が起きて事なきを得た。だが結局、秀吉による征伐を受け、元親の四国統一の夢は潰える。

■“信長の後ろ盾”で、四国を切り取っていた

なぜ、こうなったのか。

従来の説明は「信長が約束を破った」か「元親が欲を出した」のどちらかで片付けられてきた。だが、そもそも元親の立場から見ると、この関係はもっと奇妙な構造をしている。

元親は信長に「従っていた」のか。答えはイエスでもありノーでもある。元親が阿波に攻め込んでいた相手・三好氏は、信長の敵でもあった。「共通の敵を持つ者同士」として、両者の利害は一致していた。元親は信長の傘下に入ったというより、信長という巨大な後ろ盾を利用しながら四国を切り取っていた、というのが実態に近い。

そんな元親と信長も、明確な同盟関係には至っていなかったようだ。というのも、秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面 土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって」(『土佐史談』215号、2000年)では、信長はこの時点でも、土佐の支配者は土佐一条氏の当主である一条内政であり、元親は陪臣に過ぎないとみていたようだ。

秋澤は、信長が求めたのは、傀儡とはいえ、内政を土佐の国主とする秩序に従うことだったとする。ところが、1581年2月に内政は謀反の疑いをかけられ伊予に追放。これを信長が服属拒否と見做したことで関係が悪化したのではないかと考えられている。

■古文書が明かした「告げ口」の存在

なぜ、ここまでボタンの掛け違いが発生してしまったのか。その謎を検証した論文が、熊田千尋「本能寺の変の再検証――先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合――」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第25号、2020年)だ。

この論文が注目するのは、2014年に公表された『石谷家文書』である。石谷氏とは何者か。元親の正室の父にあたる石谷光政、そしてその養子で明智光秀の重臣・斎藤利三の実兄にあたる石谷頼辰、この一族が交わした書状群が「石谷家文書」だ。

元親の妻の実家が、光秀の家臣団と血縁でつながっていた。光秀が元親の取次役を務めた背景には、こういう縁戚関係があったこともわかる文書だ。

この文書群の中で、論文はまず、本能寺の変から約9カ月後、天正11年(1583年)2月20日付で近衛前久が石谷父子に宛てた書状に注目する。この書状には、こんな一文がある。

去々年冬、於安土種々悪様ニ信長へ申成候者て、既事切之やうニ成候を、われわれ達而信長へ元親無疎意趣を申分、当分御納得、〜中略〜、あしく申成候ものハ見事の者ニ成、われら毛頭無誤事を悪様ニ申成候事、誠ニ思外ゑんの下の舞とハかやうの事候歟

筆者訳:
一昨年の冬、安土において(元親のことを)いろいろと悪く信長へ申し成した(告げ口した)者がいて、すでに(織田と長宗我部の関係が)決裂しそうな事態になっていました。それを私たちがわざわざ信長に対し「元親殿に敵意はありません」と言い分を申し立てたため、当座は信長も納得したのですが、悪く告げ口した者の方が正しいということになり、私たちのように毛頭も間違いのない者を悪く言い立てられるとは、誠に思いがけないことで、「縁の下の舞」とはまさにこのようなことでしょうか。

ようは、前久らも、元親は信長に敵意がないと説明していたのだが、悪く言うものがあったせいで、対立することになったというわけだ。しかも、この書状では、元親が大鷹二羽を献上したことで関係は良好になりそうだったのに、また「佞人(ねいじん)(心のねじ曲がった悪人)」のせいで悪化してしまったとする。そして、本能寺の変後には、この佞人のせいで私も秀吉に悪くいわれてしまったとまで綴るのだ。

ここからは、信長が讒言者の意見を取り入れたことで、四国政策は変更。元親との切り取り次第という約束は覆され、ついには四国侵攻にまで関係が悪化してしまったことがわかる。

「太平記英勇伝七十二:長曽我部宮内少輔元親」(写真=東京都立図書館/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■讒言者の正体は「松井友閑」か

ここで熊田論文は、先行研究で讒言者として挙げられてきた一条内基・西園寺実益説を退けた上で、新たな人物を特定する。

手がかりは近衛前久の回想録だ。そこにはこう書かれている。

「のふなか(信長)のこ三七(織田信孝)へ、ゆうかん(友閑)さゝへ申、われわれにめいわく(迷惑)させ候ハんとて、せはめられ候」

この文章をもとに、論文は、讒言者の正体は松井友閑であったとされる。

松井友閑は、堺代官を務めながら「信長の御意伝達役」を担うほど重用されており、三好康長と縁も深かった。そこで、友閑は康長視点による四国情勢と元親の動向を信長に報告。結果、信長はこの意見を取り入れ切り取り次第という約束を覆したというわけだ。

つまり、戦場では勝利した元親でも、堺の実力者と元敵将のコンビによる外交戦には、まったく歯が立たなかったのだ。

なお熊田論文のテーマは、タイトルにもある通り本能寺の変の原因の検証である。論文では、この外交敗北こそが本能寺の変の遠因だったと論じている。松井友閑に敗北した光秀は、元親への説得交渉を無視される形で信長に四国攻撃を命じられ、取次役としての立場を完全に否定された。この件で、自らの政治的基盤が崩れていくのを感じた光秀が追い詰められていったというのだ。

実のところ、土佐一国から四国統一を目指した元親は、さまざまなフィクションにも登場する人気の戦国武将である。土佐を統一し、阿波・讃岐・伊予へと版図を広げ、秀吉の征伐が始まる直前には四国をほぼ手中に収めた……と、多くの概説書には書いてある。

長宗我部元親。画名「絹本著色長宗我部元親像」(秦神社所蔵品)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■“国人や土豪の心”までは動かなかったか

だが、「統一」の実態はどうだったのか。

山内治朋「戦国期土佐大名の南予進出の実態と特質」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第31号、2026年)は、伊予南部への長宗我部氏の進出を一次史料から検証した論文だ。ここでは、進出の実態をこう結論づけている。

一条氏のような親族化や主従関係といった強固な結束を十分に醸成するまでにはいたらず、暫定的に結び付く与同関係に留まったようだ。範囲も限定的で、軍事制圧も一時的・地域限定的に終わった。南予で恒常性のある国衆掌握はほとんど叶っておらず、影響力も一条氏ほど広域に及ばず、それを軍事侵攻で克服して全域的な制圧を実現することもできなかったのである。

つまり、秀吉の到来直前に実現した「四国統一」は、かりそめの制圧にすぎなかった。現地の国人や土豪とは「とりあえず、一緒にやりましょう」ともいうべき緩い関係はできているものの、主従関係もなければ血縁で結びつくこともできていない。次に強い風が吹けば、あちこちで旗が翻りかねない状態だった。

■“成り上がり者”に、人を束ねる“格”はなかった

そもそも元親には、人を束ねるための「格」がなかった。

それまで南予に影響力を及ぼしていた土佐一条氏は、五代にわたって婚姻による一族化と寺社ネットワークの構築を積み重ねてきた。しかも一条氏は京から下向した摂関家の流れを汲む。元親に追放された最後の当主は内政。官位は従四位下左近衛中将という高位を持つ。現地の国衆からすれば「従うだけの理由」が制度として存在していた。

対して元親は、土佐の国人の一人にすぎない。たまたま軍事力で版図を広げた、いわば成り上がり者である。権威も正統性もなにもない。国衆にしてみれば「まあ、今は逆らっても損だから」という計算で従っているだけで、心服する理由はどこにもない。

土佐一国は軍事力によって制圧できた元親だが、それ以上に版図を広げるほどの器では無かった。友閑の讒言はたしかに不当だったかもしれない。しかし「このまま放っておけば天下の妨げになる」という耳打ちが信長に刺さったのは、元親の限界を見抜く目が信長にもあったからだろう。讒言が効いたのは、それが的外れではなかったからだ。

■一領具足、軍事力の限界

それに、元親の軍事力には限界があった。その中心は「一領具足」、すなわち、平時は農民、戦が始まると具足を持って集まる半農半兵の地侍層である。ようは、常備軍を備えている信長や秀吉からしてみれば、時代遅れの軍隊である。

土佐という閉じた地形の中では、これで十分だった。しかし、阿波・讃岐・伊予は違う。三国はいずれも海に開いており、瀬戸内海を介して外部と直結している。阿波には紀伊水道を渡れば畿内から何度でも兵と兵糧が届く。讃岐の沿岸には来島・能島・因島の村上水軍が睨みを利かせ、伊予は豊予海峡で九州・大友氏と向き合う。陸から攻め込んで一度勝っても、海から再補給されれば敵は何度でも蘇る。

写真=iStock.com/kuppa_rock
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuppa_rock

実際、このせいで阿波・讃岐では苦戦を強いられている。

1580年、本願寺との終戦後には、行き場を失った本願寺の牢人衆が海を渡って阿波に押し寄せ、三好方の拠点・勝瑞城を占拠するという事件が起きている。陸で押さえたはずの阿波が、海から来た連中にひっくり返された。

1583年には、秀吉の命を受けた仙石秀久が2000の兵を率いて、淡路から海路で讃岐東端の引田城に上陸した。元親は阿波の白地城から陸路で2万の大軍を動かして迎え撃ち、野戦では仙石勢を退けた。数の上では圧勝である。しかし秀久は四国本土から撤退した後も淡路島と小豆島の守りを固め、瀬戸内の制海権を手放さなかった。元親が陸で勝っても、海の蓋は開かない。敵は島に引いて息を整え、また渡ってくる……。

■「土佐の論理」で四国は制圧できなかった

たとえ秀吉による征伐がなかったとしても、元親の四国支配は遠からず瓦解していただろう。合戦に勝っても敵は海から蘇り、統治の仕組みは整わず、国衆の心は離れていく。放置しておいても、砂の城は崩れる運命にあった。

信長が友閑の言葉に頷いたのも、秀吉が四国征伐でわずか数カ月で元親を降したのも、結局は同じ構造を見ていたからではないか。

元親の限界は、土佐という陸の論理で、海で繋がる四国を制しようとしたことにあった。

----------
昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
----------

(ルポライター 昼間 たかし)