なぜ日本ではアーティストの政治的発言がタブー? 星野源「コラボ動画」から考える - 伊藤聡
※この記事は2020年04月22日にBLOGOSで公開されたものです
4月上旬、ミュージシャン星野源がSNS上で発表した楽曲「うちで踊ろう」に合わせて、首相が自宅でくつろぐ姿を撮影した「コラボ動画」が反響を呼んだ。国会でも議論となったこの出来事をきっかけに、表現者と政治の関係について意見が交わされたのを見聞きした方も多いだろう。音楽家は、みずからの政治的スタンスを表明すべきか。意思表示したい人だけがすればいいとの意見がある一方(*1)、立ち位置の明確でないポップソングは、政治利用されてしまうとの見方も述べられている(*2)。
むろん、政治的発言をタブーとしない成熟した社会は理想的だが、表立っての意見がはばかられる日本では、そのハードルはまだまだ高い。わけても、星野のように人気が高く、5大ドームツアーのような規模の大きい活動をする歌手であれば、雇用するスタッフも多く、責任も大きい。その立場上、思想信条をはっきりと発言するリスクもよく理解できる。なぜ日本ではアーティストの政治的発言がタブーなのか。この難しい問いに対してヒントを探るべく、アメリカの事情と比較するのが本稿のテーマである。
米大統領選の音楽利用で摩擦
音楽と政治の関係性で興味深い事象のひとつに、米大統領選のキャンペーンソングがある(大統領選の候補者は、テーマソングを選んで遊説先や集会で使用する習慣がある)。
過去の例を挙げれば、1984年、ロナルド・レーガンは、ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」を大統領選のキャンペーンに使用しようとしたが、アーティスト側に断られた(*3)。またドナルド・トランプは、ローリング・ストーンズやR.E.M.の曲を集会で許可なく使用して抗議を受けており(*4、5)、ファレル・ウィリアムスは自身の曲「Happy」を使用したトランプに対し、弁護士を通じて取りやめるよう伝えている(*6)。これらアーティストの音源は誰にでも入手可能であり、政治的な場所での楽曲使用は当然起こり得る。
ミュージシャンが自身の楽曲を集会等で使用されることを警戒するのは、彼らがその政治家を公に支持(endorse)しているとの誤解を避けるためである。こうしたケースにおける音楽家の立場は思いのほか弱い。R.E.M.のマイク・ミルズは「法的手段を用いて止めさせようとしているが、それが叶わない場合でも、楽曲使用を認めていない点を理解してほしい」と発言しているが(*7)、弁護士を雇っても楽曲使用を停止できない可能性があるとは意外だった。
安倍首相を支持している誤解を与えるコラボ動画
星野のケースを考えた場合、「誰か、この動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?」と、あらゆる人の参加を認めている以上、ひとりの政治家が呼びかけに答えて動画を投稿する行為そのものについては、それを止められない。今回、星野は首相の「コラボ動画」投稿について、事前連絡の有無についてのみ事務的に言及しているが、これは星野がアーティストとして現政権を公に支持しているという誤解を避けるための声明であり、現在の彼の立場で可能な最低限の線引きである。
しかし、この動画が数多くのミュージシャンによって広がっていったという当初の経緯を知らない一般の人びとに対して、くだんの「コラボ動画」は、星野が首相を公に支持しているような誤解を与える可能性が十分にあり、星野はほとんどもらい事故のような形で難しい立場に立たされてしまったことになる。
なぜ日本では公の場での政治的発言がタブーなのか。ただちに明確な答えを出すことは難しいが、たとえば精神科医の斎藤環が、参議院議員福山哲郎との共著『フェイクの時代に隠されていること』(太田出版)で指摘している日本の選挙スタイルの特殊さは、理解のきっかけになる。
同書で斎藤は次のように述べている。「氏名を大書きしたタスキを掛け、白手袋をはめ、駅前では市民に頭を下げつつ自らの名前を連呼し、選挙カーで街を練り歩き、当選すれば万歳三唱でダルマに眼を入れる。こうした我が国の選挙スタイルが、国際的な視点から見て、いかに特殊なものであるか」(*8)。斎藤は、こうした日本型選挙が政治の劣化を招いたと論じたが、これは同時に、日本人が政治を身近に感じられない理由でもあり、市井の人びとを政治から遠ざける要因になっていないだろうか。
これらのほとんど祭儀的といっていい選挙パフォーマンスは、実際の政治やわれわれの暮らしとはまるで関係がないものばかりで、かかる奇妙な風習に対して親しみを感じるのは難しいだろう(個人的にも、スウェーデンの友人が日本へ来た際に、選挙カーを見かけて「あれは何をしているのか?」と不思議そうに質問したことを思い出す)。
「ドブ板選挙」と呼ばれるこのしきたりが最終的に目指すのは、利益誘導にほかならない。これについて斎藤は「国家の利益から党の利益、地元の利益へ、さらには後援会の利益や意向を最優先にせざるを得なくなるような視野の狭窄化が、そこでは生じているのではないか」(*9)と論じている。このように、これまで日本において政治とはおおむね陳情と動員であったし、そうした利益誘導のうまみを享受できない多くの一般人にとって、選挙とは「たまに行われる、それほど楽しそうではないイベント」でしかないだろう。結果として、政治に対しても積極的な興味を持ちにくかったのではないか。ここ数年の投票率は、国政選挙でも5割に満たない場合があるなどきわめて低いが、ある部分では致し方ないとも感じている。
政治的な立ち位置を明確にするハードルが低いアメリカ
ここに諸外国との差異があるのではないか。アメリカを例に挙げると、かつてアメリカの議員事務所で働き、大統領選挙の集票戦略を経験した大学教授の渡辺将人は、著書『現代アメリカ選挙の変貌』(名古屋大学出版会)において、アメリカ人が政治に対して持つ率直で真摯な態度をこのように語っている。
「(選挙区から集めたアンケートを通読して)筆者が意外感を覚えたのは、便宜供与だけを求める陳情的な色彩が薄いことだった。むしろ是非が大きく分かれる特定の政治争点について、具体的な法案名を示し、なぜその法案に反対なのかを延々と書き連ねる手紙が多かった」(*10)。
アメリカ市民にとって、利益誘導は決して最優先ではないのだ。アメリカでは選挙が大きなイベントであり、大統領選ともなれば数多くのボランティアが選挙活動を手伝う。選挙が身近であれば、政治もまた身近になるだろう。政治を介して、人びとの活気あるコミュニケーションが生まれる。「オバマがアイオワで勝てた理由は、最も多くの事務所を開設し、活動家が集う場所を提供したことだと考えていた。オバマ陣営は、ボランティアがともに軽食を楽しみお互い励まし合う環境で『ピアプレッシャー』を与えた方が(…)効果的であることを理解していたのである」(*11)。
こうした渡辺の記述を読むかぎり、アメリカの政治には、理想的な社会を望む人びとを行動に駆り立てる有効な仕組みがあるのではないかと感じる。政治的な立ち位置を明確にすることへのハードルの低さもまた、こうした選挙の身近さに関係があるように思えるのだ。
日本は成熟した社会になるか
かつてアメリカでは、選挙の投票が居酒屋で行われていたこともあった(*12)。居酒屋でさまざまな階層の人びとが集まり、町の名士と農民、職人が同じテーブルを囲んで語り合う、そうしたコミュニケーションの一環として選挙は存在していたのだ。前述した斎藤は、日本型の選挙を「公職選挙法という縛りに過剰適応するなかで独自進化を遂げてきた、一種の伝統芸のごときもの」(*13)と指摘したが、日米のかかる差異は、政治に対する市民のコミットメントの差として現れているように思えてならない。
たとえば、ロバート・デ・ニーロやメリル・ストリープといった俳優が、公然と大統領の非難を行うような場面は、日本では考えられないものだ(*14、15)。またアメリカのコメディを支えるスタンダップはきわめて政治色が強く、コメディアンは明確にみずからの政治的立ち位置を表明しながらショーを構成し、人気を得ている。政治家のものまね(impressionと呼ばれる)は定番のジョークであり、コメディの世界からトークショーのホストに抜擢されて成功するケースも多い。公の場における政治的発言はタブーであるどころか、娯楽として受容されているのだ。
政治的な発言がごく当然にできる成熟した社会を作り上げるのは、すべての日本人の責任であり、今後の課題となるはずだ。星野のような音楽家ひとりに、風穴を開ける責任を負わせるのではなく、社会全体が、政治や暮らしについて自由に発言できる土台を作っていくことを望む。なぜなら音楽や映画といった文化は、社会的な危機の際やり玉にあげられやすく、思わぬきっかけで政治と衝突することがあるためだ(日本であれば、アニメや漫画、ゲームなどもそこに含まれるだろう)。
1940年代後半から米国内で吹き荒れたマッカーシズム(共産主義者の弾圧)はその一例であり、ハリウッドの映画製作者が証言台に立たされ、証言を拒否した者は獄に下った。映画業界には左派が多いと目されていたため、ターゲットにされたのである。マッカーシズムはアメリカの危機だったが、社会全体が揺れ動く不安定な時期にみずからの意思をはっきりと表明した人びと、たとえばジョン・フォードのような映画監督の勇気を思い出してほしい。仲間を守るため、彼は「わたしはジョン・フォード、西部劇を撮っている男だ」と力強く名乗り、語り始めた。「われわれの仲間の映画監督について、名誉を傷つける情報を広めようとするのはどうかと思うね、たとえ彼がコミュニストであろうとも」(*16)。
今後、日本社会が揺れ動くなかで、アーティストや芸能人が思わぬ形で政治に巻き込まれ、かつてのジョン・フォードのようにみずからの立ち位置を明確にしなければならない時期が訪れるかもしれない。それまでに日本社会は、政治的発言をタブーとしない、風通しのよい空間を構築できるまでに成熟するだろうか。
*1 https://twitter.com/tsurugimikito/status/1249287178858815490
*2 https://twitter.com/kiyoshimatsuo/status/1249260932217200640
*3 https://www.rollingstone.com/politics/politics-lists/stop-using-my-song-35-artists-who-fought-politicians-over-their-music-75611/bruce-springsteen-vs-ronald-reagan-bob-dole-and-pat-buchanan-28730/
*4 https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-36210829
*5 https://edition.cnn.com/2020/01/16/politics/r-e-m-trump-rally-trnd/index.html
*6 https://www.theguardian.com/us-news/2018/oct/30/pharrell-trump-music-politicians-bands-cease-desist
*7 https://twitter.com/m_millsey/status/1217521410240851968
*8 *9 福山哲郎・斎藤環『フェイクの時代に隠されていること』(太田出版)。なおこの中で斎藤が述べている日本型選挙の特殊性は、想田和弘監督の映画『選挙』('07)『選挙2』('13)にその構図がよく描かれていると述べられている。
*10 *11 渡辺将人『現代アメリカ選挙の変貌』(名古屋大学出版会)
*12 岡本勝『アメリカ禁酒運動の軌跡』(ミネルヴァ書房)。「旅行者が宿泊する店では、よその土地での出来事に関する情報が得られたし、選挙の投票や裁判もしばしばそこで行われるなど、居酒屋は地域社会の中心として機能した。酒を飲みに集まる客もすべての階層におよび、町の名士が農民や職人と同じテーブルを囲むことも、珍しい光景ではなかった」(p220)
*13 福山哲郎・斎藤環『フェイクの時代に隠されていること』(太田出版)
*14 https://www.reuters.com/article/us-awards-sag-de-niro/de-niro-takes-shot-at-trump-as-he-accepts-sag-lifetime-award-idUSKBN1ZJ06P
*15 https://edition.cnn.com/2017/01/08/entertainment/meryl-streep-golden-globes-speech/index.html
*16 グレン・フランクル『捜索者 西部劇の金字塔とアメリカ神話の創生』(新潮社)。1950年、アメリカの監督協会では、赤狩り推進派の映画監督セシル・B・デミルが、左派のジョゼフ・マンキーウィッツを会長の座から追い落とそうと画策していた。フォードの発言は監督協会の特別総会でなされたもの。仮に共産主義者とレッテルが張られれば、映画業界で働けなくなる可能性があった。
伊藤聡
海外文学を中心に、映画・音楽に関連する原稿を執筆。著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)
