【福田正博 我が道27】「お前の仕事は点を取ること」
Jリーグ2年目の94年夏にドイツでスポーツヘルニアの手術を受けたが、調子は上がらなかった。第2ステージからドイツ代表のDFギド・ブッフバルトとMFウーベ・バインが加入し、第2ステージは最下位を脱出したが、12チーム中11位だった。Jリーグ3年目の95年は、横山謙三さんがGMに、ドイツ人のホルガー・オジェックさんが監督に就任した。私は不振からの出口が見えず、「浦和にいたら終わってしまう」と悩んだ。
日本代表は94年12月に加茂周監督が就任。私は最初の試合、95年1月のインターコンチネンタルカップ(サウジアラビア)に招集され、2試合とも出場した。日本代表では活躍できるのに浦和レッズではいいプレーができない焦りから、横山さんに「移籍したい」と訴え、契約はしていなかった。代表の遠征から戻り、契約保留のまま、1月末から鹿児島・指宿キャンプに遅れて合流した。そこで横山さんに「もう1年頑張れ。浦和で何も結果を残していない。他チームに行っても、逃げたとしか思われないぞ。結果を残してから移籍を考えたらどうだ」と説得された。横山さんは日本代表監督時代から信頼していたし、前年もW杯に行かせてくれたり、ドイツで手術を受けさせてくれたこともあった。横浜市出身だったので、横浜マリノスの関係者と話したが、正式なものではなかったし、「鹿島アントラーズなら、ジーコもいるし、成長できる」と思っていた程度だったので、あっさり残留することになった。
オジェックさんはオフトさんと一緒で、私の役割を明確に示してくれた。「お前の仕事は点を取ることだ。それができるようになったらキャプテンとしての仕事もやってくれ」。そう言われて、日本代表と同じような居心地の良さを感じた。やるべき事を整理してくれただけで、私のパフォーマンスは変わった。
中盤のウーベ・バインが、前線にいいパスをくれたのが大きかった。ほぼ前年と同じメンバーで第1ステージ3位、第2ステージ8位。2年間、下位に低迷していたのがうそのような躍進だった。私も面白いように点が決められた。得点王争いは元イタリア代表のFWスキラッチ(磐田)が、第1ステージ26試合で24点と独走していたが、第2ステージは故障が続き8試合で7点、合計31点でタイトルを確信したのか、6試合を残して治療のためにイタリアへ帰国した。私はこの時点で4点差の27点だったが、ブッフバルトやバインも「得点王のチャンスがあるなら、パスを回そう」とみんなに呼びかけてくれた。V川崎戦で31点目を決めてスキラッチに並び、最終戦の横浜F戦(駒場競技場)でPKを決めて32点で得点王になった。PKは8割は右を狙うが、考えた末に左へ蹴った。紙吹雪が舞った景色は忘れられない。自信を失い、苦しんだ2年間から、オジェックさんと出会って自信を回復し、壁を突き破って違う世界に飛び込めたと思った。
◇福田 正博(ふくだ・まさひろ)1966年(昭41)12月27日生まれ、神奈川県出身の59歳。相模工大付高(現湘南工大付高)から中大を経て三菱重工に入社。Jリーグ開幕後は浦和で95年に得点王、ミスターレッズと呼ばれた。日本代表でも92年アジア杯や93年のW杯米国大会アジア予選などに出場。現役引退後は08年から3年間浦和でコーチとして指導。現在はテレビ解説者やスクールコーチを務めている。

