京都府大山崎・天王山に残る山崎合戦の石碑(写真:kimtoru/イメージマート)


 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。「急げ!秀吉」では、「本能寺の変」での織田信長の死を知った秀長。備中高松城で毛利と対峙する秀吉に知らせを出しながら、各地の武将が明智方につかないよう奔走するが……。今回の放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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「中国大返し」は本当に奇跡の強行軍だったのか

「寝耳に水」とはまさにこのことだろう。豊臣秀吉が毛利方の備中高松城を攻めていたときに、明智光秀によってまさかのクーデターが敢行される。この「本能寺の変」で、織田信長は命を落とす。

 秀吉は光秀が毛利方に送った使者を捕らえて、事態を知ったともいわれている。毛利方とすぐに和睦を結び、猛スピードで京へと向かった。俗に言う「中国大返し」だ。このときに、秀吉勢は備中高松城付近から約230キロ離れた山崎方面へ急行し、6月13日には秀吉方が明智軍を破った──とされている。

 今回の放送でも、秀吉が率いる軍勢が早くも姫路城に現れたことに、亀田佳明演じる細川藤孝が「ありえん……」と驚く場面があった。

 この「中国大返し」の行程については、秀吉の書状のほか、本能寺の変からわずか数カ月後の天正10(1582)年10月に書かれた『惟任退治記(これとうたいじき)』での逸話が後世に流布されることになった。

 だが、実際には、信長が中国地方に出陣することを見越して道は整備され、食料や乗り換えの馬も整えられていた可能性が高く、意外にも、通常の行軍速度でも可能だったのではないかと、近年ではいわれている。

 秀吉軍のスピード感を強調した『惟任退治記』は、秀吉の命により御伽衆(おとぎしゅう:将軍や大名の側近として仕え、主君の話し相手や相談相手を務めた役職)の大村由己(おおむら ゆうこ)が書いたものなので、必ずしも正確な記録とはいえない。近年は、秀吉が後年語った6月6日出発説に対し、同時代書状から、実際には6月5日にはすでに高松陣を離れていた可能性が指摘されている。

 そんな中、今回の放送では『豊臣兄弟!』らしい新解釈で、中国大返しが描かれることになった。

信長の死を伏せ、秀吉を走らせた秀長の「情報操作」

 本能寺の変が起きたとき、秀長の居場所はよく分かっていないが、状況的に備中で秀吉とともにいたと見られている。

 だが、今回の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では「信長を備中まで連れてくるよう秀吉に命じられて秀長は京に来ていた」という設定になっており、今回の放送において、秀長が光秀のクーデターを目の当たりにする様子が描かれた。

 秀長が立ち尽くす中で、炎の中から信長の最期をともにした市川團子演じる森乱(森蘭丸)が現れると、こう言い残して秀長の腕の中で事切れることとなった。

「すみませぬ……上様をお守りすること、叶いませんでした……」

 そうであるならば、当然、秀長が秀吉にいち早く状況を知らせるのかと思いきや、秀長は信長が光秀に討たれたことは書いても、森乱の言葉はあえて書状で伝えなかった。

 つまり、「中国大返し」をやってのけたことから「秀吉は信長の死を事前にキャッチしていたのでは?」との見方もある中で、『豊臣兄弟!』では、その真逆ともいえる「秀吉は信長の死を完全には知らされていなかった」という新解釈を打ち出したのだ。

 ドラマでは、秀吉に真実をいち早く知らせなかった意図を、秀長の口からこう語らせている。

「一縷の望みを残す。さすれば、兄者は誰よりも早く戻ってまいりまする」

『豊臣兄弟!』での秀吉は、主君・信長の敵を討つためではなく、信長を助けるために大急ぎで京に上った──そんな意表を突く展開となった。

秀吉の「信長生存説」を秀長の仕業にした新解釈

 史実において、信長が討たれてから3日後、秀吉は摂津茨木城主の中川清秀に事態の顛末を聞かれて、次のような手紙を書いている。

〈これからお伝えしようと思っていた時、そちらからご教示に預かり、満足に思っている。さて、ただ今京より下ってきた者が確かに言った。上様ならびに殿様、いずれもなんのお障りもなく明智光秀による襲撃から切り抜けなされた〉(現代語訳・一部省略)

 上様とは織田信長、殿様とはその息子で織田家の当主となっていた織田信忠のことだ。「何のお障りもなく」どころか、殺されているにもかかわらず、手紙にはおくびにも出していない。秀吉は、すでに高松陣を離れて東進する途中で、信長と信忠が無事だとする情報を中川清秀に伝えた。諸将の離反を防ぐための情報操作だったと考えられている。

 ところが、ドラマでの展開では、秀長があちこちの武将にアプローチして、各地の武将が明智方につかないように奔走。こんなことも言っている。

「上様は生きておられる。そう諸将には広めるのじゃ」

 つまり、秀長こそが「信長生存説」を嘘の手紙で広めた張本人としている。秀吉を意気消沈させずに京へと向かわせるために、秀長が情報をコントロールしたというのは、情熱で突っ走る秀吉とそれをフォローする冷静な秀長という関係性を考えても、なかなかよくできた設定のように思えた。

 とはいえ、さすがに「秀長が京にいて本能寺の変に立ち会った」というのは、脚色しすぎではないかという声もSNSでは散見された。それでも秀吉が光秀を討つために、秀長が何らかの形でサポートしたのは確かなようだ。

秀長の書状が明かす「中国大返し」の情報網

 実際に秀長は、丹波の国衆・夜久主計頭(やくかずえのかみ)に宛てて、こんな書状を出している。

〈そちら方面においては、羽柴家の家臣の者どもがなんとか近江まで往復しておりますが、いつも安全に送り届けていただきまして、大変ありがたく存じます。今後ますます往来がある予定ですから、特によろしくお願いいたします〉(現代語訳・一部省略)

「そちら方面」というのは、夜久氏の本拠地がある但馬・丹波国境沿いの夜久野地域のことをいい、「近江」は秀吉の妻子が住む長浜のこと。夜久氏の協力によって、山陰道を無事に往復できていることへのお礼を伝えているのだ。

 そして、日付は「天正10年6月5日付」となっていることから、本能寺の変からわずか3日後のことである。

 この史料から秀長は、秀吉に従って備中高松城近郊にいた6月5日よりも前から、夜久氏の力を借りながら、備中から姫路を経て北上し、但馬から丹波を通り、京都さらには近江までのルートを確保していたことが分かる。

 秀吉方の使者はその間を往復して、秀吉に情報を伝えていたということになる。光秀としても、まさか自身の領地である丹波を貫く山陰道を、秀吉の使者が行き来しているとは思ってもみなかっただろう。

 ドラマでは、信長の西国出陣のために用意した水や食事、代わりの馬を、秀長がそのまま秀吉が戻ることに役立てるように手配する様子も描かれた。

 秀吉の伝説として語られてきた中国大返しを、主人公・秀長の情報戦と兵站の物語として捉え直した点は、このドラマならではの試みだ。

 いよいよ信長が没して「豊臣兄弟」の物語になっていく。そんな転換期にも思える放送回となった。

山崎の戦いに間に合わなかった柴田勝家の誤算

 秀吉とは対照的に、敵討ちを断念したのが、柴田勝家である。ドラマでは、このときに魚津城にいた勝家が「どけー! 邪魔だー!」と周囲の家臣たちを蹴散らしながら、「おのれ、明智!」と大暴れ。佐々成政がなんとか羽交い締めにして、こうなだめている。

「お待ちください! 今上杉に背を見せれば、背後から一気に攻めかかられ、我らは惨敗となりまする!」

 どんな状況だったのかといえば、本能寺の変が発生した天正10(1582)年6月2日時点では、勝家は越中の魚津城で上杉軍との攻防を続けていた。

 落城させたのは翌3日のことだ。そこから急報を受けた勝家は急いで向かうも、途中で上杉軍から再度攻撃を受けて立ち往生させられている。

 結局、勝家が近江に到着できたのは、6月13日の山崎合戦で秀吉方が明智軍を破った後のことだった。この出遅れによって、織田家宿老で北陸方面軍を率いていた柴田勝家と、秀吉の関係は大きく変わっていく。

 この後に行われる清洲会議にて、2人の間でどんな軋轢が生まれ、両者が激突する「賤ヶ岳の戦い」へとつながっていくのかに注目したい。

 次回の「天下への道」では、織田信孝から明智討伐を任された秀吉が光秀を生け捕りにしようとするが、信長を失った織田勢の足並みがそろわずに苦心する。

【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『シリーズ・織豊大名の研究14 豊臣秀長』(柴裕之編著、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)

筆者:真山 知幸