「ふつうの子を育てたい」と漏らした夜も 4人の発達障害児を育てた母の苦悩「人格否定をしないと決めて」
発達障害のある4人の子どもを育てる。なかなか想像できないことです。そんなハードな子育てを経験してきた堀内祐子さんは、取材中、笑顔が絶えません。4人の中でもとくに多動でありながら、いまや社会人として立派に独り立ちした次男・拓人さんと一緒に、発達障害の親子関係について振り返ります。
【写真】あきらめなかったから今がある!笑顔そっくりな堀内さん親子 ほか(全10枚)
4人の子どもはみな発達障害だった
── 堀内祐子さんは4人いるお子さん全員、発達障害があるそうですね。現在31歳の次男・拓人さんは、小学2年生のころ、ADHD(注意欠如・多動性障害)と自閉スペクトラム症の2つの発達障害の診断を受けました。拓人さんはどのようなお子さんでしたか?
堀内祐子(以下、祐子)さん:発達障害のある4人の子どもたちのなかでも、拓人はずば抜けて成長が早く、多動でした。1歳半健診のときは走り回ってどうにもならず、「こんなに大きくて元気そうなので大丈夫でしょう、帰っていいですよ」と保健師さんに言われて、健診を受けずにあきらめて帰ったくらいです。
3歳頃になると「ママ、毎日おいしいご飯を作ってくれてありがとう」とやさしい言葉をかけてくれる、ハチャメチャないたずらっ子だけど天使のような子でした。でも、家の2階や遊園地のつり橋から落下し、交通事故にも2回遭いました。柵を設けるなど注意を払いましたが、子ども4人あわせて交通事故7回、救急車には10回乗ることに。
── それはかなりハードな子育てですね。幼少期に「この子は発達障害かもしれない」と考えたことはありましたか?
祐子さん:いいえ。当時は「発達障害」という概念自体を知らなかったので、考えもしませんでした。きっかけは長男が小学5年生で発達障害の診断を受けたとき。長男と同様の特徴が次男や三男にもあるように私には思えたんです。
その後、次男も検査を受け、長男と同じADHDと自閉スペクトラム症があるとわかりました。長男には診断結果を告げましたが、次男はまだ幼く、詳しい説明はせずにいたんです。ただ、本人にあわせた指導を受けるために、他校で開催されている「通級指導教室」(もとの学級に在籍しながら、障害による学習や生活上の困難を改善するための専門的な指導を別の教室で受ける制度)に通うことを提案しました。見学や体験に行き、本人が自分で決めて週1回楽しく通級していました。
── 当事者である次男の拓人さんにうかがいます。「自閉スペクトラム症」は対人関係の難しさや強いこだわりという特性であらわれ、「ADHD」は不注意、多動性・衝動性など行動面で特徴が出やすいといいます。小学校で困ったことなどはありましたか?
堀内拓人(以下、拓人)さん:忘れ物が多く、宿題は基本的にしませんでした。でも、当時はそれも気にならなくて…。母からも忘れ物や宿題について細かく言われることはなく、平穏に過ごしていました。宿題をしなかった理由は…、とくに算数はどれだけやっても答え合わせで必ず間違えが見つかり、その問題をやり直すのも、できないと周りに思われるのも心底イヤで、逃げていました。宿題をしなければ、間違っているとバレないし、生来の怠けグセもあり、宿題をやらなかったんだと思います。
── 祐子さんは何も言わなかったのですか?
祐子さん:長男のときに宿題のことで大バトルになったので、次男の宿題にはあまり細かく関与しないようにしていました。拓人は音読の宿題が好きで、それはちゃんとやっていたのですが、じつは他の宿題はほとんどやっていなかったと後で知りました。でも、そこまで本人ができない、やりたくないということをムリにやらせる必要はないと思っていました。拓人は意志がしっかりしているので、自発的に学校を休む日も決めていました。月曜は学校、水曜は通級指導教室、金曜は学校と自分で決めて週3日通っていた時期もありました。
拓人さん:あまり覚えていませんが、「学校に行くと疲れる」から、そう決めたのだと思います。でも、学校に行けば楽しかったです。いい友達に囲まれて、対人関係で困ることもなく、自分が周囲と違う感覚もありませんでした。
勉強も部活もダメな自分「逃げよう」と不登校に
── 中学生になり、拓人さんの意識に変化はありましたか?
拓人さん:小学生のときは社会や理科・算数などのストーリー仕立てになっている教育漫画を読んでいたので、宿題をせず、授業を聞いていなくても、いい成績がとれました。でも、中学校では授業中に別のことを考え、違うことをしていたら当然授業についていけなくなり、成績は悲惨なことに。
高身長なこともあって中2からバスケットボール部に入りましたが、練習がきつくて部活に行けなくなり、学校も休みがちに。勉強も部活も努力や忍耐や工夫が必要ですが、自分はそれがイヤで向き合うことができなくて、すぐ逃げてしまう。それまで、努力して苦手なことを乗り越えた経験がなかったんです。勉強もできない、部活も続けられない、自分は何もできないダメな人間だと落ち込み、まわりにどう評価されるのか怖くなって、「誰にも会いたくない」と、不登校になりました。
── 勉強も部活も、学校生活の大部分を占めるのでつらかったでしょうね。不登校中はどんな日々でしたか?
拓人さん:私の通った中学校には保健室登校(1時限目で終了)という制度があったので、週2回は通級指導教室に、週3回は保健室に通いました。「この状況をなんとかしなければ」と考えながらも、保健室登校が1時限目で終わると毎日、古書店に行って漫画本を読み漁っていました。
「勉強についていけないから、高校なんで行けるはずがない」「毎日学校にいけないのに、働けるわけがない」。当時は将来について恐怖しかありませんでした。クラスメイトに会うことを意図的に避けていたのですが、担任の先生がクラスメイトに会ったり、教室に行ったりするきっかけをくださり、最初は体育の授業だけ、次は給食も、そして他の授業も受けてみようとなり、最終的には不登校状態を終えられました。
バスケットボール部は続けられなかったのですが、体育の授業中に部員の人が私に前向きな声をかけてくれたことで、自分のなかにあったわだかまりが消えました。自分が恐れていたほど、周りは自分を悪く思っていないんだと気づいた瞬間でした。
── 担任の先生や周囲は拓人さんのことを気にかけていたのでしょうね。将来を考えるうえで、ご自身の発達障害に向き合ったのはいつですか?
拓人さん:中3のころ、ADHDに関する書籍『おっちょこちょいにつけるクスリ』(高山恵子著)を母が読んでいたので、手に取ってみると、かなり自分にあてはまることがわかりました。母に「ここに書かれている高山恵子さんのご経験と私の経験は重なります。私はADHDなのでしょうか?」と、聞きました。
祐子さん:あれは拓人に読ませようとしたわけではなく、偶然でした。拓人には「あなたは自閉スペクトラム症とADHDだよ。でも、歴史上有名な人や社会を発展させてきた研究者や発明家・起業家のなかには、自閉スペクトラム症やADHDの人がたくさんいるように、世の中に必要な人たちだよ」というふうに伝えました。
拓人さん:診断を知っても、自分のなかで変化はありませんでした。そのため、発達障害だからダメなのではなく、勉強も部活も努力できない「自分がダメなんだ」という考えは変わりませんでした。ただ、高校進学に関しては発達障害である点に配慮しながら進路を調べ、母と見学や体験に行きました。
「ふつうの子を育てたい」と言って傷つけたことも
── 振り返って、母親として初めて発達障害に向き合ったとき、どのように感じましたか?
祐子さん:長男にはADHDがあるかもと予想していましたが、自閉スペクトラム症もあるという診断結果に驚きました。でも、診断のおかげで、「親の育て方が悪い」とまで言われたことや親子間のバトルなどが「自分のせいでも、長男のせいでもない」とわかってホッとしました。
その後はスクールカウンセラーに相談したり、自治体の教育相談所に通ったりして、情報収集しました。この教育相談所には、末っ子が19歳になるまで通い続けました。相談員からの子育てアドバイスよりも、とにかく私には子どもたちについて話をする場が必要だったんです。毎回、子どもたちとの日々の出来事を話すのが主でしたが、精神的に助けられました。
4人の子どもは不登校や不登校気味でした。でも、今はみんな社会人になり、家を出て自立していますし、やんちゃだった長男は会社を経営し、一緒に講演活動をしています。
── 子育てでいちばん気をつけていたことはなんですか?
祐子さん:「本人の意志を尊重すること」と「人格否定しないこと」、それが子育て方針のなかでいちばん大事にしていたことです。私自身、意志の強い、変わった子どもだったらしいのですが、手を焼いた父に「そんな人間ではダメだ、社会の役に立たない」と人格を否定され、矯正されそうに。その経験が嫌だったので、「自分は絶対にやらない」と決めていました。
振り返れば、父なりの愛情で、私の将来を心配しての言動だったとは思うのですが、結果的に私は自己肯定感の低い不安定な子になりました。反対に母は私の人格を否定せず、尊重してくれたんです。小学校に入学した私は「小1になったので、学校のことは指図しないでください」と言ったそうですが、母はその約束を守り、宿題や勉強に口出しすることはありませんでした。もちろん、悪いことをしたら怒られましたが…。
「自分がされて嫌だったことは子どもにはしない」と心に決めていましたが、とくに次男はガラスの心を持った繊細な子だったので、気をつけました。でも、ただ一度だけ、拓人をすごく傷つけたことがあります。高校時代、拓人が毎日しんどそうに学校に行く姿を見て、私も疲れていたんだと思いますが、つい「ふつうの子を育てたい」と、口にしてしまったことがあって。拓人に「ふつうの子ってどういう子ですか?」と聞かれて、「毎日苦しまなくても普通に学校に行って、部活もバイトもできる子」と。ひどいことを言ってしまいました。
翌日、拓人が「お母さま、ふつうの子になることに決めました。ふつうの子はお母さまのことを『ババァ』と呼ぶらしく、その『ババァ』とは話さないそうです。私はお母さまを『ババァ』とは呼べませんが、あなたとはもうお話しません」と言われて。もうどうしようかと思いました。でも翌日、映画のDVDを観ようと誘ったら何ごともなかったかのように一緒に観てくれたのでホッとしました。
決して子どもたちの人格を否定しないと決めていましたが、日々の疲れがたまり、つい口にした言葉で拓人を傷つけてしまいました。幸い、息子との関係はもとに戻りましたが、人格否定がいかに相手の心にダメージを与えるか、身に染みました。だからこそ、嵐のような毎日のなかでも「相手を否定せず、そのままを受け入れる」を、改めて肝に銘じて今日まで過ごしてきました。
取材・文:岡本聡子 写真:堀内祐子、堀内拓人

