ラグビー日本一3度の名門、消滅危機 「中学まで帰宅部で…」12年一筋の社員戦士が燃やした愛、恩、繋がり
“最後のシーズン”NECグリーンロケッツ東葛で戦う大和田立の思い
ラグビー日本選手権制覇3度の歴史を持つNECグリーンロケッツ東葛が“最後のシーズン”を迎えた。現在リーグワン2部に相当するディビジョン2に所属するチームは、昨年8月に母体企業の日本電気株式会社(NEC)が2025-26年シーズン限りでのリーグ退会およびチーム譲渡の検討を発表。引き受ける企業がなければチームは消滅する危機に陥ったが、同12月11日に東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)との間でチーム移譲契約を締結した。選手、ファンにとっては不安と激動の4か月だったが、社員選手として12シーズンプレーを続ける大和田立は、チーム存亡の危機をどう受け止めたのか。美幌高校1年の出会いからグリーンロケッツ愛を背負って戦ってきた男の思いを聞いた。(取材・文=吉田 宏)
◇ ◇ ◇
「決まったことに関しては本当に感謝しています。拾っていただいたという形ですけれど、JR東日本さんに受け入れていただいたのは感謝の思いだけです」
すでに開幕を迎えた1月初頭の単独インタビュー。練習を終えた大和田は、穏やかな笑顔で口を開いた。入社13年目、1月14日で34歳となったベテランが「決まったこと」と話したのは昨年12月の出来事。来季移譲先決定のプレスリリースが配信されてから7時間半後には都内でNEC、JR東日本双方による緊急会見が行われ、新たな体制でのチーム存続が発表された。
時間は昨年8月に遡る。同月20日、ラグビー界に衝撃が走った。NECが2025-26年シーズン限りでのチーム譲渡の方針を発表した。引き受け手がなければチームは消滅する。残り1年、厳密には当初譲渡期限に定められた25年12月のリーグ開幕までの4か月で譲渡企業、団体が見つからなければグリーンロケッツは消滅する。これまでもコカ・コーラレッドスパークス、宗像サニックスブルースと親会社がチーム譲渡、実質上の廃部としたケースはあった。だが日本選手権、リーグワンの前身トップリーグのマイクロソフト杯と国内タイトルを手にしたチームが消滅の危機に瀕するのは過去にない“事件”だった。大和田は、チームの危機をこう受け止めていた。
「初めて知らされた時は、正直残念な気持ちが強かったですね。悪い言い方ですが、自分たちが会社の幹部の人たちから必要ないと思われてしまったのかと思いました。リーグワンになって、事業化という面では利益面などの課題もありますが、チームは長らく福利厚生の一環として活動してきて、ラグビーを通して伝えられる魅力などが沢山あると思っていました。けれど、そこに重きを置くのではなく事業面のところでの判断だと聞いた。残念だなという気持ちと共に、自分たちがそういう結果を招いてしまったという不甲斐なさも感じました」
リーグワン誕生は2022年。企業スポーツという形態だった従来のトップリーグから、親会社だけに依存しない持続可能なリーグ、チーム運営を目指して事業化を目指してきた。NECグリーンロケッツも名称末尾に「東葛」と地域名を加え、外部スポンサーを募るなど事業化を進める中で、外国人選手による薬物問題や成績不振とネガティブな事案が浮上したことで、本社サイドも譲渡を決断した。チームがプロ的な強化環境作りに力を注ぐ中で、職場との間に生じた微妙な「距離感」が移譲という決断を後押しした。
この「距離感」によるチーム運営の見直しの先鞭となったのが、2009年のセコムラガッツ(現狭山セコムラガッツ)の強化縮小だ。03年に誕生したトップリーグ発足メンバーでもあったラガッツは、伝統的には選手の多くが社業を続けながらラグビーに取り組んできた。通常のオフィス業務に限らず警備任務なども担う選手たちの仕事とラグビーに取り組む姿が、職場の仲間たちからの理解、応援を受けてきたのがチームの伝統だった。だが、強化推進のために選手が段階的に職場で働く時間が減少していく中で、従来のような社員の胸中に在った「おらがチーム」という意識が徐々に失われたことで、社内でのラグビーチームの存在価値が薄れてきたことが上層部の強化縮小という判断に繋がった。
今回のグリーンロケッツのケースは、事業面など当時のセコムとは異なる理由もあるのだが、先にも触れた「距離感」がチームを繋ぎ留められなかったことは同じだ。いずれにせよ、企業がラグビーチームを保有する価値を感じられなければ、今回のようなケースは今後も起きるだろう。そして「次」は、今回のように譲渡先が現れる保証は一切ない。
覚悟した「これで引退かな」…社員選手としての自負
ラガッツはかろうじてチームを存続させ再び強化を進めているが、グリーンロケッツの場合はNECがチームを手離すことになってしまった。大和田が振り返ったようにチーム側も2022-23年シーズンでのディビジョン1陥落から2シーズン昇格に失敗するなど結果を出せず、移譲を食い止められなかったが、リーグ、ラグビー協会側をみるとラガッツも含めた過去の苦い事例をどこまで学びに繋げることが出来ているのかは疑問だ。いかにセコム、NECのようなケースを今後生み出さないかは、個々のチームだけではなくリーグ、協会が真剣に考える宿題でもある。幸いなことにリーグワンチームの母体企業は国内有数の会社ばかりだが、ネクスト・グリーンロケッツは必ず出て来るだろう。
譲渡話が浮上した時点で、大和田はラグビーを続けることについては、こんな思いに駆られていたという。
「正直プロ選手なら移籍などで現役を続けられる可能性も高いなと思っていました。でも僕の場合は社員選手です。社業もしてラグビーもやる。この両面で会社に貢献したいという気持ちでやって来た。なので、譲渡話は、自分のような選手だとラグビーをやれる環境がなくなってしまうと感じたし、これで引退かな、みたいなことも考えていました。ラグビーを本当に続けたいならプロでやるのがいいと思いますが、僕は社業も両立してやりたいと決めてNECに入って来たので、自分のようなプレーヤーは、もうここでラグビーは終わりだなという感覚はありました」
大和田の職場は、本社から出向しているNECプラットフォームズの生産管理部だ。業務内容はホテル向けなどの多機能電話機など通信機器の海外工場への発注依頼や営業先との取引だという。
「普通の社員と同じように朝職場に行ったり、練習の時間だけ抜け出して後で戻って仕事をしたりしています。基本的には練習がメーンですが、曜日によってお昼までやってから出社もしています。僕の場合はテレワークで出来る業務もあるので、今日もそうですが、場合によってはここ(クラブハウス)で仕事することもあります。海外との取引などもあるので、時間によっては練習の合間にすこし仕事をしたりもしています」
既に管理職目前の主任を務めながら、トップレベルのラグビーにも取り組んできたという社員選手としての自負がある。だからこそ、チーム移譲後も仕事を続けながらラグビーにも挑戦したいというこだわりも強い。リーグ側では、段階的に選手の契約形態には柔軟性を持たせてきた。そのため、一つの企業で働きながら別の企業を母体とするクラブでプレーする選手、スタッフも出てきているが、大和田はこんな思いを語ってくれた。
「正直、そこまでは考えていませんでした。自分も年齢を重ねてきて、業務でもある程度任されるようになってきています。その一方で職場は練習グラウンドに近いので、配慮していただいているとも感じています。なので、違うチームでプレーすることは全然考えなかった」
大学屈指の強豪・帝京大学で主力として活躍した大和田だったが、学生時代に進路についてはプロ契約という選択肢は考えてなかった。
「大学3、4年の頃はラグビーを続けられればいいなという気持ちでした。当時はまだプロ契約もあまり多くはなかったですから。帝京でも出られない時期もあったので、正直な気持ちではラグビーチームを持つ企業に就職出来ればいいくらいに考えていた。場合によっては、チームのない企業で仕事に専念する選択肢もあった」
実際には複数チームが獲得に関心を持ち“相思相愛”のNECに就職したが、この控え目な自己評価が大和田のキャラクターを物語る。同世代で帝京大の黄金時代を支え、先日、今季限りでの現役引退を表明した日本代表CTB中村亮土(東京サントリーサンゴリアス)は実績を積む中で契約をプロに変更したが、大和田は社員としての挑戦を貫いてきた。
「入社してからの職場の人たちが本当にいい人ばかりで、すごく熱心に応援してくれたんです。なのでラグビー部には会社の福利厚生だったり、社員の機運醸成や意欲の向上という役割が確かにあったと思います。業務でも職場の皆さんにサポートしていただいたのですごく恩を感じていた。だからラグビーだけじゃなくて、会社にもしっかりと貢献して、様々な職場の人たちに恩返ししたいという気持ちは毎年強くなっています」
ラガーマン、企業人としてNECへの恩を感じ、貢献したいという大和田だが、その繋がりは高校1年生まで遡る。
「僕は中学まで帰宅部だったんです」 網走の小さな町から始まったラグビー人生
生まれ故郷の網走郡美幌町は、道東の雄大な大地に抱かれた小さな町だ。人口は、2万席の秩父宮ラグビー場の座席数にも満たない。北見、網走の中間地点で、オホーツク地域の玄関口である女満別空港に最寄りの町だが、阿寒摩周国立公園の一部という豊かな自然が財産だ。この町でNECラグビー部が長年夏合宿を張って来たことで、普及活動の一環として地元高校生らを対象にした指導会が毎夏開催され、そこに参加したことが大和田とグリーンロケッツの出会いになった。
「初めて教えていただいた時は、とにかく大きいなと選手のサイズに驚きましたね。その初めてのスクールで指導してくださったのが(現ヘッドコーチ=HCのグレッグ・)クーパーさんだったのも覚えています」
初めて接したグリーンロケッツのスタッフが、「NEC」としての最後のHCというのも奇遇だが、ラグビーを始めて数か月で触れ合ったトップ選手、チームが高校1年生の憧れになるのは自然の成り行きだった。そんな毎夏限定の交流の中で、チームが大和田の可能性を後押ししてくれた。
「帝京大学進学も、NECの相澤さん(輝雄、元総監督、GM、現クリーンファイターズ山梨GM)が、母校の帝京大で指導する岩出(雅之)監督(現顧問)に『美幌高校にいい選手がいるから見てくれないか』と話していただいて、練習に参加したのがきっかけでした」
母校の美幌高校は、大和田の在学中は1学年2組しかない小さな高校だった。ラグビー部自体も全国大会とは程遠いチームで、大学屈指の強豪ラグビー部への入学も例がなかったが、グリーンロケッツとの実質2年程の交流から可能性が広がった。
大和田が大学1年の時の取材記憶が蘇る。東京・日野市の帝京大グラウンドで岩出監督と話している中で、全国クラスでは無名ながら可能性を秘めた選手に話が及んだ時だった。
「あの子、北海道の美幌高校出身なんやけど、いいものを持っている。とにかく真面目にやる選手だね」
初めて見たこの道産子選手は、当時既に全国から有望選手が集まる帝京の中では傑出したサイズがあるわけでも、際立ったスピードや馬力の持ち主でもなかった。ただただ黙々とプレーを続ける姿と、同時に太腿、ヒップ周りのボリューム感だけが、エリート選手に混じっても際立っていた。
「もともとフロントローですか?」と聞くと、指揮官は「あの体で3列だよ。面白いだろ」と目尻を下げていたのが記憶に残る。岩出監督自身も日本体育大時代から日本代表に選ばれたFLだ。指導する帝京大を大学屈指の強豪に鍛えた手腕と同時に、タックルやブレークダウンなどでボールを持たずに黙々と仕事を続ける黒子のようなFW第3列への嗅覚を持つ。同じ帝京出身のバックロー姫野和樹(トヨタヴェルブリッツ)や24年度主将の青木恵斗(同)のような派手さやサイズはないが、大学最強チームの監督が大和田の仕事人としての可能性を感じていたのは大きなプラス材料だった。その巨木の切り株のような下半身は親に感謝するしかないが、大和田自身は高校時代の練習の賜物だとも言う。
「雪の上をずっと歩く特殊な練習が多かったんです。グラウンドに雪が積もると、スパイクじゃなく長靴で踏み潰すんです。それもタイヤを引きながら走ったりするので、そこで下半身が強くなり、太腿周りも大きくなったと思います」
オホーツク地域の町はラグビーに打ち込むには最良の環境とは言い難いが、大和田が帝京大、グリーンロケッツで主力選手として活躍し続けられているのは、雪深い故郷が与えてくれた“恩恵”でもある。生徒数も部員数もささやかな町の高校での3年間は、大和田にとっても特別な時間だったのは間違いない。ラグビーとの出会いも、北海道の地方ならでは出来事が契機になった。美幌のような地域では、都市部とは違い公共交通機関も十分とはいえない広域から通学する生徒も少なくない。大和田も、親の車で通学する親友に毎朝迎えに来てもらっていた。
「僕は中学まで帰宅部だったんです。スポーツはめちゃめちゃ嫌いだったし、運動神経もなかった。でも、毎朝迎えに来てくれた同級生が、絶対にラグビーをやったほうがいいと熱心に勧めてきたんです。美幌高校は1学年80人くらいで男子も少ないので、175cmくらいの身長だった僕を誘ったんだと思います。で、迎えに来てくれるのが申し訳ない思いもあって1回だけラグビー部に行くと約束したのが、今の道に繋がっているのです」
34歳の今もヘッドキャップに刺繍されている「美幌」
通常なら、全国区でもない高校でラグビーを始めた選手が、国内最強チームに誘われレギュラークラスで活躍するのは稀な事だが、様々な人との繋がりが大和田を後押ししてきた。そしてエリート軍団の中に飛び込んだ大和田の中では、新たな野心が芽生えていた。
「それまでスポーツで自分が活躍するとか、日の目を見ることなんてなかった。でも、ラグビーというのは運動音痴や下手でも活躍出来るし、僕のようにスポーツをやっていなかった子でも輝けるスポーツだと思っています。高校時代に運よくオール北海道にも選ばれ、強豪校の選手と一緒にやる中で自分ももっと上手くなりたい、スポーツで、ラグビーで活躍したいという気持ちになった。帝京大に行かせてもらって、花園出て当たり前、高校日本代表や候補が沢山いる中でも、負けたくないという気持ちは強かった。田舎の出身ですけれど、すごく愛情を持って、よく育ててもらったという気持ちは常にありました」
よく育ててもらった――。その感謝の思いは、今もトップレベルの試合でプレーする大和田の姿を見れば一目瞭然だ。34歳になった今でも、トレードマークのヘッドキャップには、こう刺繍されている。
「美幌」
高校時代に使っていた母校のヘッドキャップを卒業後も使う選手は珍しくないが、リーグワンというプロ化も進むフィールドで、この齢まで故郷の町名が刺繍されたキャップを使い続ける選手はほとんどいない。ラグビープレーヤーとしての第一歩を踏みしめ、オホーツクの小さな町の高校生では想像出来ないような道を歩むことが出来たことへの感謝や、豊かな自然と、決して大人数ではないからこそ近くに感じる郷土の仲間たちへの愛情が、このヘッドキャップに込められている。一見すると美幌高校ラグビー部のキャップのようにみえるものだが、実は大和田だけが使う特製品だ。
「帝京大学に入った頃は、同級生からもらった違う高校のヘッドキャップを使っていたんです。それを見た美幌のラグビー協会の方が作ってくれたんです。美幌のキャップを被ってくれと。高校の本当のキャップは真っ赤なんですが、自分のは白地なんです。そこから毎年作っていただいているんです」
そんな郷土からの期待を、大声で主張することもなく、15年以上もの間“美幌キャップ”を被り続けるのが大和田立という男だ。穏やかで、物静かだが、芯に持つ頑なさが、北の大地の小さな町からやって来た高校生を、国内トップ選手へと押し上げている。
先にも触れたように社業に励みながらラグビーを続けることこそが自分の歩む道だという大和田の思いがブレることはない。帝京大の4年間では、控え出場も少なくなかったが4年連続で大学選手権決勝メンバーにも食い込み、日本一を味わった。卒業後の進路については、関心を持つ当時のトップリーグチームも複数あった。現行のリーグワン同様に、トップリーグチームを保有するのは日本を代表するような大企業揃いだったが、大和田の思いは変わらなかった。
「就職先として意識し始めたのは大学である程度試合に出られるようになってからです。幾つかのチームから声を掛けていただいて、親からはそっち(NEC以外)でもいいんじゃないかと言われたんですが、いちばん最初に声をかけてくれたのもNECだった。恩返ししたいという気持ちもあったので決めたんです」
美幌で長く合宿を張り、自分たちとも交流を続けてくれた選手たち、チームへの憧れは変わらない。いち早く声を掛けてくれたこともあり大和田に迷いはなかった。その思いが変わることなく、入社13年目の今季も黙々と“美幌キャップ”と共に楕円球を追い続けている。そんな大和田だからこそ、「NEC」という名称が“消滅”することには複雑な思いはあるが、チーム存続に目処が立ったことが何よりの吉報だった。
では、チーム運営面でのトップは、この譲渡劇をどう受け止めたのか。後編では、グリーンロケッツで選手、監督としてタイトルも掴み、日本代表、リーグでもマネジメントを担ってきた重鎮に、激動の4か月の内幕を聞く。
(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)
吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。
