最強戦車を挙げるとなると議論が分かれるところで、最弱もまたしかりですが、その一角を占めるかもしれないのがイタリアのM11/39でしょう。第2次世界大戦の北アフリカ戦線に投入され、イタリア軍は語り継がれるほどの大敗北を喫します。

戦車黎明期 イタリアが世に送り出した「中戦車」

 第1次世界大戦から第2次世界大戦にかけては、世界の戦車開発の歴史の始まりと言っても過言ではないほど、世界各国が「戦車」という新たな兵器の開発に躍起になった時代でした。この時代にドイツ軍のV号戦車「パンター」、アメリカ軍のM4「シャーマン」、ソ連軍のT-34など、現代にまでのその名が残る数々の名戦車が生まれました。

 当時、ドイツと日本の同盟国として第2次世界大戦に参加していたイタリア軍も、そのような戦車開発にいそしんだ国のひとつです。


イタリア戦車の祖ともいえるM11/39中戦車。WW2期の北アフリカ戦線に投入され、連合国側はこれを大量に鹵獲した(画像:オーストラリア戦争記念館)。

 イタリア軍と言えば、第2次世界大戦中に「武器よりも白旗を量産していた」「砲弾よりも多くワインを戦場に運んだ」「1日かけて前進した距離を2時間で撤退した」など、ユニークな噂が数多くささやかれます。一方で戦車開発への着手は比較的早く、1918(大正7)年にはフランスのルノーFT軽戦車を購入し、研究を開始しました。小型戦車の開発から始め、1936(昭和11)年に起こったスペイン内戦には、援助物資として総重量8tの軽戦車試作車を送り、そこそこの活躍をしたといわれています。

 イタリアはこの軽戦車の成功で気をよくしたのか、8t軽戦車をベースにした新型戦車を考案しました。こうして1939(昭和14)年に開発されたのが、M11/39中戦車です。「M11/39」というのはイタリアの戦車命名法で、「1939年に制式化された11tクラスの中戦車(Mはミドルの意味)」という意味です。

 当時、ヨーロッパで「中戦車」といえば20tクラスの大きさの戦車を指しましたが、イタリア軍はわずか11tのこの戦車を「中戦車」として制式化しました。中戦車という名を「主力戦車」という意味で使ったのか、ただ単に見栄を張りたかっただけなのか、理由は現在でも分かっていません。

最初からわかってた? M11/39のお粗末すぎる問題点

 そのようなM11/39の初陣は1940(昭和15)年、北アフリカのリビアでした。当時のリビアはイタリアが支配していましたが、第2次世界大戦の開戦と同時に、エジプトを支配していたイギリスがリビアに侵攻。俗に「北アフリカ戦線」と呼ばれるイタリアとイギリスの戦い(当初)が勃発します。この戦いのなかでM11/39は実戦デビューしますが、実は驚くほど全く役に立たちませんでした。

 M11/39は、主砲に40口径37mm砲を搭載していました。これはM11/39が登場した1939年末の段階では、それほど見劣りするものではありませんでしたが、当時の戦車開発のスピードは驚くべき速さで、すぐに時代遅れとなっていってしまいました。

 また、その主砲も通常の戦車では回転砲塔に収まるところですが、M11/39の砲塔はそのスペースが不十分で、車体に直接、取り付けられていました。そのため敵目標を発見しても、砲だけを素早くそちらに向けることができず、車体を動かさなければならなったため、そのあいだに撃破されてしまうことも少なくなかったといいます。

 これらの問題は開発直後からわかっており、国を挙げて開発されたM11/39ですが、わずか100両ほどでその生産は終了してしまいました。

 そして前述した北アフリカで、イタリア軍はイギリス軍に大敗を喫し、M11/39もそのほとんどが失われました。これ以降イタリアは同盟国であるドイツに助けを求め、北アフリカでの戦いは新たな局面に入っていくことになります。

弱かったのは戦車か、人か?

 イタリア軍のこの大敗はしかし、一概にM11/39の能力不足のせいだけともいえない一面があります。というのも、当時のイタリア軍は非常に士気が低く、戦う前に逃げ出してしまう兵士も非常に多かったといわれています。

 M11/39も、その能力を発揮する前に乗員が逃げ出してしまうことも多かったようで、そうして無傷のまま放置されたM11/39は、敵のイギリス軍はじめ連合国軍に鹵獲(ろかく)されました。鹵獲された戦車は連合国軍に使用され、イタリア軍を追い詰めるのにその能力をいかんなく発揮したというのは、非常に皮肉な話です。


砂漠に放棄されたM11/39中戦車を調べるオーストラリア兵(画像:オーストラリア戦争記念館)。

 しかし、M11/39を失ったイタリア軍も、そのままやられてしまったわけではありません。M11/39の失敗を活かし、回転砲塔に47mmの戦車砲を取り付けた戦車M13/40を開発、援軍として到着したドイツ軍と共にイギリス軍へ反撃を行いました。1940年に始まった北アフリカでの戦いはその後、1943(昭和18)年に連合軍がイタリア本土へ上陸するまで続き、同年9月、イタリアはドイツや日本より先に降伏することになります。