1976年6月26日、アントニオ猪木とモハメド・アリによる異種格闘技戦が行われた。この試合を実現させたのは、当時、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿(しんま・ひさし)だ。作家・向谷匡史さんの著書『寝業師の仕事術』(清談社Publico)より、「世紀の一戦」の舞台裏を紹介する――。(第4回)
写真=共同/ゲッティ
1976年6月、「異種格闘技戦」でプロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(右)と対戦するプロレスラーのアントニオ猪木=日本武道館 - 写真=共同/ゲッティ

■プロレス好きの会社員が新団体旗揚げへ

「新間君、新しいプロレス団体をつくるんだ。協力してくれんか」

東京・渋谷のホテル「一柳」のティールームで、豊登(とよのぼり)が単刀直入に言った。

「いつ? どこで? 誰と? 資金は? テレビ中継は?」

新間が驚いて問い返す。

「その前に」

矢継ぎ早の質問を制して豊登が言った。

「協力してくれるかどうか。まず返事が欲しいんだ」
「わかりました。私でよければお手伝いさせていただきます」

胸を弾ませながら快諾した。

新間は学生時代、ボディービル練習生として中央区日本橋人形町にあった日本プロレスの道場へ通う一方、毎週金曜日にリキ・パレスで行われるプロレス興行を欠かさず観戦していた。そんなことから豊登と親しくなっていたのだ。

当時、新間は31歳。中央大学を卒業してポンジー化粧品に就職し、営業マンとして働いていた。三度のメシより好きなプロレスだ。人気レスラーの豊登と新団体旗揚げに関わるなど夢のよう話であるだけでなく、頼りにされたことは新間の自尊心をくすぐった。

■華々しい旗揚げは一瞬で暗転した

豊登は馳せ参じるレスラーを何人か告げてから、新団体の“目玉”として日本プロレスに所属するアントニオ猪木の名前をあげた。猪木はいまアメリカで修行中だ。新間より8歳下の23歳。プロレス界の将来を背負って立つ男として期待されている。引き抜くことができれば新団体は成功するだろうと新間は思った。

懸念があるとすれば当の豊登だ。元大相撲力士で人気者の実力者だったが、競輪にのめり込んでいた。金銭トラブルは新間も何度か耳にしている。力道山亡きあと2代目社長に就任したものの、「公金流用」を理由に日本プロレスを追放されていたのだった。

猪木を口説き落とし、東京プロレスは設立された。1966年10月12日、蔵前国技館で行われた旗揚げ興行は9000人の観衆を集め、華々しくスタートした。

だが経営は“火の車”だった。日プロとの確執から「旗揚げシリーズ」はキャンセルが続出。新間は僧侶だった自身の父親はもちろん、融資を求めて駆けずり回った。

これに追い打ちをかけたのが豊登のギャンブルだった。数千万円が東プロの負債に計上されていたのだ。激怒した猪木は豊登と訣別(けつべつ)して日プロに復帰。東プロは空中分解する。

■猪木に告訴され零下12度の鉱山へ

さらに翌年1月8日、新間は頭から冷水を浴びせられる。猪木が豊登と新間父子を業務上背任横領容疑で告訴したのだ。父親まで巻き込んで金策に奔走した自分が、なぜ横領で告訴されなければならないのか。新間は猪木を虚偽告訴等罪で告訴する。

このトラブルは、新間父子が不起訴になったことで猪木が謝罪、落着するのだが、新間は父親に勘当されてしまう。責任を取る証として妻を残し、栃木県日光・小来川の山深い銅山で働く。

町まで歩いて8キロメートル。小屋に寝泊まりし、真冬は零下12度という極寒の地だった。勘当が解けるまで4年間、歯を食いしばって働き、自宅にもどるとパン店を開業する。黙々とパンをスライスし、薄利の仕事に精を出す。

「これも人生」――。新間の諦観だった。

一方、日プロに復帰はしたものの、猪木はジャイアント馬場との確執から追放されようとしていた。猪木は新日本プロレスの旗揚げを決意して新間に声をかける。

「立ち上げるんだ。新日本プロレスを手伝ってくれないか」

猪木は屈託なく、そう言った。

■猪木という“素材”に全てを懸けた

猪木は、新間親子を業務上背任横領で告訴した男だ。

「ふざけるな!」

私たちであれば怒りに身体が震えるだろう。だが新間は感激をもって新日本プロレスに馳せ参じるのだ。これから先、新間は再三にわたって裏切られながらも、猪木を守り立てるため駆け回ることになる。新間は「人間・猪木寛至」を憎みながらも、「プロレスラー・アントニオ猪木」に心酔していたのだ。

猪木の所業を告発した自著『アントニオ猪木の伏魔殿』(徳間書店)においてさえ、《人間・猪木寛至とは対照的に、プロレスラー・猪木は史上最高のレスラーだった。その私の信念は、今でも揺るがない》と書く。

新間は「プロレスラー・アントニオ猪木」という“素材”に惚れ、この素材を用いて自分が思い描くプロレスワールドを実現しようとしたのだ。新間は「寝業師」でありながら本質はロマンチストだった。

一方、移民としてブラジルで辛酸を舐めた猪木はリアリストだ。リアリストは過去を引きずらない。新間父子に対する告訴という行為は過去のことであって、「今」は「今」なのだ。だから平気で新日本プロレスの立ち上げに協力を要請できる。

リアリストとロマンチストは目的地を異にしつつ、二人三脚で走りはじめる。

■世界への扉を開いたダメ元の一言

難題は外国人レスラーの招聘だった。当時、招聘ルートは日本プロレスと国際プロレスに握られているため、新日本プロレスは大物レスラーを呼ぶことができなかった。妙手が浮かばないまま、新間が所用でロサンゼルスに飛んだときのことだ。

ビンス・マクマホン・シニア(WWF=現WWE代表)がたまたま滞在していて紹介される。

「うちに選手を送っていただけませんか?」ダメ元だ。非礼を承知でぶつけてみた。

「オーケー」

こころよく引き受けてくれたので新間が驚いた。「過激な仕掛け人」と呼ばれながら、新間にはどこか憎めない稚気のようなものがある。マクマホンは気を許したのだろう。1974年2月、当時、世界一の売れっ子であった“大巨人”のアンドレ・ザ・ジャイアントを招聘し、新間はプロレス関係者の度肝を抜く。

そして1975年、ビッグチャンスが訪れる。アメリカから帰国した自民党国会議員の八田一朗(元日本レスリング協会会長)が新間に耳打ちする。

「モハメド・アリが誰とでも戦うと言っているぞ」

新間の胸は躍った。アリと戦えば間違いなく世界的な話題になる。しかもボクシングvs.プロレスという異種格闘技だ。世界のメディアが注目する。

新間はすぐさま挑戦状を送りつけた。

写真=iStock.com/pedphoto36pm
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pedphoto36pm

■アリをリングに引きずり出した執念の仕掛け

「イノキ? WHO?」

アリは無視した。

新間はあらゆるチャネルを使ってアプローチする一方、欧米のマスメディアに向けてアリ戦のアピール記事と写真を送りつけて煽った。

さらに1976年2月6日、「格闘技世界一決定戦」第1戦として、ミュンヘン五輪柔道金メダリストのウィレム・ルスカと猪木を対戦させ、勝利する。アリとの対戦に期待が集まっていく。アリ側としては猪木の挑戦を無視できなくなった。新間はアリが挑戦を受けざるを得ないよう“外堀”を埋めていったのである。

アリ側は対戦を承諾し、ファイトマネーを提示する。諸説あるが、新間が自著で明らかにした金額は600万ドル。そのうち300万ドルは「クローズド・サーキット」(劇場用テレビ映画)でまかなうため、新日本プロレスが用意するのは残りの300万ドル(当時のレートで9億3000万円)ということになった。

会社にそれだけのカネはない。新間はテレビ局やスポーツ紙、後援者の間をくまなく走り回り、なんとか300万ドルを調達した。新間の大勝負だった。

■狙いは「勝利」ではなかった

試合ルールは開始直前までもめた。当初、楽観していたアリ陣営は猪木の実力を再認識するにつれて危機感をいだいたのだ。

向谷匡史『寝業師の仕事術』(清談社Publico)

「猪木はタックル、チョップ、投げ技、肘打ちは禁止」という条件を持ち出し、さらに試合前日になって、「猪木は立ったまま脇腹、後頭部を蹴ってはいけない。蹴るときは片手を床についているときか、両手をついている場合だけだ。飲めないなら試合はせずにアメリカに帰る」

アリ陣営は強硬だった。これで戦えるのか。新間は猪木に意見を聞いてみた。

「要求はなんでも飲め。試合しないで帰られたのでは元も子もない」

リアリストの返事は明快だった。

新間も納得した。この試合の狙いは、アリと戦うことで「アントニオ猪木」の名前を世界ブランドにすることなのだ。

「世紀の一戦」は1976年6月26日午前11時50分、アメリカのクローズドサーキットに合わせてゴングが鳴った。日本武道館は超満員だった。

■世界中に笑われた試合が勲章に

だが、試合は惨憺(さんたん)たるものだった。リングに立っているのはアリだけで、猪木はマットに仰向けに寝転び、膝を軽く曲げた脚をアリに向けて攻撃の機会をうかがっている。

アリも攻めあぐねている。のち「猪木アリ状態」と呼ばれ、総合格闘技において見られる戦法だった。膠着状態が続く。不利なルールに縛られた猪木としては、これ以外に戦う方法はなかったのである。

だが、観客はそのことを知らない。手に汗握るバトルを期待している。15ラウンドのほぼすべての時間が「猪木アリ状態」だった。判定は引き分け。観客はリングにものを投げ、罵声を浴びせた。

翌朝のスポーツ新聞は筆をそろえて酷評した。

『世界中に笑われた ドロー アリ・猪木 “スーパー茶番劇”なにが最強対決』(1976年6月27日付「日刊スポーツ」)

新日本プロレスの人気は一気に低下する。不入りで興行にならない会場もあった。プロレス中継のテレビ視聴率も下がった。

だが、新間には確信があった。試合内容は人々の記憶から消えていき、あとに残るのは「アリと戦って引き分けたプロレスラー」という栄誉と勲章なのだ。

その効果は早々に現れる。アリ戦からしばらくして、新日本プロレスはパキスタンからオファーを受けて興行を打つ。深夜3時の到着にもかかわらず、空港には猪木をひと目見ようと4、5000人ほどが詰めかけ、歓迎したのだった。

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向谷 匡史(むかいだに・ただし)
作家/浄土真宗本願寺派僧侶/日本空手道「昇空館」館長
1950年、広島県呉市出身。拓殖大学卒業後、週刊誌記者などを経て作家に。浄土真宗本願寺派僧侶。保護司、日本空手道「昇空館」館長として、青少年の育成にあたる。著書に『考える力を育てる 子どもの「なぜ」の答え方』(左右社)、『浄土真宗ではなぜ「清めの塩」を出さないのか』(青春出版社)、『親鸞の言葉 明日を生きる勇気』(河出書房新社)、『角栄と進次郎 人たらしの遺伝子』(徳間書店)など多数。
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作家/浄土真宗本願寺派僧侶/日本空手道「昇空館」館長 向谷 匡史)