誠道会幹部が撃たれた病院前

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 2015年に始まる山口組分裂抗争の導火線は、意外にも九州だった。苛烈を極めた道仁会と九州誠道会の抗争。山口組は、抗争初期から誠道会に肩入れした。そして、最初の犠牲者となったのは、2007年6月13日に佐賀県久保田町の船着き場で殺害された誠道会・鶴丸善治顧問だった。その葬儀では、異様な光景が広がっていた──。誰よりも間近で抗争を見てきたライター、鈴木智彦氏が総括する。【第2回。前後編の後編。前編から読む

【写真】周囲もピリピリ 5年4か月の服役を終え、府中刑務所から出所した山口組の司忍六代目組長

衆院議員も列席

 山口組の組員たちは一切私語を交わさず、隊列を乱さず、まるで軍靴を鳴らすように行進した。相応に広い会場だがこれだけの人数は収容できないので、大半の組員は野外で待機することになった。会場の周囲はワイシャツの上に防弾チョッキを着用した誠道会の組員が取り囲んでいた。

 防弾の楯を持ったボディ・ガードの列は室内の廊下にも続いていた。防弾チョッキで着膨れた組員は100人近くいただろう。1着15万円程度らしいので、100着の防弾チョッキを揃えるのに1500万円の経費が必要になる。

 当時、実話誌系の雑誌記事では防弾チョッキに関する記述はタブーだった。過去、警察が道仁会の関与した抗争を鎮静化させるため、防弾チョッキを押収した事例があったからだ。余計なことを書いて、世論が再び「防弾チョッキを押収せよ」と盛り上がったら、警察は動かざるを得ない。もし防弾チョッキが押収されたら、組員たちは命綱を失い、銃口の前で裸を晒すに等しい。

 山口組の弔辞は地元・九州の山健組幹部が読み上げた。なにを言うのだろうとICレコーダーを回しながら聞いた。

「悔しかったでしょう。無念だったでしょう。残された者も悔しい思いをしております。油断大敵という言葉がありますが、まさにその通りでした。(中略)ただ、ただ、安らかに、安らかにお眠り下さい。そしてご家族の皆様方、そして誠道会の行く末を、高いところから見守っていてください。最後になりますが、鶴丸さん、あんたの隣の席を、とってくれんね……」

 外連味や政治色のない、普通に泣ける弔辞だった。山口組からは弘道会傘下の名門老舗組織である稲葉地一家十代目総長だった松山猛舎弟頭(肩書きは現在)も参列していた。その後、山口組の分裂抗争では、稲葉地一家のヒットマンがマスコミの記者に扮して山健組事務所前に潜入、幹部2人を射殺することになるのだから、一寸先は闇である。

 葬儀はつつがなく終了し、山健組の大軍団は再び大型バスに乗車して去った。この時の葬儀には民主党佐賀県連代表(当時)の大串博志衆院議員や自民党の県会議員、久保田町の町長らも列席しており、のちに新聞沙汰となっている。

止まらない報復

 葬儀からわずか3日後、今度は熊本市で誠道会・入江秀則幹部が殺された。自宅2階にある寝室の床で布団を抱いたまま、下着姿で倒れていたという。背中に刃物で刺された傷があり、司法解剖によって頭部の銃創が発見された。弾丸は右目の下付近から入り、頭の中に残留していた。

 入江幹部の両親は「ヤクザだったからウチの息子は殺された」と組葬を拒否し、身内だけで葬儀を済ませてしまった。家族の死を暴力団の示威行為に利用されたくないという心情は、部外者にも嫌というほど理解できる。

 その年の8月、今度は誠道会のヒットマンが福岡市中央区黒門のマンション前で、道仁会の大中義久三代目会長を射殺した。トップの殺害で抗争はヒートアップし、報復は止めどなく連鎖した。

 三代目が殺害された翌日、熊本で誠道会幹部が銃撃された。11月8日、佐賀県の病院に入院中だった一般人男性が、道仁会のヒットマンに誤射され死亡した。抗争で一般人が死亡する痛ましい事件は、暴力団にとっても絶対のタブーである。警察の取り締まりが激化し、暴力団排除の気運が高まるからだ。

 それでも報復は止まらない。11月24日、大牟田市内の兼行病院前で誠道会・古賀茂喜事務局長が銃殺された。白昼堂々、誠道会のお膝元に乗り込んで行なわれた暗殺の一部始終を、すぐ横で誠道会古参幹部が目撃していた。犯行現場には花束や飲み物などに加え、生前の感謝を伝える古賀事務局長への置き手紙もあった。

 誠道会の幹部に連れられ、古賀事務局長の自宅へ焼香に行った時のことだ。まだ小学校に入学する前の息子さんが、私の横にいる幹部の前に座りこう呟いた。

「おじちゃんもヤクザやろ。ヤクザ辞めんね。辞めないとうちのお父さんのごと殺されるばい」

 以降、2013年の抗争終結まで47件の事件が起き、前述した一般人被害者を含む14人が殺された。銃撃による怪我が元で死亡した幹部や、頭部を撃たれて植物状態となった組員はカウントされていない。

 取材で会話を交わした人間が次々に殺された。平和な日本では考えにくい異常事態は、たとえそれが取材相手の暴力団でも、私の死生観を否応なく狂わせた。

特定抗争指定によって流れが変わった

 山口組もまたずいぶん考えが変わったろう。それまでの山口組には、昭和に勃発した山一抗争での圧倒的勝利のせいで、「いかなる理由、大義があろうと、もし山口組が分裂すれば、山菱の代紋を捨てた側が負ける」(一和会解散後、山口組に戻った某組長)という呪縛があったはずだ。

 事実、「どんなに不満があっても組を出たら終わり」という談話はよく聞いた。が、一和会と同じ立場の誠道会は健闘し、多大な犠牲を払って抗争終結に漕ぎつけた。一和会だって戦いようによっては存続できたろう。

 2012年10月に施行された改正暴対法も、暴力団社会の空気を変えた。同年12月、道仁会と誠道会が特定抗争指定暴力団に指定され、警戒地域にある事務所は使えなくなり、組員の参集や付きまとい等が禁止された。元来、道仁会はどこまでも強硬姿勢を崩さなかった。離脱派を叩きつぶすまで抗争を止められず、和解のテーブルにもつけない。

 ところがこの特定抗争指定によって流れが変わった。2013年6月11日、双方の代表者が久留米署を訪問、道仁会が抗争終結の宣誓書を、誠道会は解散届を提出する。あの道仁会が改正暴対法をきっかけに抗争を止めたのである。

 山口組が六代目体制になってから、司組長の出身母体である弘道会は暴力団らしい強権支配を続けていた。道仁会の分裂抗争を見ていた山口組内の不満分子はこう思ったろう。──離脱派が必ず負けるわけではない。それに今後、抗争をすれば確実に特定抗争指定暴力団に指定される。指定を受ければ組織の維持ができず、活動ができなくなる。もはや抗争はできない。もし我々が山口組を脱会し新団体を設立しても、喧嘩ができるはずがない、と。

 司忍組長が出所し、山口組は創立100周年を迎えようとしていた。弘道会打倒を目指す裏切り者たちは山口組の中枢で面従腹背し、いざ鎌倉の号令を待っていた。(以下、次号)

【プロフィール】鈴木智彦(すずき・ともひこ)/1966年、北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科除籍。ヤクザ専門誌『実話時代』編集部に入社。『実話時代BULL』編集長を務めた後、フリーに。主な著書に『サカナとヤクザ』『ヤクザときどきピアノ』など。

※週刊ポスト2026年8月7日号