1958年夏の甲子園大会、秋田商を相手に熱投する徳島商・板東英二

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 板東英二さんが22日、慢性心不全のため86歳で亡くなった。タレントとしてのイメージが強い板東さんだが、身長170センチと小柄ながら高校野球、プロ野球を駆け抜けた記憶にも記録にも残る投手だった。

 板東さんが、全国の野球ファンから注目を集めたのは、徳島商時代の1958年春季四国大会だった。1県1校出場の同大会で、初戦は高知商と対戦し延長16回2―1でサヨナラ勝ち。雨で1日空いた高松商との決勝戦は、延長25回、右手を負傷し血染めのピッチングで投げきるも敗れた。一人で3日間、計41イニングを投げたことを重く受け止めた日本高野連は同年夏、健康管理を理由にそれまで無制限だった延長戦について「延長18回を過ぎて新しいイニングに入らず、後日再試合を行う」という新たなルールを導入した。

 同年夏の甲子園大会で、このルールが初適用されたのが、徳島商と魚津の準々決勝だった。魚津・村椿輝雄投手と0―0の投手戦を展開した板東さんは25個の三振を奪った。翌日の再試合で1失点完投。準決勝の作新学院戦も1失点完投したが、3日で36イニングを投げた板東さんに余力は残っておらず、決勝戦では柳井に0―7で敗れた。この大会で板東さんが奪った83三振は、現在も夏の選手権大会の個人1大会最多奪三振記録だ。

 ドラフトのなかった時代、プロ野球各球団の争奪戦を経て中日入り。契約金は巨人入りした王貞治さんよりも上だったとされている。変化球は杉下茂さんに教わったフォークボールくらいで、ほとんどが直球勝負だった。2年目、3年目に先発として2ケタ勝利を挙げた。1964年以降は「先発完投型」が当たり前だった当時としては異例の「抑え投手」に起用された。守護神の先駆けの一人だった。

 通算成績は435試合に登板し、うち先発は103試合。77勝65敗、防御率2・89だった。ちなみに巨人・中日戦でしのぎを削ったONとの対戦成績は、長嶋茂雄さんには6本塁打含む打率2割6分9厘だったが、同期の王貞治さんには3本塁打を許したものの同2割6厘に抑え込んだ。