優先席「譲る」7割回答も…実際に座れたのは“片手で数える”ほど 「世の中こんなに冷たかった?」妊婦が感じた戸惑い
「世の中ってこんなに冷たかったっけ?」
東京都内に住む妊娠7か月のAさん(30代)は、そんな戸惑いを覚えるようになったと話す。都内の会社に正社員として勤務し、産休に入るのは予定日の6週間前から。それまでは毎日、満員電車で通勤している。
妊娠してからというもの、一般の席で譲らせるのは申し訳ないという思いから、優先席エリアに向かうようにしているが、いざ自分が利用対象者になってみると、席を譲られる機会がほとんどない。カバンには、一般的なデザインのマタニティマークをつけているが、スマホに熱中して気づかない人、Aさんが近づいた瞬間に寝たふりをする人--。これまで優先席を譲られた回数は、片手で数えられるほどだという。
SNSでは「妊婦は満員電車に乗るな」という過激な意見も見かけたが、仕事が続く限り電車を使わざるを得ない妊婦は少なくない。
そもそも、日本の公共交通機関における優先席は、あくまでも乗客の任意協力に委ねられた「マナー」であり、席を譲る法的義務はなく、譲らなかったとしても罰則もない。この点が、善意に依存する制度の限界と課題を浮き彫りにしている。
「譲ろうと思う」7割超なのに、なぜ対象者は座れないのかAさんの体験は特異な例ではない。内閣府が2020年10月に実施した世論調査では、優先席を必要とする人が近くにいたら「譲ろうと思う」と回答した人の割合は72.0%に上る。一方、譲ろうと思わない理由として「譲ることが相手に失礼になる可能性がある」(46.4%)、「声をかけるのが恥ずかしい」(26.9%)といった心理的なためらいの声も根強くある。
「譲ろうと思う」という意識は広く共有されている。しかし、実態はAさんの体験が示すように、大きく乖離している。
JR東日本が2014年に公表した調査では、一般の乗客の約4割が「(対象者がいれば)ほとんど席を譲る」と回答したのに対し、優先席の対象者が「ほとんど席を譲られる」と回答したのは1割にも満たなかった。善意を表明する人と、その善意を実際に受け取れている人との間には、あまりに大きな隔たりがある。
優先席を利用しやすくするための取り組みとして、内閣府の調査では「車内や駅構内などでのアナウンスやポスターでの啓発活動」(58.8%)、「学校などでの教育」(54.4%)、「優先席を示す表示の明確化」(54.3%)が効果的であるとの意見が上位に並ぶ。だが、これらの対策だけで状況は変わるのか。
鉄道会社は「啓発を継続」、一般客の利用制限には慎重姿勢弁護士JPニュース編集部は、JR東日本と東京メトロの2社に対し、優先席の利用状況の把握と対策について取材した。
JR東日本は、対象者から「譲ってもらえない」という声が届いていることを認めた上で、「ポスターやアナウンスによる啓発活動は現在も実施しており、今後も継続する」と回答した。ただし、「車内アナウンスの頻度や内容が過多・過剰であるとのご意見も頂いており、多様なお声を総合的に勘案してアナウンスの実施判断をしている」とも述べており、啓発の手段には一定の限界があることをにじませた。
優先席を「専用席」として一般利用を制限するなど、ルールを厳格化するアプローチについては、同社は慎重な立場を示した。
「明文化しきれていない配慮が必要な方へのケアや、外見からの判断が難しい障がいをお持ちのお客さまへの対応の難しさ、お客さま同士の行き過ぎた注意や勘違いによるトラブルの増加といったデメリットも想定されることから、導入にあたっては慎重な判断が求められる」という。
東京メトロも、「お客様からは『座れない』『譲ってもらえない』というご意見をいただいている」とした上で、「ステッカーの掲示、座席シートやつり革の色の変更等の明示化に加え、車内放送やポスターの掲出等を行っている」と回答した。
また、専用席化については「相互直通運転を行っている鉄道事業者を含め、広く協議が必要になる」と述べ、首都圏の路線ネットワークの複雑さが制度変更の壁になることを示した。
首都圏だけではない…全国6都市の実態調査が示すもの啓発一辺倒では効果が限られるという問題意識のもと、優先席の利用実態を学術的に検証した研究者がいる。金沢工業大学の土橋喜人教授だ。土橋教授は自身も左下肢に障害を持つ優先席利用対象者であり、ロフストランド杖を使用して外出している。
土橋教授らの研究で着目したのが、札幌市営地下鉄の事例だ。札幌市営地下鉄では1974年に優先席が導入されたが、「優先利用対象なのに使えない」という市民の声を受け、翌75年に「専用席」へと名称を変更。全国で唯一、優先席ではなく「専用席」を設けている。
土橋教授らの研究グループは、札幌市営地下鉄と関東圏の地下鉄を比較した研究に続き、札幌市、仙台市、関東圏、京都市、神戸市、福岡市の計6地区で優先席の利用実態を観測調査した。調査では、優先席に座っている乗客の属性(優先利用対象者か否か)、空席率、対象者が立たされている割合を、同程度の混雑状況(5段階の観測区間)で比較している。
結果は際立っていた。優先利用対象者利用率(優先席に座っている乗客のうち対象者が占める割合)を見ると、札幌が93.4%だったのに対し、関東は19.9%、京都は40.3%、神戸は43.5%、仙台は40.2%、福岡は50.9%にとどまった。優先席の空席率も、他の5地区が混雑に応じて急減するのに対し、札幌だけはどれだけ混んでも5~7割の水準を維持した。
「この結果は、関東圏の状況が特に悪いというわけではなく、札幌を除く他の地区でも、優先されるべき人々が優先席を十分に利用できていない実態を示しています」と土橋教授は語る。
優先利用対象者が立たされている割合(優先席の近くに対象者がいるにもかかわらず座れていない観測の割合)では、関東は46.6%、京都は47.0%、神戸は48.3%に上る一方、札幌は13.2%にとどまった。しかも、混雑が増すにつれて他の5地区では立たされている人の率が100%に近づくのに対し、札幌では混んでも2~3割程度に抑えられており、大きな差となっていることが確認されている。
「専用席」というネーミングだけが“効果”の理由ではないなぜ札幌だけがこれほど異なるのか。「専用席」という名称の力と思う人も多いかもしれないが、土橋教授はそれだけでは説明がつかないと指摘する。
札幌で意識調査を行ったところ、「専用席と優先席の違いを認識している」と答えた市民は半数程度だった。残り半数は「違いはわからないが存在は知っている」、あるいは気にしていない層だ。
「もちろん『専用席』という名称がもたらす効果は否定しません。しかし、それだけが理由ではないのです」と土橋教授は強調する。
土橋教授が注目するのは、制度導入のプロセスとその後の社会的な雰囲気の醸成だ。札幌では、市民の声が市議会の場に届き、当時の交通事業管理者が出席して議論が行われ、翌年から専用席に切り替えるという公的な意思決定が下された。
「少なくとも1980年代後半の北海道新聞には、『東京と違って元気な人が平気で座っているということはない』という読者の声がすでに複数寄せられていた。10年余りの間に、そういった意識が定着していたことがわかります」と土橋教授は言う。
また、土橋教授は北海道の地域的な特性についても考察を示す。
「北海道は開拓から約150年と歴史が浅く、極寒の地という特性があります。厳しい環境を生き抜くためにルールを順守する集団的な規範意識が根付いているのかもしれません。また、全国から人が集まる都市であるため、外部から来た人もその規範に順応しやすいのではないでしょうか」
土橋教授の札幌在住の家族や友人、さらには東京から札幌に転居した友人も、「あの雰囲気では(専用席に)容易に近づけない」と語ったという。名称以上に、長年かけて醸成された社会的規範が機能していることがうかがえる。
「啓発」だけで効果があるなら問題はとうに解決しているでは、札幌以外の地域で優先席の利用状況を改善するために何ができるのか。土橋教授は「単なる啓発やキャンペーンだけで人々の意識や行動を変えることは、非常に困難」と断言する。
「『札幌で効果があるなら他の地域でも専用席を導入すればよい』という意見は当然あるでしょう。しかし、たとえば数年前にある鉄道会社へ提案した際には、『他の事業者が優先席なのに、自社だけ専用席という名称は使えない』という理由で採用されませんでした。こうした横並び意識が、新たな試みの障壁となることがあるのです」と土橋教授は振り返る。
国土交通省は2020年に「バリアフリー法及び関連施策のあり方に関する検討会」を経て、バリアフリー法の一部を改正し、国・地方公共団体・国民・施設設置管理者の責務等として「車両の優先席、車椅子用駐車施設、障害者用トイレ等の適正な利用の推進」を加え、ハード・ソフト取組計画の記載項目に「上記施設の適正な利用の推進」等を追加し、適正利用推進を国・自治体・事業者・国民の責務と位置づけた。
しかし土橋教授は「一連の議論の結果としてもたらされたのは、結局のところポスター・チラシやSNS等といった一般的な啓発活動でした。もしそのような手法で利用者の行動が変わるのであれば、問題はとうに解決していたのではないでしょうか」と述べる。
2024年10月に国土交通省が実施したインターネットモニターアンケートでも、「真に必要な方が優先席を利用しやすくするために必要な取り組み」として「表示の明確化」(59.3%)、「利用ルールの明確化」(51.5%)、「交通事業者によるアナウンスなど広報活動」(48.4%)、「学校等での教育」(46.9%)が上位を占め、罰則の導入を求める声は11.5%にとどまった。啓発と表示の整備が引き続き重視されている。
一方で土橋教授が提唱するのは、双方向のコミュニケーションという視点だ。「譲る側が変われば解決するわけではなく、譲られる側も動くことが必要です」と言う。土橋教授自身、下肢障害を抱えており座らざるを得ない状態の場合は、杖とヘルプマークを見せた上で「お元気でしたら譲っていただけますか」と声をかけるようにしており、このやり方であればほとんどの場合に断られることはないという。
また、譲ってもらって当然という態度をとらないことや感謝の意を伝えること、譲られて断っている対象者も「(他に必要としている人のためにも)次は素直に気持ちよく受け入れてほしい」とも語る。
「譲る時にその行為を受け入れられた人は気持ちよく次の人にも譲ることができる。譲られる側がその行為を快く受け入れることで、思いやりの連鎖が少しずつ常態化していくと信じたい」(土橋教授)
本来の理想は「優先席が要らない社会」土橋教授は優先席のあり方について、「専用席化も検討に値するが、それが決定的な策かというと、そうは言い切れない」と慎重だ。また、横浜市営地下鉄や阪急電鉄はかつて「全席優先席」という試みを実施したが、いずれも現在は廃止されている。
「本来の理想は、優先席があろうがなかろうが、必要な人が座り、そうでない人は必要な人が来れば自然に席を譲る社会です」と土橋教授は言う。
名称や制度を整えるだけでは足りない。多くの人は、自分が当事者の立場になって初めてその不便さや困難さに気づくものだ。問題の根は、こうした想像力の欠如を背景に、早いもの順という行動原理が公共空間の隅々にまで及んでいる社会構造そのものにある、というのが土橋教授の見立てだ。
あなたが今日乗った電車で、優先席に誰が座っていたか--そして、もし対象者が近くに立っていたとしたら、自分はどう動いたか。まずは振り返ってみることが、健全な社会への第一歩かもしれない。

