大河ドラマ『豊臣兄弟!』相撲でクビは本当か、織田信長が古参3重臣を突然追放した理由

安土城跡(写真:けいわい/PIXTA)
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第25回「変事の予兆」では、安土城が完成し、祝宴の場では家臣たちが相撲を取ることに。そこで、信長の理不尽な命令が飛び出し、場は騒然となり……。今回放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
織田信長が熱中した相撲とドラマの虚実
今回の放送では、林秀貞(ひでさだ)、佐久間信盛(のぶもり)、安藤守就(もりなり)といった織田家の重臣たちが、織田信長に唐突に追放される場面が描かれた。
それも安土城完成の祝宴という場で、近習の森乱(一般に「森蘭丸/もり らんまる」の名で知られる人物)と相撲をとらされた挙げ句、敗れると問答無用で追い払われるという、あっけにとられるような展開となった。
実際の信長も相撲を見るのを好んだようだ。『信長公記』によると、元亀元(1570)年には常楽寺に近江の国中の力士たちを集めて、相撲観戦を楽しんでいる。
また、天正6(1578)年2月、安土城に300人もの力士を集めて相撲大会を開催。さらに同年8月には、1500人もの力士を集めて、相撲を観覧したという。相撲大会の規模がだんだんと大きくなっていることからも、信長の相撲への入れ込み具合が伝わってくる。
とはいえ、今回の放送のように相撲の勝敗で重臣をクビにしたという記述はなく、フィクションである。それ以前に、信長が重臣たちに相撲を取らせたという事実も見つかっていない。
「相撲に負ければクビ」というのはドラマといえども、さすがに理不尽だが、後半で信長の真意が明かされる。織田家に貢献してきた3人が、なぜ追放されてしまったのか。要潤演じる明智光秀が、次のように説明している。
「裏切りでございまする。上様の命で探っておりました。佐久間殿は本願寺と、そして林殿と安藤殿は、武田と通じている疑いがございました」
相撲での敗北は追放の理由づけに過ぎず、実際は裏切り者たちを処罰したというのである。
重臣たちの追放自体は、天正8(1580)年に実際に行われていた。3人の重臣たちはそれぞれどんな人物で、その去り際は史料でどう描かれているのか、解説していこう。
24年前の裏切りを蒸し返された林秀貞
林秀貞は父の林通安(みちやす)とともに信長の父・織田信秀に仕えて、信長が父から那古野城を与えられると、平手政秀らとともに信長の家臣となった。『信長公記』で次のように書かれている通り、秀貞は一番家老として若き信長を支えた。
〈ある時、信秀は尾張の国の中央部、那古野に来て、ここに堅固な城を築くように命じ、この城に、嫡男の織田吉法師を住まわせた。一番家老林秀貞・二番家老平手政秀・三番家老青山与三右衛門・四番家老内藤勝介、これらの長老をつけ、台所方の経理は平手政秀に担当させた〉
天文15(1546)年の信長元服の際には、介添え役を務めるなど、秀貞は実質的に後見役を担ったとみられている。それにもかかわらず、弟の美作守(みまさかのかみ)と共謀して、信長ではなく、弟の織田信勝(信行)のほうを擁立しようと動き出す。
だが、弘治2(1556)年の「稲生の戦い」で、信長は弟の信勝の擁立に動いた美作守と柴田勝家に勝利。裏切った秀貞は行き場がなくなったかにみえたが、信長は秀貞を許したばかりか、元の家老の地位に戻している。
このときの信長の寛大な処置が、秀貞の心にいつまでも残ったのだろう。以後、信長に忠誠を誓い、24年にわたって筆頭家老の地位を保ち続けた。
永禄11(1568)年に足利義昭を奉じて上洛した後は、信長の発給する政治文書の多くに秀貞の署名が残っている。政務面でも一定の役割を担っていたようだ。
天正7(1579)年に安土城の天主が完成すると、信長は村井貞勝とともに、秀貞にも安土城内部の見学を許している。いよいよ天下人へと近づいていく信長をこれからも支えなければ……と、秀貞はそう意を決していたに違いない。
だが、信長のほうはまるで違うことを考えていたようである。翌年の天正8(1580)年8月、信長は秀貞にいきなり追放を命じた。両者の間に一体何があったというのか。『信長公記』には、こんな記述が残されている。
〈京都では、家老の林秀貞、および安藤守就父子・丹羽氏勝を遠国へ追放した。理由は、かつて信長が尾張で苦心していた頃、信長に敵対したからである〉
つまり「かつて信長が窮地のときに敵対したから」というのだ。そう、実に20年以上前に、秀貞が弟の信勝についたことを、信長は根に持っていたというのである。さすがにこれを額面通りに受け取るのは難しく、体よく老臣をリストラしたのではないかと考えられている。
ドラマでは、いきなり追放されることになって慌てふためいた秀貞だったが、史実を踏まえると、むしろ「相撲に負けた」という理由づけがあるだけ、ドラマのほうがまだマシな気さえする。実際の秀貞も、さぞあぜんとしたことだろう。
追放からわずか2カ月後の天正8(1580)年10月15日に秀貞は没したと伝えられる。68歳だった。なんとも気の毒な運命だが、同じく追放された重臣の佐久間信盛は、より悲惨な状況だった。
信長が佐久間信盛に放った19カ条の“恐怖の折檻状”
佐久間信盛は秀貞と同様に、信長の父・織田信秀の代から仕え、30年間にわたって織田家の屋台骨を担ってきた宿老中の宿老だ。それでいて秀貞とは異なり、織田家の家督相続を巡る争いのなかでも、信盛は弟の信勝ではなく、信長を支持し続けた。
「桶狭間の戦い」や「姉川の戦い」など主要な合戦にはほぼすべて参戦。比叡山焼き討ちにも加わり、伊勢長島一向一揆、越前一向一揆などにも従軍した。退却戦を得意としたことから「退き佐久間」の異名をとった。
だが、運命のときは突如やってきた。天正8(1580)年8月、信長から一通の書状が届く。信盛とその子・信栄(のぶひで)に宛てた19カ条におよぶ折檻状(せっかんじょう)である。
折檻状とは、主君や目上の者が、部下の失態や怠慢を厳しく叱責し、戒めるためにつづった書状のことで、信長によるこの折檻状が最もよく知られているといってもよいだろう。一カ条目を見たときに、信盛は冷や汗が噴き出たことだろう。
「一、佐久間信盛・信栄父子、五年間、天王寺に在城したが、その間、格別の功積もなかった。これは世間で不審に思われても仕方がない。信長も同感であり、弁護する余地もない」
信長が問題視したのは、信盛が天正4(1576)年に総大将を命じられた「石山本願寺攻め」だ。天王寺城に5年もいながら戦も調略も仕かけなかった──と、その怠慢ぶりを信長から叱責されることとなった。
だが、石山本願寺との戦いについては、力攻めではなかなか落とせないため、石山本願寺の周囲に複数の砦を整備。信長の判断で「包囲戦」へと切り替えて、その後、総大将に信盛が任命されている。
信盛からすれば、本願寺の出入り口を監視する砦の守りを固めて、陸路からの物資搬入を遮断。さらに織田水軍とも連携し、海上からの補給を阻止しようとするなど、信長の方針に従って地道に封鎖を続行していただけに、「寝耳に水」とはこのことだろう。
書状には「明智光秀も羽柴秀吉も活躍は目覚ましい」とあることから、若き家臣に比べて、動きが鈍いと受け取られてしまったのだろう。そしてなにより、老臣をこの際にリストラしようと難癖をつけたというのが実態に近いようだ。折檻状では、かつて信盛が口答えをしたことまで蒸し返されている。
信盛と信栄の親子はこれからどうすればよいのか、折檻状には2つの道が提示されている。一つは「どこでもいいから敵陣に突撃し、手柄を挙げて挽回するか、あるいは華々しく討ち死にせよ」というもの。
そして、もう一つが「親子で頭を丸め、高野山に隠遁して許しを乞い続けろ」というものである。ドラマと同様に、信盛は「剃髪して高野山へ退く」道を選んだ。
とはいえ、高野山にも居場所はなく、さらに南の熊野へと流れたようだ。かつて7カ国の与力軍団を束ねた信盛だったが、追放後についてきた従者はわずか1人だったとも伝えられている。
天正10(1582)年1月、信盛は没する。享年55。追放からわずか1年半後のことだった。
西美濃三人衆・安藤守就を襲った粛清
安藤守就については、林秀貞や佐久間信盛とは出自が大きく異なり、もともとは斎藤道三の家臣だった。道三の死後は斎藤義龍(よしたつ)、そして斎藤龍興(たつおき)に仕えている。稲葉一鉄(いなば いってつ)や氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)とともに「西美濃三人衆」として名を馳せた。
転機が訪れたのは永禄10(1567)年のことで、美濃三人衆は織田方へと転じる。このとき調略を行ったのが秀吉とされている。信長に降った後は、三人衆がまとまって一軍を構成することが多く、尾張衆に次ぐ重臣として厚遇された。守就は「姉川の戦い」など主要な戦いで功績を挙げている。
それにもかかわらず、天正8(1580)年8月の粛清は、そんな守就にまで及んだ。自軍に寝返らせておきながら追放したのはなぜなのか。『信長公記』をひもといても、林秀貞と同じく「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」と記されているのみで、よく分からない。
だが、織田・豊臣政権期から江戸幕府の成立期にかけての政治、軍事、社会の状況を編年的に記録した書物『当代記』には、具体的な理由が書かれている。

(『史籍雑纂 第2』国書刊行会)/出典:国会図書館デジタルコレクション
〈又安藤伊賀守(守就)父子遠流に所(処)さる。是は先年武田信玄え内通致しける事有るとてかくの如し〉
《安藤伊賀守(守就)父子は遠流(遠島・追放)に処せられた。これは先年、武田信玄へ内通したことがあったためである》
「先年」というのは、信玄が西上した元亀3(1572)年とみられている。このときに、安藤父子が信玄に通じたというが、元亀3年といえば、信長が浅井・朝倉・本願寺などの包囲網に苦しみ、織田家最大の危機を迎えていた時期だ。
もし仮に内通していたとするならば、武田軍が西上を諦めた時点で処分されていたはず。少なくとも8年も経った頃に罪状に掲げるのは、あまりに不自然だ。
守就については、林や佐久間とは異なり、追放後も美濃に潜伏。後の「本能寺の変」による混乱に乗じて旧領奪還のために挙兵する。結果としてその戦いで討ち死にするものの、息子の定治は「本能寺の変」の際に、徳川家康の伊賀越えを警護。安藤家は後に徳川へと仕える道が開かれることになる。
今回のドラマで追放された3人の中で、その後の劇的な展開を含めて再登場の可能性が唯一あるのが、この安藤一族である。彼らの再起をかけた動きにも着目したい。
本願寺講和後に始まった信長の家臣団再編
以上のように、まさにドラマさながらの粛清が天正8(1580)年8月に立て続けに起きた。正確には、3人のほか佐久間信盛の息子である佐久間信栄や、安藤守就の息子である安藤定治、そして丹羽氏勝という家臣も含めて6名がこのときに追放されている。
時期としては、ちょうど信長が石山本願寺との10年以上にわたる抗争についに決着をつけた頃に当たる。畿内の平定に伴って、信長は家臣団の再編を図ったのではないだろうか。
そのことは、佐久間信盛の失脚後、畿内方面では明智光秀の存在感が一段と増していくことからも読み取れる。古参の大老たちが担っていた広大な所領と軍事権限が分解・再配分されたことで、信長の政権はより中央集権的な構造へとつくり変えられることになる。
だが、もちろんこの粛清は追放された者以外の家臣たちにも大きな動揺を与えることとなる。いつ自分も過去の失態を蒸し返されて、放逐されるか分からないからだ。
天正8(1580)年の追放劇から2年後、本能寺で信長を討ったのは、大抜擢を受けながらも追い詰められていった明智光秀だった。
次回「信長を笑わせろ」では、信長が長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)との約束を反故にして、阿波と讃岐を手中に収める。元親が激怒し、間を取り持った明智光秀は苦しい立場に陥る。
【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『当代記』(『史籍雑纂 第2』国書刊行会)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)
筆者:真山 知幸
