T. Etoh

写真拡大

華々しいグランプリカーの活躍は1951年で終了したアルファロメオ。1963年にアルファロメオのレース活動は、カルロ・キティとルドヴィコ・キッツォーラによって設立されたアウトデルタに委託され、1963年、アウトデルタは正式にアルファロメオのコンペティション部門となり、それまで細々と活動をしていたTZに代わり、新たなマシン開発を推進することになった。

【画像】タルガフローリオでも活躍したアルファロメオT33/2(写真9点)

とはいえ、ル・マンで総合優勝を狙うようなマシンではなく、あくまでも性能面ではTZの延長線に位置する車であり、仮想敵は従来同様ポルシェであった。だが、新たなマシンが大きく異なっていたのは、アルファにとって史上2作目となる、ミドシップレイアウトを持つマシンであったことである。このため、既存の部品はほとんど使えず、車両が完成するまでには2年の歳月を要したという。

史上2作目と書いたが、史上初のミドシップカーが日の目を見ることはなかった。その史上初のミドシップカーは、ティーポ512と呼ばれたグランプリカーであり、戦争勃発によって開発が中断され、戦後になってもそれを継続することはなくお蔵入りとなった悲運の車である。カルロ・キティはそのアイデアを次世代のスポーツカーに採用したというわけだ。(512は恐らく今もアルファロメオ博物館にあるはずである)

ティーポ33と呼ばれたニューマシンの開発は、1966年夏に始まり、それまでのチューブラーフレームから、H型フレームに変わった。二つのサイドメンバー内にゴム製の燃料タンクを配し、H型の名前の由来となる中央のクロスメンバーも左右の燃料タンクと結合された、いわゆるキャリータンクとしての役目を果たしていた。この構造が航空機にヒントを得たことは間違いなく、リベット留めのアルミニウム構造と、シャシーチューブ内に収容された燃料を保持するための、合成マスチックライニングを製造するのに必要な技術を持っていた、パレルモに本拠を置くアエロナウティカ・シクラが製造を担当している。

エンジンは、90度のバンク角を持つ2リッターDOHCユニット。ルーカスのインジェクションを持つチェーンドライブという構造で、おおよそ270ps程度のパフォーマンスを得ていた。オイルサンプはドライサンプである。当初の排気量は2リッターだが、最終的には3リッターに拡大された。

アルファロメオにとって、33という番号はかなり特別な思い入れのある番号のようである。このコードネームがデビューしたのは、前述した通り66年に開発が始まり、1967年に登場した、”ペリスコピカ”によってである。元々の開発時点では、シャシーナンバーのはじめ3桁が105であり、105.33とされていた。この105は、ご存じの通りジュリア系にあてがわれたナンバーで、V8エンジンを搭載したペリスコピカが登場した時は、はじめの3桁が750で始まっていた。

今回紹介するのは、33/2スパイダーである。33は特別な思い入れがある番号と書いたが、ご存じの通り、この番号を持ったレーシングカーは、最終的にSC12まで続き、実に10年にわたって作り続けられた。しかも80年代には、それがハッチバックの量産モデルとして登場している。何故レーシングカーだった33の名を、縁もゆかりもないハッチバックモデルにつけたのかは定かではないが、最近も33ストラダーレの名を復活させていることからも、アルファロメオにこの33の名が、ある特別な存在として沁みついているようにも感じられる。

33/2はペリスコピカの後を受けて誕生した、いわばシリーズ2とも呼べるモデルであった。1968年シーズンに20台の33/2が製造され、プライベーターたちにも供給されているのだが、ロッソビアンコ博物館に収蔵されていたスパイダーボディは、特別な1台である。シャシーナンバー750.33.014は、アウトデルタのワークスカーとして、1968年のタルガフローリオに出場したマシンである。このマシンは軽量化されたボディが採用され、ルシアン・ビアンキ/マリオ・カソーニのドライブで、総合3位の成績を収めた。