「あのパスタに500〜600円の価値を感じられない」――。国内に1500店舗近く展開する人気ファミレス「サイゼリヤ」。SNSでネガティブな感想を言うと、炎上してしまうケースが多い。文筆家の御田寺圭さんは「特に、高収入者と思われる人にふだん利用している安価な飲食店をこき下ろされるとおそろしいほどの“怒り”が噴出する。それらは国内の貧富の分断が水面下で拡大していることを示している」という――。
サイゼリヤ 名古屋市中区役所前店(写真=HQA02330/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■インターネットの風物詩「サイゼリヤdisで炎上」

インターネットやSNSにおいて、百発百中で大炎上する話題がある。

政治の話題ではない、サッカーの話題でもない。イタリアンレストランチェーン「サイゼリヤ」の話題である。

ツイッターで「サイゼリヤは美味しいと言われているけど、私は美味しいとは思えない。あのパスタに500〜600円の価値を感じることはできない」――と、あくまで個人的な感想を述べたにすぎない人のもとに、怒れる人びとの非難が殺到し、瞬く間に火柱が上がってしまった出来事が先月にあった。

ツイッターはそもそも、ごくごく個人的な「つぶやきツイート」をする場所だったはずだが、現在はとてもではないが本当の意味で「ツイート」をできなくなっているように感じる。

ツイッターにおける「サイゼリヤ」に対する支持はきわめて篤(あつ)く、もはやその傾向はある種の信仰体系に近くなっているかもしれない。少しでも否定的なコメントをすると、どこからともなく怒れる人びとが集まり、たちまち炎上してしまう。

あくまで主観的な感想を言ったまでで、サイゼリヤを好きな人のことはなんら否定していないのに、そこまで苛烈に糾弾することはないだろう――と個人的には思ってしまうが、しかし一方でこれが大勢の人にとって看過されないのもそれなりに理解できる。

「食べ物の話」は、たとえそれが個人的な好き嫌いの話をしているつもりでも、それはどうしても「好き嫌いの話」のままでは収まりきらない。

――なぜなら、私たちの身体は「食べたものでできている」からだ。

■私たちは、食べたものでできている

たとえそれが個人的な食の好みにもとづく批評であったとしても、自分がとても好んでふだんから食べているものを他のだれかによって否定されて(いるのを目撃して)しまうと、私たちは往々にして自分の身体、自分の感性、もっといえば自分の存在そのものを貶(けな)されたような気分になってしまう。

端的にいえば、「私はそれを美味しいとは思わない」という言葉が「お前の身体は不味いものでできている」という意味合いに変換されてしまうのだ。

上掲の事例でみれば、たとえ文面では「サイゼを食べている奴はどうかしている」「サイゼを美味しいと言っている奴は味覚がおかしい」などとはいっさい書いていなかったとしても、それが言外でははっきり含意されているのと同じくらいの「否定」のニュアンスを受け取ってしまうのだ。

日本では古くから「食べ物には神さまが宿っている」などとよくいわれてきたが、あながち誇大表現ともいえない。食べ物はまさに、自分の命を日々つないでくれている“小さな神”そのものであり、これを貶されることは、まるで自分の半身を、あるいは信仰を穢(けが)されるような感覚にとらわれる。

写真=iStock.com/elkor
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/elkor

「食べ物には神さまが宿っている」と近いニュアンスをもった英語圏のことわざに「You are what you eat」がある。私たちは、食べているものでできている。ふだんから口にしているものが、自分の身体をつくり、健康をつくり、そしてメンタリティーをつくっている。英語圏でもこの考え方は日本と共通している。

よって「サイゼは美味しくない」という文言は、その字面どおり「サイゼは美味しくない」ということではどうしても済まされない。それは相手の肉体的な実存性や精神的バランス、もっといえば信仰の否定にさえなってしまう。そう考えれば「燃える」のは避けられないのかもしれない。

■ではなぜ「サイゼ」はこれほど可燃性が高いのか?

とはいえ、うかつに「不味い」と語った時に巻き起こる怒りの規模では、サイゼリヤが他の飲食店と比べて群を抜いていることは間違いない。

サイゼリヤは、たとえば大手ファストフード店や牛丼チェーンなどと比較しても、圧倒的に「炎上」の可燃性が高い。さながらインターネットの火薬庫である。なぜなのだろうか?

安くて美味しい食べ物をすぐに提供してくれて、お酒もリーズナブルにたくさん飲めて、しかもおひとり様にもやさしい。見知らぬ居酒屋に勇気を出して飛び込むよりも、大企業による完成されたマニュアルとメニューによって接客や料理には一定のクオリティが担保され、満腹感と心地よい酔いを約束してくれる――そんな条件を考えたとき、サイゼリヤ以上にふさわしい店はおそらくほとんどない。

関東圏と近畿圏の人口が集中している都心部を主として展開していることもあり、都会で働く大勢の人びとにサイゼリヤはひろく支持を集めている「小さな神様」なのである。

サイゼリヤ 金山駅北店(写真=HQA02330/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

多くの信徒を抱えている神さまだからこそ、冒涜されたときに生じる怒りの声も大きくなるのは当然だ。

しかしながら、私が10代のころを思いかえしてみると、最寄り駅にもサイゼリヤがあったのだが、その当時は「放課後に中高生のたむろする場所」というイメージがもっぱらだった(読者の皆さんもそのようなイメージを持っているかもしれない)。実際に店を見渡してもそのほとんどが10代の若者だった記憶がある。

ところが近年では、ずいぶんと年齢層の高い利用客に好まれるようになっている。SNSで「サイゼをネガティブに評した人」が激しい非難を集めて炎上しているときに観察してみても、怒っている人は主として30代〜40代の人が多い。それこそ、10年20年前にサイゼリヤに好んで通っていた若者たちが、そのまま大人になっていったかのように。

――これはある意味で日本社会の「停滞」のリアルを象徴しているだろう。

30代40代になったからといって、「年齢相応な大人の雰囲気のある店」で食事や酒を楽しもうとしたら、当然ながらそれなりにお金がかかってしまう。いま日本では、働き盛りの30代であっても平均年収は400万円程度であり、かれらが「大人」な店でサイゼリヤくらいにお腹いっぱいになって気持ちよく酔おうとしたら、とてもではないが手持ちが足りなくなってしまう。

私たちが想像している以上にこの国の貧しさは加速している。このような社会経済状況を背景として、誇張でなくサイゼリヤはいまや「中高生の青春時代の思い出の店」ではなく「大人が安心して飲み食いできる定番の場所」になっているのである。

■SNSで可視化される「キラキラ格差」と分断

特筆するべきは、サイゼリヤへの否定的言説が激しい炎上の種火となるときとそうでないときにも一定の差があることだ。その差は「だれがそれを言ったか」によって生じている。とりわけ激しい火柱を上げるのは多くの場合、その発言者が「サイゼリヤを行くことはめったにないくらい豊かできらびやかな生活を送る人」であるときだ。

サイゼリヤをふだん行くこともなく、もっと上質で美味しい料理を口にしている人びとは、サイゼリヤでいつもリーズナブルでお腹いっぱいになって酔うことを楽しみにしている人の姿を具体的に想像できなくなっている。そのせいで、本人はとくに悪気はないのだが「サイゼを美味しいと思う人とは味覚が合わない」と素朴に語ってしまい、毎回大炎上する。

SNSを覗けば、社会全体からすればごく僅(わず)かにしかいないはずの高所得者たちが、日々きらびやかな生活を送り、豪華で美味しそうな料理を食べて過ごしている様子がたくさん可視化されている。

食生活を含め、一人ひとりの暮らしが不特定多数に公開されシェアされるSNS時代に「自分の身体は、食べたものでできている」という古くからの言い伝えがそこに重なると、社会の水面下で深刻な憎悪や分断を生み出してしまう。

だとしたら、高級で上質なものを食べている人間は「すばらしい人間」で、そうでない自分は「劣等な人間」ということになってしまうじゃないか――と。

サイゼリヤ」に中高生ではなく働き盛りの世代から多くの支持が集まっていること、そして「サイゼリヤdis」をはじめとする「ふだん利用している安価な飲食店を(富裕層に)こき下ろされること」に毎度毎度おそろしいほどの“怒り”が噴出すること――それらはこの国の貧しさと格差、そして分断が水面下で拡大していることを暗に示している。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)