【国際プロレス伝】ラッシャー木村、「金網デスマッチの鬼」と呼ばれた男
【第6回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」
力道山を彷彿とさせる黒タイツ姿で「金網デスマッチの鬼」と呼ばれ、長きにわたって国際プロレスのエースとして君臨。「国際軍団」「国際血盟団」でも大将として活躍したラッシャー木村は、最後まで国際プロレスの看板を守り抜いた。新日本プロレスに乗り込んだ「田園コロシアム事件」は、ビートたけしによって「こんばんは、ラッシャー木村です」とギャグにされると、一気にプロレスファン以外にも大ブレイク。朴訥(ぼくとつ)としたマイク・パフォーマンスで人気を集めた男の素顔に迫る――。
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現役時代のラッシャー木村国際プロレスのエース・ラッシャー木村(1)
4人兄弟の末っ子として北海道で生まれた「ラッシャー木村」こと木村政雄は、地元の北海道天塩(てしお)高校を中退したのち、大相撲・宮城野部屋へ入門した。角界入りしたのは、本人いわく、「相撲好きの兄と部屋の稽古を見に行ったら、親方(第43代横綱・吉葉山)に、『いい身体しているな』と言われ、ちゃんこをご馳走になった手前、断れなくなった」からだという。
そして1958年3月、「木ノ村(きのむら)」の四股名で初土俵を踏むと、幕下20枚目まで一気に昇進。ところが1964年、9月場所かぎりで廃業した。そのときの理由は、「プロレスラーになるための基礎体力づくりとして相撲をやってきたが、十両になったら辞められなくなるから」。入門時と同様、まじめで一途な木村らしさを感じさせるエピソードだ。アニマル浜口はこう語る。
「木村さんは角界から来たでしょ。(相撲界では)かなり期待されていた若手で、あのままやっていたら、十両や幕内はもちろん、三役、その上まで行ったかもしれなかったそうです。
相撲で鍛えられているから、とにかく頑丈でした。身体の強さはケタ外れで、国際プロレスで文句なくナンバー1だったんじゃないですか。メチャクチャ強くて、特に顔なんかすごかったですよ。こっちがどんなに力いっぱい顔を叩いても、張っても、ビクともしない。それどころか、しまいにはこっちの手がしびれあがって、真っ赤に腫れたものです。もちろん、相撲時代に四股やすり足をしっかりやっているから、下半身も安定していました」
大相撲廃業から1ヵ月後の1964年10月に日本プロレス入りを果たした木村は、翌年4月、東京・渋谷のプロレス会場「リキ・スポーツパレス」にて高崎山猿吉(たかさきやま・さるきち)戦でデビューを果たした。だが、大相撲の先輩である豊登(とよのぼり)の付き人をしていたことから、1966年には豊登による東京プロレス旗揚げに参加。翌年、東京プロレスが崩壊すると吉原功(よしはら・いさお)に誘われ、国際プロレスに移籍した。ちなみに、リングネームを「ラッシャー木村」へと変更したのは、国際プロレスに移ってからである。
1970年10月8日、国際プロレスは大阪府立体育館にて「日本初の金網デスマッチ」を行なったが、リングに上がったのはラッシャー木村だった。対戦相手はドクター・デス。反則攻撃OK、ノックアウトまたはギブアップでの決着。ノックアウトの場合、相手をピンフォールして3カウントを奪取後、タイムキーパーがカウントを30秒読み上げ、その後改めてレフェリーが10カウントを数えて相手がノックダウン状態のまま立ち上がれなければ勝ちとなるルール。木村は17分22秒、ノックアウト勝ちを飾った。
すると2ヵ月後の12月12日、オックス・ベーカー戦でも金網デスマッチを挙行。この試合、東京・浅草の浅草寺から歩いてすぐの隅田川沿いにあった台東体育館で行なわれたことが、アニマル浜口のその後の人生を決めることになった。
「台東体育館というのは、ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんがデビューし、国際プロレスも旗揚げ興行を行なった”プロレスの聖地”です。今、僕が住んでいる自宅からも、アニマル浜口トレーニングジムからも走って5分ほど。老朽化して30年以上も前に取り壊されましたが、そのあとにできた台東リバーサイドスポーツセンターの陸上競技場で、娘の京子とよくサーキットトレーニングをしました。
あれは、京子が初めてレスリングの世界チャンピオンになった1997年の夏。世界選手権が行なわれるフランスへ出発する前日、いつもどおりあそこでトレーニングをしていました。猛烈な暑さでね、トラックの上は気温40度を超していたでしょう。
『この暑さのなかでのトレーニングに耐えれば、フランスでは楽に戦える』。1000m走を2本、400m走を2本、100m走を10本、さらに最後は僕も一緒に30分の息上げサーキットをやりました。終わったときは、ふたりともフィールドにバッタリ倒れましたが、爽快な気持ちでしたね。太陽がじりじりと照りつけていましたけど、そうしたら、真っ青な空にひと筋の雲が流れてきたんです。
『京子、あの雲、稲穂に見えやしないか?』
『ホントだね』
『京子、何て縁起がいいんだろうな。稲穂は実る! お前は必ず世界チャンピオンになれるぞ』
『お父さん、私、やり残したことはない。この空みたいに晴れわたった気持ちでがんばる』
京子はそう言って、チャンピオンになったんです。……また、アニマル浜口得意の”脱線”でした。そうそう、木村さんのオックス・ベーカー戦ね。
あの日、僕は寺西勇さんと組んで、アクセル・デイターとレス・ソントンとのタッグマッチでした。僕が決勝フォールを奪って勝ったんですが、サンダー杉山さんとグレート草津さんもボブ・ウィンダム&ラリー・ヘニング組を破ってIWA世界タッグチャンピオンになられた。それで、木村さんが金網デスマッチ。
結果は木村さんのノックアウト勝ちでしたが、試合中に左足を複雑骨折してしまってね。それでも、最後まで戦い続けて。試合後、僕と寺西さんが肩を貸してリングから控え室へ戻ったんですが、そこで力尽きて倒れた。すぐに病院へ運ばれて手術して、そのまま入院。それが浅草の病院でした。
僕たち若手は、木村さんの身の周りのお世話をしに交代で行くわけですよ。1970年に青山から移った渋谷の合宿所からね。ある日、清美川梅之(きよみがわ・うめゆき)さん――大相撲の伊勢ケ浜部屋からプロレス界に入られた方で、あの大横綱・双葉山から金星を挙げたことがあり、プロレスではヨーロッパを中心に活躍されたのかな――その人が、『これ、持ってけ』と、一升瓶を渡すわけですよ。
当時はそんな感じでしたね、おおらかというか、なんというか。木村さんも足をケガしているけど、内臓はヘッチャラだったし。ところが、病室で呑み始めたら僕が酔っぱらっちゃって。こともあろうに、木村さんのベッドで寝ちゃったんです、大イビキをかいて。『ハマ、コノヤロー』って、さすがにそのときは怒られましたよ。
それから何日かして、僕がまたお見舞いに行ったら、木村さんが『ハマ、メシ食いに行こう』と。松葉杖ついて病院を抜け出し、タクシーでワンメーターほど行った田原町の小料理屋の前で降りたんです。木村さんが『席が空いているかどうか、ちょっと見てこい』と言うもんだから、僕が戸を開けて店内をのぞいたら、そこに今の女房がいたというわけです。母親とやっていて、『香寿美(かすみ)』という店でした。
女房はそのとき、『怖い顔をした若者がのぞいていたからドキッとした』けど、すぐにお馴染みの木村さんが顔を出したから店に入れてくれました。カウンターのなかで、真っ白な割烹着姿でテキパキ働きく看板娘に”ひと目惚れ”ですよ。ビビッときたねぇ。
それからはもう、先輩たちには『木村さんの見舞いに行ってきま〜す』なんて言って道場を出て、彼女の店にまっしぐら。木村さんのことなんか、ほったらかしです。銀座線で渋谷から田原町まで毎晩通いました。それで付き合うようになったので、木村さんは僕たちの恋のキューピッド、恩人です。あと、オックス・ベーカーもね。元はといえば、あの男が木村さんの骨を折ってくれたからなんだから。”オックス”だなんて、牛みたいな名前でゴツくて強かったけど」
(つづく)
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