滋賀県の面積の約6分の1を占める、日本最大の古代湖・琵琶湖。その最北部に、昭和46年まで道路らしい道路が通じていなかった“陸の孤島”とも呼べる小さな集落「菅浦」がある。険しい山と湖に挟まれたわずかな平地に家々が並ぶこの村には、敵の侵入を防ぐための「四足門」や、突如現れる大量のプレハブ工場など、周囲ののどかな風景とは不釣り合いなミステリアスな痕跡が残されていた……。長年、外部と隔絶されてきた集落の謎に迫る。

【画像】 一見のどかな雰囲気だが… 現地を訪れてわかった“知られざる町の歴史”とは… 琵琶湖最北部の集落・菅浦のリアルを写真で一気に見る

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琵琶湖と険しい山に囲まれたナゾの集落“菅浦”

 滋賀県の約6分の1を占める琵琶湖は、言わずと知れた日本最大の湖だ。約400万年前に現在の三重県伊賀市付近にできた湖が形を変えながら移動し、琵琶湖になった。湖は通常、1万年前後で消滅してしまう。10万年以上の歴史があり、固有種による豊かな生態系がみられる湖は、古代湖と呼ばれる。日本では琵琶湖が唯一の古代湖であり、世界でも20ほどしか存在しない。

 そんな琵琶湖の最北部に、菅浦という小さな集落がある。琵琶湖と険しい山に囲まれたわずかな平地に家々が並ぶ静かな集落だ。菅浦の歴史は深く、縄文時代から人が暮らしていたとされている。昭和46年に奥琵琶湖パークウェイが開通するまでの間、道路らしい道路が通じていなかった。

 陸の孤島だった集落では、古くから高度な自治を行う“惣村”(注:主に農民が自衛や生活防衛のため結成した自治的な共同組織)が形成され、村のことは村で解決してきた。もめ事の解決はもちろん、今でいう警察や裁判所の役割も村人たちが担ってきた。

集落の入口には境界を示す茅葺きの小さな門が…

 菅浦は、滋賀県長浜市西浅井町に位置する。菅浦にアクセスする奥琵琶湖パークウェイは、開通当初は有料道路だったが、現在は無料開放されている。菅浦よりも東側は一方通行になっているため、西側からしか菅浦に入ることができない。

 隣町の大浦を過ぎ、琵琶湖に沿って走っていると、菅浦集落が見えてきた。遠目に眺めるだけで、陸の孤島だった立地がよく分かる。琵琶湖に面したこぢんまりとした集落の背後には、急峻な山が迫っている。

 集落の入口に、茅葺きの小さな門が建っていた。これは四足門といい、集落の境界を示す物。かつては村の入口4箇所に設置され、人の出入りを厳しくチェックしていた。現在は東西2つの四足門が残っている。


菅浦集落の入口にある西の四足門

 四足門は4つの柱で建っているが、よく見ると門の重心が中心ではないことが分かる。

 そして、大きな石が重しとして置かれ、門を支えている。これは有事の際、石をどければ門が倒れ、敵の侵入を防ぐことができる構造だ。のどかな集落に、なぜこんな物騒なものがあるのかと思ったが、それは後ほど明らかになる――。

歴史を感じさせる家屋が並ぶ

 四足門を過ぎると、いよいよ菅浦集落だ。直進し、琵琶湖沿いの道を進む。すると、道から琵琶湖へ下りてゆく階段が等間隔に設けられていた。階段は途中から水没している。これは、住人たちが琵琶湖で野菜を洗ったり洗濯をするために設けられたものだ。その後、下水が整備されたため、現在はほとんど使われていないという。

 また、琵琶湖近くの家には、例外なく立派な石積みが築かれている。これだけ大きな湖だと、天候次第で高波も発生する。高波から家を守るための石積みだった。

 中世から現代に至るまで、菅浦にはずっと100戸前後の暮らしがあったが、近年過疎化が急激に進み、半分の50戸ほどになってしまった。空き家も目立つが、それなりに手入れされている様子がうかがえる。

 歴史の深い集落だけに、年月を重ねてきた家屋が多い。

 茅葺きの上からトタンを被せた屋根や、立派な土蔵、破風に書かれた水の文字、外に飛び出している梁など、見ていて飽きない。また、歩いている間に何軒もの神社とお寺があり、戸数に対して非常に多い印象を受けた。

“第○○作業場”と書かれた同型のプレハブ小屋が点在

 集落の山側にも歩いていくと、あちらこちらに同型のプレハブ小屋があるのが気になった。建物には“第○○作業場”の文字がある。これは、“ヤンマー菅浦農村家庭工場”というものらしく、案内板も立てられていた。ヤンマーディーゼル(当時)の創業者・山岡孫吉氏が、「農家の隣に工場があれば通勤時間ゼロで農業の合間に副業として工場で働くことができる」という発想から、昭和35年、菅浦に20の下請け工場を建設した。山岡氏は長浜出身で、菅浦にはこれといった産業がなかったことから、地域に産業をもたらしたいという意図もあったのかもしれない。

 農村家庭工場では、農家の人たちが個人事業主としてエンジン部品などを製造していた。個人事業主の土地をヤンマーが借り受けてプレハブ小屋と工作機械を置き、電気代もヤンマーが支払っていた。現在、第1から第20の作業場はほぼ使われておらず、1箇所に集約して稼働している。なお、使われなくなった作業場についても、地主から申し出がない限り解体せず、ヤンマーが地代を支払い続けているという。

 楽しみながら歩いている間に、集落の反対側まで到達した。こちらには東の四足門が建っている。西の四足門よりも年季が入っているように見えたが、それもそのはず、文政11年(1828年)に再建されたものだ。

 ここで引き返そうと思ったが、“近江湖の辺の道”という道しるべが目に入った。琵琶湖を周遊する遊歩道だが、さらに奥の方向にも矢印が書かれている。

“近江湖の辺の道”という道しるべを進むと…

「え? そっちに道あるの?」と思ったが、とりあえず進んでみると、確かに道があった。

 現役の道なのか怪しい道だったが、歩いた先に畑があり、なんと人がいた。せっかくなので、話を聞いてみた。ずっと菅浦で暮らしてきたという古老に昔のことを聞くと、懐かしそうに話してくれた。

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 しかし、こののどかな集落に秘められた真の歴史は、古老の穏やかな笑顔からは想像もつかないほど“過酷で血みどろ”なものだったのだ--。

「私が小さい頃は、道路はなかったですよ」と古老は語った…数十人が亡くなった隣村との血みどろの争い、侵入者は捕らえて罰を与えていた集落の“長老衆”に尋ねてわかった“琵琶湖最北部の村”の現在〉へ続く

(鹿取 茂雄)