織田信長の建てた安土城(滋賀県近江八幡市)は、本能寺の変後に中枢部が焼失したものの、石垣や建物の礎石は残り、往時の姿を偲ばせる。現在、その史跡に異変が起きている。現地を訪れた歴史評論家の香原斗志さんは「整備ができておらず、破壊が進んでいる」という――。
狩野元秀画、織田信長像 賛・跋。原本は愛知県西加茂郡挙母町長興寺所蔵(写真=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■信長の権威と権力を誇示する装置

令和8年(2026)は織田信長が安土城を築きはじめて450年の節目の年である。天正4年(1576)1月、琵琶湖東岸の内湖に突き出した近江(滋賀県)の安土山(近江八幡市)で築城が開始された。

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では第19回「過去からの刺客」(5月17日放送)に、織田信長(小栗旬)の「新しい景色が見とうなった。安土に移る」というセリフがあった。家督は嫡男の信忠(古関裕太)に譲る、と重臣たちの前で発表したのちに、そのセリフがとび出した。

それは、家督を嫡男に譲って自分は天下一統に専念し、そのための拠点として安土に城を築く、という宣言だった。太田牛一の『信長公記』には次のように記されている。

〈一月中旬から近江の安土山に築城を開始するよう、丹羽長秀に命じた。二月二十三日、信長は安土城に移った。(中略)四月一日から、安土山の大石で、城の敷地内に石垣を築きはじめた。そのなかに天守閣を建築するようにとの命令であった。尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭、畿内の諸侍、および京都・奈良・境の大工や諸職人を召集し、安土に詰めさせ、また、瓦焼き職人の唐人一観を召し出した。天守閣は唐様に仕上げるように命じた〉(中川太古訳)

途方もない大工事がはじまったのが伝わる。信長はみずからの権威と権力を内外に誇示する装置として、安土城を築いたのである。その象徴として、5重7階の天主にはとりわけ力を入れた。「豊臣兄弟!」では、第25回「変事の予兆」(6月28日放送)で、いよいよ城は完成する。

■現在の安土城はかなり危うい状況

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは安土城の天主について、『日本史』にこう書く。

〈彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。(中略)この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている〉(松田毅一・川崎桃太訳)

天主を含む安土城の中枢部は残念ながら、本能寺の変から13日後の天正10年(1582)6月15日に焼失してしまった。空前の絢爛豪華な城はわずか6年で失われた。このため現在にいたるまで、幻の城として歴史ファンのロマンをかき立てている。

岩崎品山筆「安土城図」。大阪城天守閣所蔵(写真=DASH/Harvard Library/PD-Japan/Wikimedia Commons)

だが、羽柴秀吉の大坂城のように石垣もろとも埋められてしまったわけではない。崩れたり手が加えられたりはしても、石垣や建物の礎石などはよく残っている。私たちも子々孫々も信長の城を実感できるように、せめてそれらを整備してほしいと願うが、現状、かなり危うい状態にあるのである。

■石垣の上に樹木が茂り放題

平成元年(1989)からの発掘調査で、安土山の南山麓から山上へと約130メートルにわたり真っすぐに延びる大手道が発掘され、幅6メートルの通路と両側にもうけられた幅1メートルほどの側溝が整備されている。この大手道が登城路だが、両側に階段状に配置されている重臣たちの屋敷跡は、必ずしも整備されていない。

大手道を登りはじめてすぐ左の「伝羽柴秀吉邸」は、発掘で検出した礎石なども見えるように整備され、樹木も伐採されている。だが、向かいの「伝前田利家邸」は、現状は樹木が生い茂り放題になっている。

だた、この辺りは安土城の中枢ではない。中枢部分では「信長の夢の跡」がわかりやすく示されているのだろうか。そこは、大手道を登り切ってから幾重にも折れる石段を登ったところにある「伝黒金門」から先だ。

伝黒金門は中枢部の正門だから、訪れた人を威圧するように多くの巨石が積まれ、また、ここから内側は外側にくらべて全体に石垣の築石が大きい。それだけ重要なエリアだった証だが、残念なことに、伝黒金門の石垣上は樹木が茂るにまかされている。

かつて櫓門が建っていた石垣上が、まったく整備されていないのだ。樹木の根は成長するほど石垣内に侵食して圧力をかけるので、心配になる。

■どうして、もっと大切にしようとしないのか

だが、伝黒金門を通り抜けた先の、伝黒金門の石垣とともに虎口を形成する「伝二の丸」の石垣はもっとひどい。石垣上には木が森のように繁茂し、築石のあいだからも木がたくさん生え、根を張っている。早く除去しないと、根のせいで石垣が変形し、最悪の場合、崩落へとつながる。

その先の「本丸西虎口」などはさらに荒れている、通路際の石垣はまだいいが、そこから東方向に延びる石垣は、ジャングルのような樹木で完全に覆われ、見えている部分も草や灌木が生い茂っている。

天守台も同様だ。上部がかなり崩れているのは仕方ないとしても、笹や草や灌木が生え放題だ。前述した華麗な天守が建っていた石垣である。それをどうして、もっと大切にしようとしないのか。

また「伝本丸」には、信長の御座所のものと思われる礎石が並ぶが、「伝本丸」全体が樹林状態で、木の根で礎石が持ち上がり、一部は割れてしまっている。東側の石垣で一段高くなった「伝三の丸」は、信長の会所(接客所)だったと考えられているが、ここに至っては荒れるにまかされた樹林である。

■「史跡の国宝」は荒れ放題なのか

「伝本丸」には先ほど通り抜けた西虎口のほか、「本丸南虎口」「本丸東虎口」「本丸北虎口」があるが、いずれも奥へは進めない。進入が禁止されているだけでなく、その先は荒れ放題なのである。

そのなかでも天守台の北側の本丸北虎口は、以前は石垣等が整備され、直下の「伝搦手門」の方面まで歩いていけたが、現在は進入禁止で、進入したところで、荒れていて歩くこともできない。

中枢部にしてこうなのだから、ほかのエリアが相当に傷んでいるのはいうまでもない。

安土城は国の特別史跡に指定されている。史跡と特別史跡の関係は、重要文化財と国宝の関係と同じである。2026年5月現在、国指定史跡は全国に1923あるが、特別史跡は66にすぎない。つまり、とくに価値が高い重要文化財が国宝に指定されるのと同様に、とくに重要な史跡が特別史跡とされる。「史跡の国宝」といわれるが、正しい表現である。

時代を画した織田信長の野望と夢の跡で、国がそれほどのお墨付きをあたえているのに、なぜこれほど荒れた状態なのだろうか。

■全国的に山城の整備は進んでいるのに

近年、山上にありながら整備が進んでいる城は少なくない。たとえば津和野城(島根県津和野町)は、石垣上もその周囲も、多くの樹木が伐採され、灌木や草も除去されている。だから山麓からも石垣を望むことができ、城跡は歩きやすく、構造を把握してかつての雄姿を想像しやすい。樹木の侵食から石垣が守られていることはいうまでもない。

「天空の城」として有名な竹田城(兵庫県朝来市)、樹木の伐採が津和野城よりさらに進んでいる。そもそも山上の樹木が除去されて石垣がむき出しになっていたから、雲海に浮かぶ姿が注目されたのだ。

竹田城跡(写真=Wae35244/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

安土城も現役のころは、すべての石垣上に建物が並び、樹木はかなり少なかったはずだ。それに信長は、大手道の正面に天守がそびえ立つように景観を構築するなど、見え方を強く意識していた。安土城は信長の権威と権力を示す「見せるための」城でもあったのだ。

そのことを考えても、草木を除去して石垣を露出させ、石垣の「見える化」を進めていくことが、信長のねらいを顕在化させつつ、訪れた人の満足度を高め、史跡の保存にも利するはずである。どうしてそれをしないのか。

■城址の所有者に問い合わせてみると…

安土城跡は現在、滋賀県が管理団体ではあるが、宗教法人総見寺の私有地である。この寺は信長が築城と同時に、みずからの菩提寺として城内に築き、安土城が廃城になったのちも信長の菩提寺として存続してきた。

そうであるなら、信長が築いたこの記念碑的な城郭にもっと整備を行き届かせ、より魅力的に見せ、歩ける範囲を広げ、同時に遺構の保存を図っていってほしいと願う。

安土城跡では令和5年(2013)度から「令和の大調査」と銘打った発掘調査が、滋賀県を主体に進められている。県は「特別史跡安土城跡整備基本計画」も立てている。ところが城跡の所有者である総見寺が、調査や整備にあまり積極的ではない、という声が聞こえてくる。

総見寺に聞くと、次のような回答だった。

「国の特別史跡なので勝手なことはできません。安土城址は寺の所有地ではありますが、柱1本立てるにも国、県の許可を得る必要があります。整備しないといけないとは思っていますが、国の許可が要り、簡単なことではありません」

■整備を急がないと破壊が進む

一方、滋賀県からは、観光文化スポーツ部文化財保護課長名で以下の回答があった。

「滋賀県は安土城跡の管理団体として、昭和15、16年に天主・本丸跡の調査、整備を実施したのを皮切りに、昭和35年〜50年に主郭部の石垣修理、平成元〜20年に、大手周辺や山復部など主郭部以外も含めた調査整備事業を実施してきました。このように長期計画を立て、安土城跡の調査と保存、整備に継続して取り組んでおり、現在は令和4年度に策定した『特別史跡安土城跡整備基本計画』に基づき、20年計画で新たな調査整備事業を実施しています。

安土城跡は特別史跡として保護されており、調査整備にあたっては史跡の価値と環境を損なわないよう、慎重に事業を進める必要があります。貴重な文化遺産である安土城跡を将来にわたって守り伝え、その価値や魅力を広く発信するため、所有者と覚書を結び、調査整備事業を実施しているところで、今後とも永く保存と活用に取り組むこととしています」

だが、すでに述べたように、いま安土城跡は「特別史跡として保護されている」というよりも、「特別史跡なのに保護されていない」と表現したほうが正確な状況にある。手足が縛られたような状態で「整備基本計画」を進めるあいだに、破壊が進んでいくようで、筆者はいたたまれない。

写真=共同通信社
意図的に崩されている可能性があると発表された天主台東面の石垣=2024年1月12日午前、滋賀県の安土城跡 - 写真=共同通信社

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)