不合理な選択をする「ヒューマン」のために 政府はいかに「ナッジ」すべきか? 行動科学の政策活用の考察 【橘玲の日々刻々】
伝統的な経済学は、つねに経済合理的な選択・行動をする「エコン(合理的経済人)」を前提に壮大な理論の塔を積み上げてきたが、心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーは多彩な心理実験によってこの前提が成り立たないことを証明した。わたしたちはエコンではなく、ときに(あるいは非常にしばしば)不合理な選択・行動をする「ヒューマン」なのだ。
これが「行動経済学」の誕生で、次いで経済学者のリチャード・セイラーと法学者のキャス・サンスティーンが、これを政策に応用して「ナッジ(NUDGE)」という新しい概念を提唱した。Nudgeは「そっと肘で突く」という意味で、市民が無意識の不合理性(限定合理性)によって自分に不利な選択・行動をしているのなら、政府はそれをより合理的な(本人の利益になる)選択へとナッジすべきだと唱え、その後の政策論に大きな影響を与えた。
セイラーとサンスティーンは、ナッジを「リバタリアン・パターナリズム」だとする。政府が市民を“正しい”方向に導くのはパターナリズム(保護者的態度)だが、市民にはナッジを拒否する選択肢がつねに与えられており、自由主義者(リバタリアン)の立場を侵害するわけではない(とされる)。そのためこれは、「おせっかいな自由主義」とも呼ばれている。
ナッジの典型が、学校のカフェテリア(ブッフェ)における料理の並べ方だ。
生徒たちにフライドポテトやコーラのような高脂質・低栄養のファストフードではなく、野菜や鳥胸肉など低脂質で栄養バランスのとれた食品を食べさせたいと思えば、真っ先に思いつくのはファストフードをすべて撤去することだろう。
だがこの方法は、ファストフードを食べたい生徒の自由を侵害しているし、そのような生徒はカフェテリアではなく校外のファストフード店に行くだろうから、さしたる効果は期待できない。それに対して、栄養価の高い食品を手前の取りやすい場所に、栄養価の低い食品を奥の取りにくい場所に配置すれば、このナッジによって、多くの生徒がファストフードに手を伸ばさなくなる。
行動経済学(行動科学)を政策に応用するというのは、このカフェテリアの実験をさまざまなところでより大規模に展開することをいう。
政府(国家)によるナッジはわたしたちの生活に大きな影響を及ぼすので、自由意志を尊重する哲学者などから強い批判を受けてきた。キャス・サンスティーンの『ナッジで、人を動かす 行動経済学の時代に政策はどうあるべきか』(NTT出版)は、そうした批判にこたえるべく書かれた「ナッジ論」の集大成だ。原題は“The Ethics of Influence: Government in the Age of Behavioral Science(影響力の倫理 行動科学の時代の政府)”。
イギリスではキャメロン政権が「行動インサイトチーム(BIT)」を設立
サンスティーンはデール・カーネギーのロングセラー『人を動かす』と、ロバート・チャルディーニのベストセラー『影響力の武器 なぜ、人は動かされるのか』を「影響力(influence)」についての先行する著作として挙げる。こうした知見が過去40年のあいだ、心理学者や経済学者の実験・研究の積み重ねによって精緻化され、「ひとが互いにどのように影響を及ぼし合うか」について多くのことがわかってきた。これが行動科学(Behavioral Science)だ。
サンスティーンは、冒頭で本書のテーマをこう述べている。
民間企業は行動科学のリサーチを利用して、人々の考え方を学び、それを利用して儲けようと思っている。慈善団体は、行動科学者に相談して、慈善家を見つけ出し、寄付金を増やそうとする。政治家や官僚らもそれぞれの立場から、行動科学に関心を寄せている。様々な方法で人々に影響を及ぼして、貧困撲滅、雇用増大、大気浄化、健康増進、投票率向上、高速道路での安全強化など、多様な目的を達成しようとしている。そうした行動に対して、倫理的な観点からはどのような制限があるだろうか。
わたしたちは「行動科学」の時代に生きており、そこから逃れることはできない。これが、ナッジを考えるうえでの前提になる。
だとすれば、科学のちからで大きな「影響力」を手にした政府は、なによりも市民に対して倫理的でなければならないはずだ。サンスティーンは、「倫理的な国家」は?「福利」(ウェルフェア)、?「自律」(オートノミー)、?「尊厳」(ディグニティ)、?「自治」(セルフフガバメント)の4つの価値を大事にしなければならないとする。
国民の「福利」を重視するなら、政府は市民が“良き人生”を送る可能性を高める努力をすべきだ。倫理的な国家は国民がそれぞれの道を歩むことを認め、個人の「自律」を尊重しなければならない。「尊厳」を大事に思うのなら、国家は敬意を持って市民に接するべきである。市民が「自治」を実現できるように、自分たちの指導者をコントロールできる権限を国家は保証しなくてはならない――というわけだ。
アメリカでは2010年に「消費者金融保護局(CFPB)」が創設され、行動科学を用いて金融市場で消費者を保護することに努めている。2014年にはオバマ政権が、サンスティーン本人を迎え入れて「大統領付き社会科学および行動科学チーム(SBST)」を結成し、行動科学の知見を活用しようとした。
2010年、イギリスではキャメロン政権が「行動インサイト(洞察)チーム(BIT)」を設立、人間の心理を政策決定に反映させることを明確に意図した部署をはじめて設立した国になった。
BITを率いたのは行動科学の専門家デイヴィッド・ハルパーンで、自分たちのアプローチを「EAST」という言葉で表わした。「Easy(簡単に)」「Attractive(魅力的な)」「Social(社会的な)」「Timely(時宜にかなった)」で、行動科学の知見を用いて禁煙促進、エネルギー効率の向上、臓器提供、消費者保護、納税義務遵守などさまざまな分野でイニシアティブを発揮した。
BITの成果としては、とりわけ以下の3つがよく知られている。
・臓器提供者リストへの登録を訴えるメッセージを送った結果、1年で登録者数が10万人以上増加した。
・年金プランを自動加入にしたことで、大企業の従業員の貯蓄率が61%から83%に上昇した。
・行動科学に基づいた督促状(あなたがお住まいの地域では、すでに10人のうち9人は納税済みです)によって、税金滞納者の納税率が5ポイント上昇した。
2014年、BITは内閣府を離れて一部民間との共同機関となり「社会的目標企業(social purpose company)」を自称、コロナ禍でも積極的にジョンソン首相に助言したと報じられた。
