【山口組分裂「10年抗争」秘録】導火線となった九州抗争 78歳のヒットマンによる“ランボーさながら”の大暴れから始まった
2015年に始まる山口組分裂抗争の導火線は、意外にも九州だった。そこで燃え上がった派手な火花が、神戸に飛び火していったのだ。誰よりも間近で抗争を見てきたライター、鈴木智彦氏が総括する。【第2回。前後編の前編】
【写真】周囲もピリピリ 5年4か月の服役を終え、府中刑務所から出所した山口組の司忍六代目組長
後期高齢者のヒットマンが"ランボーさながら"に大暴れ
六代目山口組・司忍組長が府中刑務所を出所した2011年、九州では道仁会(本部は福岡県久留米市)の分裂抗争が再燃していた。
「(山口組を解散すると)抗争事件が続発している九州のようになるのは間違いない」
出所後、産経新聞のインタビューに応じた六代目が"続発"という言葉を使ったように、道仁会離脱派が結成した九州誠道会(現・浪川会。本部は同県大牟田市)との抗争は苛烈で、双方、数多くの関係者が殺されている。約7年にわたるこの抗争は、山口組内部に潜む不満分子に大きな影響を与えた。抗争終結から2年後、山口組はまるで道仁会の軌跡をトレースするように分裂した。
司組長が出所する4月9日の前後、筑後一帯の空気は極めて剣呑だった。出所の1週間前に当たる4月2日、大牟田市の歓楽街で喧嘩が発生し、仲裁に入った誠道会の若い幹部が刺殺された。3日後の4月5日には、佐賀県伊万里市にある山元記念病院の駐車場で誠道会幹部が射殺される。
翌6日、2日に起きた誠道会幹部刺殺事件の犯人たちが手榴弾を投擲して誠道会本部の爆破を計画、車内で手榴弾を誤爆させて2人が爆死した。犯人は地元の元・村上一家(誠道会の最大派閥)組員で、車内からは拳銃や手榴弾が発見された。
「鈴木さん、どこにおると?」
伊万里市の射殺事件の取材をしていたら、旧知の幹部から電話が入った。
「白か車に手榴弾で爆発させて燃えとっばい! 凄か写真ば撮らんばとでしょう! すぐ行かんですかっ!」
「え、マジですか? どこですか?」
「上官町(かつて誠道会の本部があった)ってさ! さっきまでおったとでしょ! すぐ近くの信号って。はよせんね。間に合わんよ!」
本部にはほんの1時間前に顔を出していた。わずかの時間差で決定的瞬間を撮影できなかった運のなさを嘆いた。すぐに本部へ戻ったが火は消えていた。規制線をくぐって車に近付こうとしたら、警察官に「入んな! 下がれ! 爆発物のあるかもしれん!」と怒鳴られた。
望遠レンズの付いたカメラで覗くと、白いホンダのRV車は窓やガラスのサンルーフなどすべてが吹き飛んでおり、徹底的に破壊されていた。近くには爆発物処理班なのか分厚い防護服を来た警察官が立っている。
当時使っていたキヤノンのデジカメはEOS Kissという入門機で、望遠レンズで手持ちの夜間撮影はできなかった。あまりに悔しかったので、帰京後、60回ローンでフルサイズの最新一眼レフと明るいレンズを購入した。
伊万里市で殺害された幹部の葬儀は司組長の出所前日だった。こちらの犯人は道仁会の組員で、無期懲役が確定している。長崎県大村市の葬儀会場には、現・山健組のトップの中田浩司組長や、絆會・織田絆誠会長らが参列していた。
私は葬儀を撮影してすぐ帰京、前号で書いた通り、翌日、府中から出所する司組長をバイクで追跡したのだ。東日本大震災による原発事故でヤクザ取材どころではないのに、暴力団社会は立て続けにメルトダウンしていた。
産経新聞に司組長のインタビューが掲載される1か月ほど前にも派手な事件が起きている。拳銃2丁とマシンガンを抱え、手榴弾を持った78歳のヒットマンが、道仁会・小林哲治会長(当時)の自宅に押し込み、ランボーさながらに暴れたのだ。
侵入の様子を防犯カメラ映像で見ていた組員が野外に飛び出してくると、老ヒットマンは拳銃を乱射、手榴弾を爆発させて重傷を負わせた。駆けつけた警察にも拳銃を向けたが、最後は説得に応じて逮捕されている。取り調べでは一切自己保身がなく、堂々と「手榴弾2発を爆発させた。会長を殺すために侵入した」と言い放った。判決は懲役26年、刑務所に下獄してほどなく獄死した。
老ヒットマンによる襲撃事件は一般マスコミにも注目された。高齢化の進む暴力団社会ではあっても、後期高齢者のヒットマンは異例である。また戦場さながらの重装備で乗り込む無軌道さも類型がなかった。通常、殺傷能力の高い武器は、量刑が重くなるため使わないのがセオリーなのだ。最初から獄死覚悟のため、犯行後の裁判闘争をまったく気にしていない。その点もこれまでの暴力団抗争では異例だ。
普段、警察からネタをもらうだけで横並びの暴力団取材しかしない新聞社も特ダネを狙った。九州に赴任していた朝日新聞の四課担当記者は、道仁会と誠道会トップの自宅を直撃している。
九州抗争への肩入れ
山口組は抗争初期から誠道会に肩入れした。道仁会は懐柔できず、脅しも通じず、なにかあれば牙を剥く……山口組にとってやっかい極まりない団体である。目の上のたんこぶだった道仁会が分裂したのだ。攪乱しようという計算はあったろう。
ただし、当時の山口組も誠道会への肩入れを公式には認めていない。また実効的な支援もできない。まるで道仁会への当てつけのように、ただ接触するだけである。割って出た誠道会は実質、四面楚歌だった。人的・経済的損失のすべてを自己負担して抗争を戦うしかなかった。とはいえ犠牲者が出るたび山口組は葬儀に参列し、時に新年会等にも来ていた。暴力団社会の黙約からすれば、掟破りの行動である。
ヤクザ社会には互いにクーデターを認めない黙約があり、それを相互承認する形で彼らのいう「仁侠界」が形成されている。平和共存路線という暴力団カルテルは、万が一の際、組織の離反者をヤクザ社会全体でパージするためでもある。業界の雄である山口組もその黙約を完全に踏みにじることはできない。だからこの時の山口組の行動はすべてが非公式だった。山口組は圧倒的な組織力を背景に無茶をごり押ししていた。
私が寄稿していた暴力団専門誌『実話時報』(竹書房)は、誠道会との付き合いを認めるか否かを、各団体に問い合わせしたことがあった。大阪の独立団体である東組が、当時の田村順一理事長を通じて「我々は処分者とは一切付き合わない。例外はない」と明言してきた反面、山口組は「そんな質問に答える必要はない」と伝えてきた。なんと山口組らしい返答だろう。
最初の犠牲者が出たのは、分裂の約1年後だった。2007年6月13日、佐賀県久保田町の船着き場で誠道会・鶴丸善治顧問が殺害された。足や背中を何度もめった刺しにされ、肩口から胸を袈裟懸けに斬られ、ぱっくり開いた傷口から心臓が見えていた。車にはバッテリーを改造して長時間駆動を可能にしたココセコムというGPS発信器が付けられており、パソコンで車の位置を把握されていたとみられる。
葬儀は同月15、16の両日にわたって執り行なわれた。古巣の暴力団専門誌で何度も葬儀の取材をしているが、殺害された組員の葬儀は初めてだ。万が一の襲撃を警戒して厳戒態勢とはいえ、若い衆たちは戸惑っているように見えた。
1年間事件がなかったので油断はあったろう。暴力団抗争の緊張感は、自分と同じ立場の人間が殺されて初めて芽生える。その後、犠牲者が立て続くと若い衆の戸惑いも消滅し、葬儀会場の雰囲気は目に見えて重苦しくなった。
当時は暴力団排除条例がなく組葬ができたので、施主は肉親ではなく、誠道会トップの村神長二郎会長だった。来客が到着する時間になると、幹部たちが葬儀場のエントランスに居並んだ。カメラを握って立っていたら、駐車場に白地に青いストライプの入った4台の大型バスが入ってきた。そのうち1台はエントランスのすぐ前に止まり、黒服に黒ネクタイの一団が降車した。
梅雨の曇り空の下、襟元に山菱の代紋が鈍く光っている。先頭は山健組の山本國春若頭で、兄弟分の誠道会・浪川政浩理事長が出迎えた。後ろには妹尾英幸舎弟頭の顔もあった。山口組と反目し、全国で代理戦争を勃発させた大日本平和会に在籍していた名物親分で業界の有名人だ。
4台のバスにはそれぞれ50人程度の組員が乗車していた。なんと山健組はこの葬儀に200人もの組員を動員したのだ。バスは福岡ナンバーだった。新神戸駅から博多駅までは新幹線だったろう。当時の運賃表で往復2万円程度だから、200人で400万円の新幹線代を支払った計算になる。その他、バスのチャーター料や香典もいる。暴力団の殺し合いはかように金がかかる。貧乏所帯では抗争を戦えない。(第2回・後編へ続く)
【プロフィール】鈴木智彦(すずき・ともひこ)/1966年、北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科除籍。ヤクザ専門誌『実話時代』編集部に入社。『実話時代BULL』編集長を務めた後、フリーに。主な著書に『サカナとヤクザ』『ヤクザときどきピアノ』など。
※週刊ポスト2026年8月7日号
