プロレスラーなのにデビュー曲が“80万枚”大ヒット! 「ビューティ・ペア」が女子中高生を熱狂させた背景に“人気漫画の舞台化”があった
女子プロレス人気が、再び活況を呈している。レジェンドの一人、元クラッシュ・ギャルズの長与千種にインタビューした時のことである。「プロレスラーになろうと思ったきっかけ」について、強さへの憧れや金銭面の充実以外に、こう付け足していた。
【貴重写真】ビューティ・ペア“現役時代”の「マキ上田&ジャッキー佐藤」
「ビューティ・ペアさんがいらっしゃったでしょう? あの歌を聞いたら、『私にも出来るだろう』と(笑)」
ビューティ・ペアは、1970年代後半に一世を風靡した、ジャッキー佐藤とマキ上田のコンビである。デビューシングルの「かけめぐる青春」が80万枚のヒットを記録し(※1)、リング上でも歌を披露することで会場は鈴なり超満員に。女子プロレスの第一次黄金期を築き上げ、その後のクラッシュ・ギャルズなど、「歌う女子レスラー」のひな型ともなった。とはいえ、前出の長与の評価の他、名付け親の、こんな発言もある。

〈ビューティという名称は、決して彼女たちの顏がビューティだからつけたんじゃなく、試合ぶりがきれいなのでつけたんです〉(フジテレビ・吉田斎ディレクター。※2)
歌唱力、美貌にことさら秀でていたというわけでもないビューティ・ペアは、なぜ大いに売れ、一大ブームを興せたのか? 1976年発売の「かけめぐる青春」が発売された1976年から、今年は50年。その理由を解明したい。(文中敬称略。役職は当時)
プロレスラーに憧れたわけではなく
ジャッキー佐藤こと、佐藤尚子は1957年、神奈川県生まれ。幼い頃からスポーツ万能で、高校時にはバスケットボールの選手として注目され、第一勧業銀行から社会人チームへ誘われたホープだった。ところが高校の卒業式直前に家出。そのまま全日本女子プロレス(以下、全女)に入門してしまった。半年前から「弟の家庭教師をするから、お金をちょうだい」と頼み込み、身の回りの物は次々と売ってしまっていた。後に母親が見せられたジャッキーの日記帳には、こう書かれていたという。
〈プロレスは5年で辞める。その間にお金を貯める〉〈店を出す資金一千万〉〈いずれは小説家に〉
独立心旺盛な人生設計を踏まえた行動だったのだ。
マキ上田こと、上田真基子は、ジャッキーより2才下の1959年、鳥取県生まれ。高校時代に不良の仲間入りをし、不登校に。働くために手に職を付けねばだが、本人は「東京に行きたい」と言う。心配した両親が電話をかけた先が、東京の全女だった。父親がプロレスファンだったのだ。こちらは珍しい、親の勧めでのプロレス入りだった。
つまり、2人とも、プロレスに人生を賭けるような強い思い入れはなかったのである。アイドルや歌手になるに至っては言うまでもない。しかし、運命が2人を巻き込んで行く。2人がレスラーデビューした翌年の1976年2月末、ある人気女子選手が失踪してしまう。それが、マッハ文朱だった。
マッハ文朱は、もともと歌手志望で、オーディション番組では、あの山口百恵と争った逸材だった。それが女子プロレスに転身し、時にはリングで歌も披露。同団体を不定期で放映していたフジテレビでその模様は流され、人気を博した。
ところが1976年2月末、彼女は失踪する(事実上の引退)。すると、全女はフジテレビから、次代の歌える選手を出演させるように要求される。実はフジの「全日本女子プロレス中継」は、同局スポーツ部の制作ではなく、芸能部のそれだったのだ。すなわちフジテレビは女子プロレス中継を、あくまで芸能番組と捉えていたのである。
そこで白羽の矢が立ったのが、佐藤と上田だった。レコードの吹き込み日は1976年9月29日。「かけめぐる青春」作曲家の述懐がある。
〈“歌をまったくやったことのない人たちなので、簡単な曲を”ということで依頼を受けました。2人とも確かに上手とはいえませんでしたが〉(作曲家:あかのたちお。※3)
当時の全女は年間250試合ペースで全国を巡業しており、この歌を覚えるのも一夜漬けだったという。ましてや振り付けの習得はとても無理で、振り付け師が全女の興行について行くことになった。それでも正式な発表日には間に合わず、一日遅れてリングでのお披露目となった。
人気は関東から……
しかし評判は散々。当時の女子プロレスの観客層は主に中年男性で、ましてや歌謡ショーを観に来ているわけではない。「下手くそ!」「とっとと引っ込め!」など、野次もえげつなかった。レコードの発売(1976年11月25日)から3ヵ月後、ビューティ・ペアは沖縄巡業に向かう船の中で、上層部に直談判する。
「お願いですから、歌わせるのだけは、もう止めて下さい……」
2人とも涙を流していたという。
上層部も潮時だと思い、リングでの歌唱は終わりにしようとしたその時だ。沖縄から関東へ帰る巡業途中の広島県大会で、鉢巻きを巻いた女性ファンが数人現れ、ビューティ・ペアに握手やサインをねだった。2人は不思議に思っていたが、関東に帰ると、群馬県の大会では2人の歌唱時に紙テープが飛んだ。そして千葉まで南下すると、それまでは見なかった小学生から高校生までの女性ファンが会場に詰めかけ、入り切らぬほどになったのだ。続く2月25日、横浜文化体育館(現・横浜BUNTAI)大会でも異常人気を博し、約5000人の収容人員に、立ち見を含めて6000人以上を詰め込んだ。これにより同体育館側からお目玉を食らい、しばらく使用禁止となってしまったが、これでビューティ・ペア人気は決定的となった。
からくりはあった。前述のように、女子プロレスはフジテレビで不定期ながら放送されていたが、こちらは関東ローカルの番組であった。全女が地方を回っている間、関東ではこちらの視聴率が上昇。放映時間やその長さはマチマチながら、1977年の年明けから2月末までで日曜日の夕方を中心に6回も放映されており、ビューティ・ペアは常にその中で歌っていた。彼女たちの預かり知らぬ間に、関東ではすっかり有名人になっていたのである。
以降、ビューティ・ペアは時代の寵児に。3月15日(火)にはNHKで夜8時から放送の「歌のグランドショー」に出演(共演は郷ひろみや松任谷由美など)、翌月にはフジテレビ「夜のヒットスタジオ」に登場。ファンクラブを立ち上げると女子中高生を中心に会員は2カ月で6000人を突破し、最終的には1万人を超えた。それまで女子プロレスを不定期に放映していたフジテレビは7月15日(金)より、毎週夜7時からの30分番組としてレギュラー化を決定。番組タイトルは「女子プロレス・真赤な青春」で、「真赤な青春」とは、この前の月に発売されたビューティ・ペアの2枚目のシングルの題名でもあった。当日の新番組紹介欄に〈(放送は)原則として二試合とし、(中略)二試合の合間に女子プロレスラーが自分達のヒット曲を歌う〉(読売新聞ほか)とあることからも、完全にビューティ・ペアありきの番組への栄転だった。
7月には映画「ビューティ・ペア 真赤な青春」が公開。8月に浅草国際劇場で歌謡ショーをおこなうと、3日間分のチケット1万2000枚が50分で売り切れ、急遽追加公演を足すことに(8月5〜8日)。最終日の8日には興奮したファンがステージに大挙乱入し、ショーが一時中断する騒ぎとなった。年末の「レコード大賞」では、「かけめぐる青春」で企画賞を受賞。「NHK紅白歌合戦」にも紅組の応援団として出演した。
ビューティ・ペアが大人気になった理由
とはいえ、疑問がある。全女のテレビ中継自体は昔からあったし、番組内で歌う選手にはマッハ文朱もいた。こちらも人気ではあったが、ビューティ・ペアになってから、動員は大幅に伸びたのである。それは言及して来たように、それまでの女子プロレスの会場には皆無だったと言っていい、うら若き女性ファンを大量に獲得したためだった。では、ビューティ・ペアには、何故それが可能だったのか?
それは冒頭で紹介したビューティ・ペアの名付け親でもある、フジテレビの吉田ディレクターの戦略にあった。ビューティ・ペアのデビューの数年前から、日本全国を覆っていた、あるエンターテイメントにヒントを得たのである。
〈宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」(中略)観客動員百万人突破〉(「毎日新聞」1976年5月13日付)
「ベルサイユのばら」、通称“ベルばら”は、元々高い人気を誇る漫画作品だった。王妃マリー・アントワネットと、本来は女性でありながらそれを隠し武官として彼女を守る男装の麗人、オスカルを中心に描いた歴史劇で、まさに宝塚にはピッタリの題材ゆえ、1974年9月より舞台化したところ、未曾有の大当たりに。各地で上演され、再演に次ぐ再演を呼び、日本中に“ベルばら”ブームを興していた。吉田ディレクターは、「これを女子プロレスでやろう」と考えたのだ。
先ず佐藤尚子を、男らしいリングネームの「ジャッキー佐藤」と変え、髪型もボーイッシュなショートに変えさせた。同期ながら2才下の上田真基子は、やや妹キャラ的な「マキ上田」とした。組ませれば、必然的にチームリーダーはジャッキーとなり、相手にやられている上田を助けるジャッキーという図式にもなる。もちろんプロレス本来の魅力である強さや華麗さ、自分が出来ないことをやってくれているという憧憬もあいまって、女子中高生の人気を中心に大成功したのである。特にエース格、ジャッキーの人気の秘密については、当時、こう分析されている
〈中性にした奇妙な魅力が受けたんだろう〉(「週刊サンケイ」1977年12月29日号)
だが、後年、マキ上田は語っている。
「ジャッキーの方が男らしく見えるでしょ? でも、実際は彼女の方が乙女だったんですよ。フフフ……」
駆け巡る二人の青春
「好きな男性が出来た」とマキがジャッキーから言われたのは、ブレイクの翌年だったという。理想主義のジャッキーと比べ、大らかで細かなことは気にしないマキは、特に昵懇の仲というわけではなかったが、ビジネス上の相性は最高だったようだ。例えば、ド忘れした歌詞を他方が引き取って歌うことなどは頻発していた。しかし、当時は多忙を極め、「いつも眠たかった」(マキ)という。そこにジャッキーから恋の悩みを打ち明けられ、自らの首の怪我や母の闘病も重なり、ビューティ・ペア解散を会社に申し出る。それが受け入れられ、マキは日本武道館でジャッキーとの一騎打ちに敗れる形で引退した(1979年2月)が、ジャッキーのソロコンサートにマキが飛び入りするなど、その後も不即不離の関係は続いた。
マキはその後、地元の鳥取に店を構えるなど、飲食業に勤しんだ。一方、エースとして数多のビッグマッチをこなしたジャッキーも1981年に引退。その後、別団体に参画もしたが、1990年代には、数々の国の資格をとり、「年齢と、体の調子に合わせたトレーニング」を考案。この教室を複数主宰し、その実績と知名度からNHKでも特集され、何百人もの生徒を抱える人気者に。やはり体を動かすのが大好きだったようで、「忙しくて、男を探している暇もない」と言いながらも、嬉しそうだったという。
そんなジャッキーが1998年、鳥取のマキの店まで駆け付けたことがあった。同店の10周年記念で、久々の再会となったが、「かけめぐる青春」を共に歌い、ジャッキーはこう言ったという。
「ビューティの相手が、マキちゃんで、本当に良かったよ……」
「ちょっと、どうしたの? 今さら何よ! 現役時代は一度も褒めてくれなかったくせに!(笑)」
ジャッキーの訃報が届いたのは、その一年後だった。再会した時は、既に末期の胃ガンにむしばまれていた。
「死期を悟って、わざわざそれを言いに来てくれたのかな、と思ってます」とは、マキの回顧である。
ジャッキーの訃報を報じるテレビのニュースの背後に、「かけめぐる青春」のサビが流れていた。
〈あなたから、私へ
私から、あなたへ
送る言葉は 悔いのない青春 かけめぐる青春〉
リングに青春を燃やしたビューティ・ペアの輝きは、今もって色褪せることはない。
※1:「日刊スポーツ」1999年8月10日付
※2:「週刊ポスト」1977年4月8日号
※3:「週刊宝石」1989年9月14日号
瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。現在、10数冊目の近著「10・9プロレスのいちばん熱い日」(スタンダーズ)が重版出来中。
デイリー新潮編集部
