大河ドラマ『豊臣兄弟!』が本能寺の変で驚きの新解釈、織田信澄の告白に戦慄した「まさかの黒幕説」の根拠

明智光秀像(滋賀県大津市の坂本城趾公園、写真:ogurisu/イメージマート)
2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第26回「信長を笑わせろ!」では、織田信長が長宗我部元親との約束を反故にして、元親が激怒。間を取り持った明智光秀は苦しい立場に陥る中、信長は甥の信澄の裏切りを疑い……。今回の放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
近年の大河ドラマは「本能寺の変」をどう描いた? 明智光秀の謀反の動機
「本能寺の変」は、織田信長が登場する大河ドラマにおいて、大きな見せ場の一つとなる。中でも「なぜ明智光秀はクーデターを決行したのか」という動機については、作品ごとの特徴が出やすいところだ。近年の作品を振り返ってみよう。
2016年放送の『真田丸』では「本能寺の変」そのものはほぼ描かれず、燃え盛る本能寺のワンカットとナレーションのみ。光秀の動機が深掘りされることもなく、信長の死後に生じた混乱の中で、真田家がどう対応するかに焦点が当てられた。
一方、2020年放送の『麒麟がくる』では、明智光秀を主人公に据えた作品だけあって、謀反の動機が丁寧に描かれている。光秀は信長を憎んで討ったのではなく、深く思い入れがあったがゆえに、みずから手にかけるほかなかった──という描き方だ。
そして、まだ記憶に新しい2023年放送の『どうする家康』では、家康が仕掛けた策略によって、光秀が安土城の接待に失敗。厳罰を科される前に先手を打つべく、光秀は信長を討った──という筋立てになっている。家康を主人公に据えた作品ならではの展開といえよう。
そんな中、『豊臣兄弟!』では、従来とは異なる角度から光秀の動機に迫ることになりそうだ。今回の放送でその一端が描かれることとなった。
蜜月からの急転直下、長宗我部元親を激怒させた信長の「変心」
「長宗我部の四国切り取り、認めるわけにはいかぬ。うまく説き伏せよ」
今回の放送では、光秀が信長からそう告げられて、呆然とするシーンから始まった。ナレーションでは次のような説明があった。
「天正9年、信長は阿波の三好一族の願いを聞き入れ、長宗我部との約束をなきものにしました」
歴史的な背景を踏まえておくと、信長と長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は、もともと蜜月の関係にあった。
天正3(1575)年、土佐を統一した元親は、四国統一という次なる目標を達成すべく、信長に接近する。嫡男・弥三郎の烏帽子親を頼むと、信長はこれに応じて一字を与え「信親」と名乗らせている。また、併せて阿波に出兵することの了解も得ることとなった。
元親は正室に、明智光秀の重臣である斎藤利三の異父妹を迎えている。そのため、このときにも、斎藤利三が信長と元親の仲介役を担った。元親は、信長から四国での軍事行動について一定の了解を得たと受け止め、早速動き出す。
天正8(1580)年6月には、元親の弟にあたる香宗我部親泰を安土へと送り、阿波・岩倉城の三好康俊を服属させることとなった。このときの元親について、『信長公記』では〈土佐国令捕佐候 長宗我部土佐守〉と記されていることからも、両者の良好な関係がうかがえる。
ところが、信長のもとに身を寄せていた三好康長が勢力を盛り返すと、状況は一変する。信長は元親に対し、土佐一国と阿波南半国のみの領有を認め、それ以外の切り取った土地はすべて三好方に返すように、と言いだしたのだ。
信長の命を受けて、明智光秀の使者として石谷兵部少輔頼辰(いしがい ひょうぶのしょうふ とりとき)が元親のもとに出向いたが、元親は信長の提案を拒否。『元親記』によると、こんな返事をしたという。
〈四国は私の力で切り取ったものです。信長公の恩義は受けていません。思いもよらない仰せを聞いて驚き入りました〉
まさに今回の放送では、このときの元親の怒りが描写されることになった。なんとか関係の修復に動こうとする光秀を制止し、信長はこう命じた。
「呑めぬなら、それまでじゃ。信孝、四国はお前に任せる」
実際にも、紆余曲折を経て、信長は三男の信孝を総大将とし、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄らを副将格とする四国討伐軍を編成した。これまで交渉役を担ってきた光秀は、この方針転換によって蚊帳の外に置かれることとなった。
ちなみに、このあと豊臣政権へと移っていく中で、長宗我部元親は、秀長にとっても対峙すべき存在となる。引き続き着目したい。
父は信長に誅殺された…光秀の娘婿・織田信澄が重用された謎
今回のドラマでは、長宗我部元親と信長との仲を取り持つべく、ひそかに動いた人物がいる。それが甥の織田信澄であり、そのことが事態を複雑化させる。
まず、史実における信澄について踏まえておくと、父は信長の同母弟・織田信勝(信行)である。
信勝は織田家の家督を巡って兄と対立。弘治2(1556)年の稲生の戦いで挙兵するも敗れ、一度は許されるも再び謀反を計画する。これを家臣の柴田勝家が信長に密告したことで露見し、信勝は清洲城に呼び出されて誅殺された。
二度も信長に歯向かった信勝の遺児として、信澄は生まれた。今回の放送で「私はとうの昔に殺されていてもおかしくはない身ですから」と自身に語らせているように、織田家の中でもっとも警戒されてもおかしくない出自だ。
それにもかかわらず、史実において、信長は信澄を抹殺するどころか、柴田勝家の庇護下に置いたとされ、さらに重臣の明智光秀の娘を娶らせている。つまり、信澄は明智光秀の娘婿にあたることになる。
元亀2(1571)年には、信澄を浅井氏の旧臣・磯野員昌の養嗣子とし、天正6(1578)年に員昌が信長の叱責を受けて出奔すると、その所領・高島郡をそのまま信澄が引き継いでいる。
近江・大溝城主となった信澄は、天正8(1580)年以降は大坂に常駐。その重用ぶりは、宣教師ルイス・フロイスが〈今大坂の司令官である信長の甥〉と記しているように、大坂方面の実務を任された重要人物として周囲から見られていたようだ。
信澄は、年齢的には信長の嫡男・信忠とほぼ同世代にあたる。信忠配下の遊撃軍団の一員として戦場をともにしていることからも「息子の信忠を信澄が支える」という、次なる構想を描いていたのかもしれない。
下戸のはずでは? ドラマの「信長と秀吉の飲み比べ」にSNS騒然
そんな史実において信長からの信頼が厚かった信澄が、ドラマでは「長宗我部と通じている」として、謀反を疑われることになる。信澄の「これまで明智殿がつないできた織田と長宗我部の絆を断ち切ってはなりませぬ」という提言にも耳を貸さず、信長は蟄居(ちっきょ)処分を下している。
信長のためを思って長宗我部との仲を修復しようとしたのに、これでは信澄があまりに不憫だ。そこで事態の鎮静化に尽力したのが「豊臣兄弟」である。
理由をつけて信長を長浜城に呼び寄せると、羽柴家をあげて大いに宴を盛り上げた。放送タイトルに「信長を笑わせろ!」とあるように、信長の気持ちがほぐれるのを待ってから、信澄の処分を解くように秀吉が働きかけるという作戦がとられた。
最終的には、2人で酒の飲み比べで勝負し、秀吉が勝てば信澄の処分は解かれることに……。ルイス・フロイスが『日本史』で信長について「朝早く起き、酒を飲まず食を節する」と書いていることから、この展開にSNSでは「下戸のはずでは?」という指摘も多く寄せられることになった。
その一方で、「素直に許すと言えないから『飲み比べ』という条件を付けたのかも」「下戸な信長が飲み比べを提案ということは、半ば許したも同然ですね……!!」という深読みも飛び出すなど、飲み比べを見守る羽柴家のギャラリーさながらに、SNSも大いに盛り上がりを見せた。
ともあれ、そんな秀吉の頑張りもあって、信澄は許されることになった。
ドラマのように、信長に謀反を疑われたという記述は残されていない。だが、「本能寺の変」の後に、信澄の人生は暗転する。「謀反は信澄と光秀の共謀である」という噂が広まり、信孝と丹羽長秀によって攻め滅ぼされてしまうというから、あまりに悲惨だ。
そんな信澄の末路から逆算するようなかたちで、今回のドラマでは「本能寺の変」について、まさかの「信澄黒幕説」とも読める独自解釈が示されることになりそうだ。前述したように、父が信長に討たれているため、動機としては「仇討ち」ということになろう。
ドラマの終盤では、足利義昭の印が添えられた「信長を討て」との御内書について、実は自分が書いたと、信澄は光秀に告白。信澄がここまでのキーパーソンになるとは予想していなかっただけに、驚かされてしまった。
いよいよ次回は「本能寺の変」を迎える。信長はどんな最期を迎えるのか。また仇を討つべく秀吉がすぐさま京へと向かう、「中国大返し」はどう描かれるのか。弟の秀長がどんな役割を果たすかも含めて、大きな話題になりそうだ。
【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『長宗我部』(長宗我部友親著、文春文庫)
『完訳フロイス日本史』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)
筆者:真山 知幸
