「首も手足も切断」足立区の川から見つかった【28歳男性のバラバラ遺体】⋯現役警察官を殺した「犯人」はすぐ側にいた(昭和27年の事件)〉から続く

 1952年、東京都足立区の荒川放水路で、首と手足が切断された男性の凄惨なバラバラ遺体が発見された。

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 戦後初の猟奇事件として世間を震撼させたこの事件の被害者は、28歳の現職巡査。そして、後に殺人・死体遺棄容疑で逮捕されたのは、かつて「巡査を辞めて」と手紙で懇願するほど彼を深く愛していた内縁の妻であり、子どもたちからも慕われる小学校教師の宇野富美子(当時26歳)だった。

 なぜ、一途に愛し合ったはずの2人が悲劇的な結末を迎えたのか。後編では、真面目な警察官の仮面を剥ぎ取った男の恐るべき豹変と、富美子が追い詰められていく狂気の同棲生活を詳述。そして、逮捕後に彼女が漏らした「夫を殺した瞬間、ホッとした」という告白の真意とは――。

 鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)


写真はイメージ ©getty

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警察官を殺した女の人生

 一方、伊藤は1924年(大正13年)、山形県置賜郡豊川村(現・飯豊町)で生まれた。

 1941年から徴用工として川崎市の日本光学で勤務し、1944年に召集。復員後は仙台市で古物商の父の手伝いをしていた。富美子とは、継母が彼女の母親シカの実姉であった関係から自然と知り合い一目惚れ。頻繁に恋文を出し、想いを伝え続けていた。

 しかし、富美子は伊藤になびかず、1947年から単身で大阪に戻り小学校教師として働き始める。1人で部屋を間借りし、月給7千円(現在の貨幣価値で約28万円)から毎月2千円を実家に送る日々。

 苦しい生活を余儀なくされていた父母の支えになることが最優先で、伊藤からいくら積極的にアプローチされても、それを受け入れる余裕などなかったのである。

 大阪で教師に就いて2年が経過した1949年、彼女のもとに伊藤から知らせが届く。

 なんでも、2年前に上京し、昨年警視庁巡査を拝命、現在は板橋区の志村署に勤務しているという。もっとも伊藤の手紙には、上京後に浅草で露天商となり、テキ屋仲間と付き合っていたことは書かれていなかった。

 近況を知らせるこの手紙をきっかけに2人は再び連絡を取り合う仲となる。実は、富美子は大阪で同僚の男性教師に心を奪われ本気で結婚を考えていたものの、相手にその意志はなく関係が消滅していた。

 そんな頃合いを見計らったように届いた伊藤からの手紙。彼女は一途に自分のことを慕ってくれる伊藤のことを本気で考えるようになり、その後、頻繁に手紙を交換する。

警察官のほうからプロポーズ

 1949年夏、富美子は伊藤が住む警察の寮を訪ねプロポーズを受ける。即答は避けたものの、以降、伊藤を慕う気持ちは日に日に増していく。そのころ、彼女が伊藤に出した手紙が後に新聞で公開されている。

〈忠夫さん、危ない所には絶対に行かないでね。もし警察官の名の下にそうした行動をとらねばならない時は、弱虫のようですけれど、巡査を辞めてください。私はどんなことをしても、離れるのはいや。私を泣かせないでね。私を置いてどこへもいらっしゃらないとは信じていますが、離れないでね。富美子。私の大事な忠夫さまへ〉

 1951年春、富美子は大阪から上京、板橋区の志村第三小学校へ転勤すると同時に、結婚を視野に入れ伊藤との同棲生活を始めた。自分は小学校教師で、伊藤は現職の警察官。安定した暮らしが送れるとの見込みがあったことは言うまでもなく、近いうちに富美子の母親と弟も同居するという頼み事を伊藤が快諾してくれたのも安心だった。

 富美子の仕事は上京してからも順調で、学校側の評価は高く、児童からも慕われる。が、私生活では予想だにしない現実が待っていた。真面目で優しい、自分に一途な警察官だと思っていた伊藤が同棲を始めてまもなく、実際は極めて素行の悪い人間であることが発覚したのだ。

警察官の夫が豹変

 勤務を終えるとすぐ酒に走り、酔うと暴れ出す。富美子は知らなかったが、同棲前には飲み屋で客と口論となり、格闘した挙げ句に拳銃を奪われるという失態を犯していた。

 幸い、銃は見つかり大事には至らなかったものの減給処分になり、同棲を始めた当初はその素行の悪さから解雇寸前だった。

 伊藤は給料の半分しか家に入れず、女遊びにうつつを抜かし外泊することもしばしば。

 借金も抱えており、後に判明したところ、その額7万円(現在の貨幣価値で約280万円)。そんな状態で富美子が憧れていた結婚式を挙げられるわけもなく、本人もその気配すら見せなかった。

 当初の想像とはまるで違う同棲生活を送るなか、ほどなく富美子の母シカと弟が上京。同居生活が始まる。

 今後は2人の面倒もみなければならない。伊藤とこのまま暮らしていれば破綻は明らか。そこで彼女は決心を固め別れ話を切り出す。と、伊藤は「そんなことを言うなら殺してやる」と拳銃を持ち出し、「逃げても絶対見つけ出す」などと脅してきた。

 素行が悪く解雇寸前とはいえ、肩書は警察官。だが、内縁の妻と別れるとなれば、いよいよクビを告げられるかもしれない。

 伊藤は今の立場を守るためにも、富美子との別れは絶対避けねばならなかった。一方、富美子は警察を解雇されたら本気で自分の命を奪いに来るかもしれないと恐れた。同居する母や弟のことを考えても、これ以上別れ話はできないとあきらめる。

「売れば金になる」

 こうしてずるずると冷え切った同棲生活を送り1年以上が経過した1952年5月7日、伊藤は21時ごろに泥酔状態で帰宅する。が、その日は22時から夜勤が入っていた。

 制服に着替えることもままならない状況で、富美子は思わず「どこでそんなに飲んできたの!」と叱責してしまう。これに伊藤は「どこで飲んでこようが俺の勝手だ! 生意気言うな!」と怒鳴り返し富美子に手をあげた。

 しばらくしてその場は収まり、富美子は伊藤を寝かしつけた後、彼の上司に電話をかけ「故郷の親戚に事情があり、急遽上京したので9日まで休みます」と連絡する。伊藤を思ってのことだった。しかし、伊藤は酔いつぶれて寝入る寸前、ふと言葉を漏らす。

「捨てるのは惜しい。売れば金になる」

 これが何を意味していたのかはわからない。が、富美子は自分が売春婦として売り飛ばされると直感。ついに我慢の糸が切れる。

ついに警察官である夫を殺害

 日付が変わった同月午前1時ごろ、母親と弟が寝入っていることを確かめた富美子は、1ヶ月ほど前に伊藤が持ち帰っていた警察の機関誌『自警』で読んだ絞殺事件の記事をヒントに殺害の準備を進める。まずは、真ん中に麻紐をくくりつけた警棒を外に出し雨戸を閉鎖。

 窓際から引っ張ってきた麻紐を泥酔して寝ている伊藤の首に巻きつけたうえで、紐の両端を渾身の力で引く。伊藤はかすかにうめいたもののすぐに動かなくなった。

 異変を察した母シカ(同51歳)が駆けつけると、富美子は号泣。母も事態を知って泣き崩れたが、これまでの娘の苦しみを間近で見てきただけに心中は複雑で、しばし逡巡した結果、自首させるより遺体をバラバラにして捨て殺人を隠蔽しようとの結論に至る。

 この提案を富美子も受け入れたが、夜明けも近かったため、いったん遺体を柳行李に入れ押入に隠匿。何事もなかったかのように学校に行き教壇に立つ。

 一方、母親は出刃包丁や鉈、油紙、麻紐を購入。夕方、富美子が学校から借りた自転車で帰宅すると、弟(同14歳)を兄の家に遊びに行かせ、母子で遺体切断を実行に移す。

 まずは富美子が左足の付け根に包丁の刃先を置き、のこぎりを引くようにギザギザと切り始めた。が、刃が骨に当たり完全には切断できない。すると、母シカが慣れた手つきで関節を外し骨と足を分断。こうして他の部位も切断していき、約2時間で作業を終える。

遺体を細かく刻み⋯

 この後、切り刻まれ小さくなった遺体を一つ一つ油紙と新聞紙に包み、富美子が自転車で、母はバスで新荒川大橋に運搬。そのまま包みを放水路に投げ込んだ。

 運びきれず自宅に残していた包みも深夜に富美子が運び出し、今度は戸田橋から荒川に投棄。遺体を隠すのに使った柳行李は細かく壊し焼却した。

 翌5月10日午前11時ごろ、富美子は伊藤の勤務先である志村署を訪れ、「9日までの休暇届けを出していたが、実は主人は7日の晩に酔って帰宅し、私と口論になった後外出し、そのまま行方がわからなくなった」と告げる。

 もちろん、殺人が発覚しないための偽装工作だ。が、前記したようにその1時間前に身元不明の胴体が発見されたことを彼女は知らなかった。

 さらに富美子は11日に伊藤の継母に伊藤が帰宅しないこと、実家に来ていないかを問う電報を送達。数日後、継母から、実家には戻っていないが、荒川でバラバラの死体が見つかり心配で食事も喉を通らないとの手紙が戻ってきた。

 富美子が内縁の夫を心配する妻を演じているなか、16日になりバラバラ遺体の身元が伊藤であることが判明。警察は当然のように彼女に事情を聞く。

完全犯罪が失敗した理由

 ただ、15日に頭部が発見され伊藤が被害者である可能性が浮上した時点で、警察は内密に富美子の捜査を進めていた。結果、夫婦仲が悪く喧嘩が絶えなかったことが明らかに。そして、遺体を包んでいた新聞紙も大きな手がかりとなった。

 使われていた新聞は毎日12枚、朝日6枚、読売2枚、東京1枚の計21枚。その中に朝日新聞大阪本社発行分が1枚混じっていた。発行日は1951年3月25日。

 富美子が伊藤と同棲するため上京する直前のものである。さらに、5月10日の夜中、パトロール中の警察官が大きな荷物を積み自転車を漕ぐ富美子の姿を目撃し、数分後に見かけた際には荷物がなくなっていたことを確認していた。

 こうした状況証拠から捜査本部は富美子を犯人と断定。

 16日夕方に赤羽署で取り調べたところ、最初こそ「私は教育者です。殺人など働くはずがありません」と毅然とした態度をとっていたものの、事情を把握し彼女への同情を示しながら真実を話すよう諭す警察に対して、17日になり「お手数をかけて申し訳ありません。私がやりました」と自供、そして逮捕。

 母のシカも同日に娘と同じ殺人・死体遺棄損壊容疑で逮捕された。

 また、同日に行われた家宅捜索では2階4畳間の押入のカーテンやタライなどから血痕が見つかった。

 取り調べが一段落したところで、富美子は次のように語ったそうだ。

「世間の人は私のことを異常性格と言うかもしれませんが、私は伊藤に対して心から詫びるつもりはありません。あのまま生活を続けていれば、どちらかが殺していたでしょう。私は夫を殺した瞬間、ホッとした気持ちでした」

その後、2人は⋯

 1952年7月11日、東京地裁で開かれた初公判で富美子とシカは起訴事実を全面的に認めた。

 ただ、被告弁護人は「シカは富美子の言うとおりにするほかに道はなく、刑事責任は免れるべきだ」とシカの無罪を主張する。

 その後、自宅や新荒川大橋などの犯行現場の検証や、かつての居住地の大阪、実父の居住地の山形で出張公判が開かれるなどして、同年9月17日、検察は「反省が見られない」などとして富美子に無期懲役、シカに懲役3年の求刑。

 10月28日に下された判決は、富美子が懲役12年、シカが懲役1年6ヵ月だった。

 2人は控訴せず刑が確定。共に栃木女子刑務所に収監されたが、シカは1953年に尿毒症で獄中死。

富美子の最期

 富美子は1959年に「皇太子ご成婚」特赦で減刑され、7年の服役で出所した。その後、彼女がどんな人生を送ったのかは不明である。

(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))