ジョン万次郎の像(高知県土佐清水市、写真:View Photos/a.collectionRF/アマナイメージズ/共同通信イメージズ)


 2028年のNHK大河ドラマが『ジョン万』に決定し、江戸時代後期に翻訳者や通訳として活躍したジョン万次郎の生涯が描かれることになった。主演は、大河ドラマ初出演となる俳優の山粼賢人。初めてアメリカに居住した日本人とされ、学校で教育も受けたジョン万次郎は、一体どんな人生を歩んだのか。偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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無人島での143日、少年を襲った過酷な運命

 文政10(1827)年、土佐国幡多郡中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)という小さな漁村に、一人の少年が生まれた。中浜万次郎、のちに「ジョン万次郎」として歴史に名を刻む人物である。

 父を9歳で亡くし、幼い頃から働きに出るという苦労を背負いながらも、活気ある少年に育ったようだ。兄とともに浜に出たときには、兄が何も獲れなくても、万次郎だけは何かしらの獲物を捕まえてきたという。

 転機は天保12(1841)年に訪れた。14歳の万次郎は仲間4人とともに漁に出たが、3日後にシケに遭い漂流してしまう。小船は6日間も流され続け、土佐清水市から海上760キロメートル南の無人島「鳥島」に漂着する。

 この絶海の孤島で、万次郎は食べるものも飲み水もほとんどない過酷なサバイバル生活を送った。その期間は143日間と、約半年にも及んだという。

 その後に訪れた救助劇が、万次郎の人生を根底から変える。食糧として海亀の卵を求めて、たまたま鳥島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が5人を発見したのである。

「帰国」か「未知の地」か、救出劇の裏にあった決断

 船長の名はウィリアム・ホイットフィールドという。万次郎らにとっては命の恩人だ。

 しかし、船長からすれば、救出した5人を国に返そうにも、どこの国から来たのか分からない。そこでいったんホノルルで船を下りると、船長は5人を王国政府の要職にある医師ジャッドの家に連れていき、事の次第を説明した。

 するとジャッドは、日本の一朱銀、二朱銀、そして寛永通宝を各1枚取り出した。さらに和製のキセルを見せて「これを使う国から来ましたか?」とジェスチャーで尋ねたところ、万次郎たちが日本人であることが判明したという。

 ホノルルであれば、船の往来が盛んなため、中国経由で日本に帰るのがよいだろう。船長はそう判断したようだ。ホノルルで彼らがしばらく生活できるように、ジャッドが役所で手続きをするのを見届けると、万次郎たちに洋服や銀貨までプレゼントし、自身は帰国の途につこうとした。

 だが、万次郎はここで大きな人生の選択をする。捕鯨船員となって船に乗り続けて、アメリカ本土にわたるという道を選んだのだ。

 船長もまた、万次郎の立ち居振る舞いに、何か特別なものを感じたらしい。万次郎の願いを快く受け入れ、自らの故郷マサチューセッツ州フェアヘーブンへ連れ帰ることとなった。

鎖国を越えた「学び」、アメリカでの日々

 日本人として初めてアメリカ大陸の土を踏んだ万次郎は、その後ホイットフィールド船長の養子同然となった。船長の家から近い公立学校で、本格的な教育まで受けている。

 日本人で初めてのアメリカ留学生となった万次郎。学校では、数学、測量、航海術、造船技術などを熱心に学んだという。学校を卒業した後は、捕鯨船の乗組員として太平洋・大西洋・インド洋を巡っている。

 やがて日本への帰国を決意した万次郎は、資金を蓄えるために西部へ。ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて、小型船「アドベンチャー号」を購入する。

 この類いまれな行動力こそが、万次郎の真骨頂といえるだろう。嘉永4(1851)年、万次郎は琉球の海岸に上陸することとなった。

帰国後に待っていた、時代の寵児としての役割

 外国帰りの万次郎は薩摩や長崎に護送されて、長期にわたる取り調べを受けている。万次郎にとって幸運だったのは、このときの薩摩藩の藩主が、開明派の島津斉彬だったことだ。

 西洋文化に強く関心を持っていた斉彬は、万次郎に海外の情勢や文化を次々と質問。万次郎はそれに答えながら、斉彬の要請に応じて、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術まで指導したという。

 ようやく土佐に帰国したのは嘉永5(1852)年のことである。漂流から実に12年の月日が流れていた。

 土佐藩では絵師の河田小龍が万次郎の口述をまとめて『漂巽紀畧』を編纂。坂本龍馬が近代的な国家像を描く上でも、この記録を通じた万次郎の見聞が大きく影響したとされている。

 その後、万次郎は土佐藩の藩校「教授館」にて、後藤象二郎や岩崎弥太郎らに英語と航海術を直接教えている。また土佐に帰国するのと同時期にペリーが来航すると、万次郎は江戸幕府に招かれ、直参旗本の身分が与えられた。

 まさに時代が万次郎の豊富な海外経験を必要とし、万次郎はそれに応えながら大きく飛躍したのである。

勝海舟も驚嘆、万次郎の卓越した操船技術

 万延元(1860)年、万次郎は再びアメリカの地を踏む。日米修好通商条約の批准書交換のために使節団が派遣されると、万次郎はその随伴艦である咸臨丸(かんりんまる)に通訳として乗船した。

 だが、冬の北太平洋は荒れ狂う風と波が続き、日本人乗組員の多くが船酔いで甲板に立つことすら難しい状態に陥ってしまう。艦長の勝海舟も船酔いに苦しめられて、アメリカ到着まで、ほとんど船室から出てこなかったという。

 そうした状況の中で、万次郎の豊富な航海経験が船上で光った。アメリカ海軍のブルック艦長らも、万次郎の操船技術の高さに驚いたと伝えられている。サンフランシスコに到着後、万次郎は使節団の通訳として外交の現場でも活躍した。

 明治維新後は新政府から開成学校(現・東京大学)の教授に任じられ、普仏戦争視察団の一員として大山巌らとともにヨーロッパへ渡る。帰路にはアメリカへ立ち寄り、命の恩人であるホイットフィールド船長とも再会を果たす。

 帰国後は体調を崩しながらも教育の現場に関わり続け、明治31(1898)年、万次郎は72年の生涯を閉じた。

 万次郎が日本にもたらしたものは、英語力や航海術といった個別のスキルだけではなかった。鎖国という高い壁の中で、日本人が想像するしかなかった「外の世界の現実」を、万次郎は自分の体で知っていた。その経験は、諸藩や幕府にとって切実に求められるものだった。

 しかし万次郎の真骨頂は、そこにとどまらない。漂流という普通なら命を落として終わる「最大の失敗」を、自分の人生最大の糧に変えた。貧しい漁師の子が幕臣となり、大学教授となった軌跡は、能力と経験が身分を超えうることを、江戸時代のうちに体現した稀有な例でもある。

 幕末を動かしたのは、時代の表舞台に立つ英雄だけではない。世界と日本の間に立って言葉と技術と経験を橋渡しした「媒介者」の存在もまた、近代日本の扉を開く力となった。

 漁師の子として生まれ、偶然の漂流から始まった万次郎の人生は、そのまま明治という新しい時代への助走だったともいえる。

ジョン万次郎(撮影日不明、写真:アフロ)


【参考文献】
『漂巽紀畧 全現代語訳』(ジョン万次郎述、河田小龍記、谷村鯛夢訳、講談社学術文庫)
『中浜万次郎の生涯』(中浜明著、冨山房インターナショナル)
『中濱万次郎 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』(中濱博著、冨山房インターナショナル)
『ジョン万次郎の羅針盤』(中濱武彦著、冨山房インターナショナル)

筆者:真山 知幸