(※写真はイメージです/PIXTA)

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通常、65歳から受け取ることができる老齢年金。「遅く受け取るほど得をする」という言葉を信じ、受給を遅らせた高齢者が、思わぬ事態に直面するケースもあります。受給額が増えたのに、素直に喜ぶことができない。ある男性のケースを見ていきます。

独身男性、将来の安心のために「繰下げ受給」を選択

昭和28年生まれの佐藤正雄さん(72歳・仮名)。大学卒業後に就職した会社で、とにかく真面目に働いてきたといいます。60歳で定年を迎えたあとは、再雇用制度で契約社員として現役社員のサポートに。65歳の時点で月20万円の老齢年金を受け取る権利がありましたが、「働けるうちは働こう」と、年金を請求することなく70歳過ぎまで働きました。

「ひとり身だからこそ、将来長生きしたときの備えを厚くしたかった」

そう考えた佐藤さんは、年金の受給を仕事を辞めるまで繰り下げました。繰下げ受給のことを初めて知ったのは、毎年、誕生月に送られてくる「ねんきん定期便」です。強調された文字で、「年金受給を遅らせることで受取額を増やすことができる」と書かれていました。

現行、1ヵ月遅らせるごとに0.7%ずつ増える仕組みにより、佐藤さんは7年間で58.8%増。受給額は月およそ32万円、年間では約382万円になりました。さらに、現役時代に加入していた企業年金が年15万円ほどあるといい、合計すると年収は約400万円弱に達します。

「仕事を辞めても、それほど年収は下がらない。大きな安心のなか、老後を暮らしていけることは、私にとって大きなメリットでした」

一方で、年金の受取額が増えたことで、マイナスに感じることもあったといいます。

「私の場合、医療費の負担が3割になるんです。おかげさまで、今も病院知らずで健康が取り柄ですが、もう70代ですから、いつまでもそうは言っていられない。いずれは頻繁に病院に通うようになるでしょう。そうなったとき、負担が2割と3割では大きな違いだと思うんですよね」

医療費負担が3割――その事実を知ったのは、つい先日のことでした。

「正直、年金が増えることのメリットしか考えていませんでした。初めて3割負担のことを知ったときには、『うそだろ……』という言葉しか出てこなくて、ただただ呆然。もう少し、緻密なシミュレーションのもとでベストな受給タイミングを考えていたら、後悔することもなかったのに」

年金受取額増の裏に潜む「現役並み所得」という判定の落とし穴

日本の年金制度において、繰下げ受給による増額分は「額面」に対してのみ適用されます。しかし、現代の社会保障制度では、この額面が増えることで複数の「負担増の壁」を突破してしまう構造になっています。

まず、日本の税制と社会保険制度は、所得が増えるほど負担率が上がる累進的な構造を持っています。厚生労働省が公表する資料によれば、年金の受給額が増えることで所得税や住民税の納税額が増えるだけでなく、介護保険料の所得区分も上昇します。特に盲点となるのが、医療費の自己負担割合です。

厚生労働省の「後期高齢者医療制度」の規定では、世帯の年金収入が一定基準(単身で年収383万円以上、夫婦世帯で520万円以上など)を超えると、医療費の自己負担が1割または2割から、現役世代と同じ3割へと引き上げられます。繰下げ受給によって額面を増やしたことが、結果としてこの基準値を超えてしまい、家計を直撃するのです。

また、総務省統計局『家計調査』でも示されている通り、高齢期の支出において医療・介護費の占める割合は非常に高く、この負担割合が「1割(または2割)から3割」に変わるインパクトは、年金額の増加を容易に相殺してしまうことも珍しくありません。

さらに、多くの自治体で実施されている「高額療養費制度」の上限額も、所得区分によって決まります。年金を増やしたがために所得区分が上がると、手術や入院が必要になった際の自己負担上限も数万円単位で跳ね上がります。

「手取り」を計算する際、多くの人は税金と社会保険料のみを考慮しますが、実際には「医療費の増負担」と「行政サービスの打ち切り」という二重の罠が待ち構えています。

良かれと思って選んだ繰下げが、結果として「最も効率の悪い資産運用」になってしまうこともあるのです。制度の表面的な数字だけに惑わされず、さまざまな損得を見極める必要があります。