『特集:女性とスポーツ』第6回
バレーボール大友愛 インタビュー(前編)

 ロンドン五輪の女子バレー日本代表メンバーとして活躍した大友愛(現:秋本愛)。2000年代前半から日の丸を初めて背負うようになったが、アテネ五輪の前年度に代表を"離脱"する。大友本人に、その経緯とその後について聞いた。

***


ロンドン五輪での銅メダル獲得に貢献した大友 photo by Ishijima Michi

――バレーを始めたきっかけから聞かせてください。

「友達のお姉ちゃんに誘われて、中学校のバレー部に入ったのがきっかけです。入学時にはすでに身長が高かったので、『バスケ部に入らない?』とも声をかけられましたが、接触があるのが怖いなと。頭をよぎったバドミントン部も新入部員が多く、『実際に練習できるのは3年生ぐらい』と言われたので、仲が良かった友達も入るバレー部に決めました。あまり夢がない始まりですね(笑)」

――卒業後は仙台育英学園高校でプレーしましたね。

「中学の時から私はミドルブロッカーで、卒業前に同じ宮城県の強豪で全国常連の古川商業(現・古川学園)さんからも声をかけていただいたんですが、当時の私は背が高いだけだったのでうまい選手の中で埋もれてしまうのでは......という不安がありました。そんな時に、バレー部の監督さんから『仙台育英はコンビバレーや、クイックなどもイチから教えてくれる。愛は高校でバレーを終えるような選手じゃないから、いろんな技を覚えるといいんじゃないか』とアドバイスをもらいました。

 仙台育英も県内の強豪校なんですが、見学に行くとバリエーション豊かな練習をしていましたし、当時は中国の選手もいて『グローバルな感じもかっこいい』と思いました。また、監督さん自身がボールを打って指導をしていて、そういう"熱さ"が『すごく素敵だな』と思って仙台育英に決めました。のちに私の武器になる『ワンレッグ攻撃』も高校時代に教えてもらい、"大友愛"という選手の土台ができました」

――高校を卒業後、2000年にNECレッドロケッツに入団します。

「NECに決めたのは、父が竹下佳江さんのすごいファンだったからなんです。他の実業団のチームにも誘っていただいたんですけど、父が『竹下選手のトスを打て』と(笑)。当時のNECはVリーグのトップチームで『(練習に)ついていけないんじゃないか』と思いましたし、私は宮城が好きで離れたくない気持ちもあって乗り気ではなく、『新幹線に乗るのも嫌だ』と言っていましたね(笑)。

 それまで父に怒られたことがなかったんですが、その時は『見学に行ってみないと、どんなところかわからないだろ』と諭されました。半ば引きずられるように見学に行ったら、当時の監督の吉川正博さんが選手と一緒に練習していて。仙台育英に決めた時とまったく同じで、熱血系の指導に胸を打たれ、NECに入ることになりました」


現在は4児を育てる母に photo by Matsunaga Koki

――入団前の心配もよそに、NECでは1年目でレギュラーになり、翌年には日本代表にも選出されます。その後、女子バレーは低迷が続いたことで2003年に監督が柳本晶一さんに変わりました。ただ、大友さんは合宿の途中で代表を離脱してしまうというエピソードもありましたね。

「ロシア遠征に行った時に、試合会場の2階でビデオを撮りながら日々データを取っていたんですが、それに納得できず......。もちろん、そういった役割はチームに欠かせないんですが、当時の私は、好きなメンバーと目標に向かって思い切りバレーをすることが一番で、日の丸をつけることに特別な意味を感じていなかったんです。だから自分を必要としてくれているNECで、リーグ優勝に向けて練習をしたほうがいいと思い、『私はビデオを撮るために来たんじゃありません。帰ります』と柳本さんに伝えました」

――だいぶストレートな物言いですね(笑)。

「実はその前にも、最初の柳本さんとの面談で『あなたとはやれません』と言っちゃったんです(笑)。"若さ"で許されることでもないですが、それまで私は『監督を優勝させるため』と思ってプレーしてきました。その点で、柳本さんは熱血というより統率力がある方ですから、当時は『上からモノを言う人だな』と思ってしまって......それでビデオ係になって練習もできない、試合にも出られないとなった時に、代表から離れる行動を取ってしまったんです」

――それでも、2004年には代表に戻りましたが、どんな心境の変化があったんですか?

「その年に亡くなったおじいちゃんが、私が代表を辞退したあとの大会を見て『なんで愛は出てないんだ?』とすごく寂しがっていたことを、後日おばあちゃんから聞いたんです。それまで自分のことしか考えていませんでしたが、おじいちゃん、母も同時期に亡くなって、私を応援してくれていた人に申し訳ないことをしたと思うようになり、『(2004年度の代表に)招集されたら、気持ちを切り替えて頑張ろう』となったんです」

――代表に戻った時、柳本監督とはどんなやりとりをしたんですか?

「柳本さんには、『すみませんでした。自分が子供すぎました』と真っ先に謝りました。そうしたら『また頑張ろう』と言ってもらえて、練習では毎日のように『愛ちゃん、今日は機嫌いいか?』と、冗談交じりに機嫌をうかがってきました(笑)。私も『今のところは大丈夫です』と返せるくらいの関係になりましたね。ただ、主将のトモさん(吉原知子)は厳しかったです」

――どういった対応だったんですか?

「自分勝手に代表から離れて戻ってきた私が、チームの緊張感を乱さないよう、あえて距離を置いていました。当時、トモさんと何人かの選手は朝5時半ぐらいからアップを始めて、6時ぐらいからスパイクを打っていました。その朝練に参加したくて、私が『一緒に打たせてください』と頼んでも、トモさんは『人数は足りているから入らないで』と。なので私はボール拾いや、空気入れなど練習の手伝いをして、次の日になったらまたお願いをする、という毎日でした。

 そうして2週間くらい経ったあとですかね。トモさんが『ユウ(大"友"の愛称)の本気がわかった。明日から入っていいよ』と言ってくれました。あとから、『中途半端な気持ちで代表に戻ってきたなら認めなかった。でも、毎日誰よりも早く来て準備したり、そういう姿から本気が伝わったよ』と、しっかり理由を説明してくれたんです」

――そのあと、吉原さんとの関係はどうなったんでしょうか。

「すごく仲良くなりました。練習が終わったあと、トモさんと同年代のセッターの辻知恵さんも含めた3人で合宿所のテレビがある部屋に集まって、コーヒーを飲みながら1日の反省会をしていました。ふたりとも偉大な先輩ですが、いろいろ腹を割って話せる"お姉さん"みたいな存在でしたね」

――2004年のアテネ五輪にも出場しましたが、初めてのオリンピックの舞台はいかがでしたか?

「それまで日本で開催されていた大きな大会は、会場の盛り上がりもすごくて、私も気持ちが熱くなってくる感じだったんですが......アテネ五輪は日本代表の試合を見に来る人が少なくて、『え、オリンピックなのにこんなに寂しいの?』と思った記憶があります。

 日本と海外の強豪チームのモチベーションの差も痛感しました。海外の選手たちの目には、『絶対に、何としてもメダルを取るんだ』という力が宿っていました。私たちはシドニー五輪の出場を逃していたので、出場権を取った時点で少し安心してしまったのかもしれません。オリンピックに出場することへの気持ちやプレーの準備はトモさんがたくさん話をしてくれたんですが......。それを生かし切れず、反省しかないもったいないオリンピックでした」

――アテネ五輪が終わってNECに戻り、2005年のワールドグランプリでの活躍から一気に注目度が上がり、同年には写真集やDVDも出しましたね。しかし2005−06シーズンの途中で引退。ファンだけでなく、関係者にも衝撃が走ったと思います。

「これはずっと弁明させてもらっているんですけど、写真集やDVDは『絶対に嫌だ!』と言っていたんです。それでも、チームや会社に説得されて仕方なく、といった感じでした。あの頃はアイドルのように扱われて、過剰に注目されていると感じていました」

――確かに、当時は女子バレーが再び盛り上がり、大友さんの人気もすごかったですね。

「応援してもらえることはもちろん嬉しかったです。ただ、どこに行っても、買い物するだけでも写真を撮られたりインターネットに書かれたりすることが多くなり、疲れ果ててしまいました。それまで私は、バレーに関して父に相談したことがなかったんですが、(2005−06シーズンの)リーグの前にあったアジア選手権の大会期間中に国際電話をして、『やめたい』と伝えました。

 バレーが大好きなのに、バレーじゃないところで注目されていることが大きなストレスで、プレーも楽しめなくなっていましたね。リーグの最中で申し訳ないとも思いましたが、引退することを決めました」

(中編につづく)

大友愛(おおとも・あい)
1982年3月24日生まれ。宮城県仙台市出身。中学校からバレーをはじめ、仙台育英学園3年生の時に世界ユース選手権優勝を経験。2000年にNECレッドロケッツに入団し、日本代表にも選出される。2006年に一度は引退するも2008年に復帰し、2012年のロンドン五輪で銅メダル獲得に貢献。2013年に引退し、現在は4児の母。