石塚さん(右端)が美智子さまから手渡された試合当日の写真。両陛下は初対面(’57年8月)

聖心女子学院高等科2年のころからテニスを始めたという美智子さまは、大学に進学後はテニス部にも所属。’55年10月には「関東女子新進トーナメント」で優勝し、同年の関東学生ランキングでは、4位にランクされるほどの実力の持ち主だった。

そんなテニスが縁で皇太子時代の陛下と「出会い」を果たされたのは’57年8月のこと。

旧軽井沢のテニスコートで開かれた「ABCDテニストーナメント」だった。

「当時、親しくさせてもらっていたテニスコーチが、陛下のペアに私を推薦したことにはとても驚きました」

と振り返るのは、59年前の「運命の試合」で、陛下とダブルスのペアを組んだ石塚研二さん(元自動車販売会社会長・79)。

大会2日目、準々決勝で対戦したのが、日清製粉の社長令嬢で才色兼備のスポーツウーマンとして人気者だった正田美智子さんと、カナダ人のドイル少年のペアだった。

美智子さまは現在でも、膨大な数の公務を丹念に務められていますが、テニスのプレーと重なるところがあると思います。

当然、勝てると思っていましたが、いくら打っても美智子さまは粘ってフワフワとしたボールを打ち返し、しかも少年を励まし、うまく生かすプレーに、私たちは調子を乱され、結局、負けてしまいました」(石塚さん)

あまりの悔しさに当時、しばらくテニスをやめてしまったという石塚さん。

それ以降、軽井沢に行く機会がなくなり、両陛下とは疎遠になったが、テニスで培われた「関係」が完全に途切れることはなかった。

石塚さんが打ち明ける。

「実は10年くらい前に、成長したドイル少年も招いて半世紀前の“再現”をしようという話が持ち上がりましたが、両陛下のご都合が合わなかったのか中止になりました。

ただその前後、両陛下のご成婚50周年の年(’09)に、おふたりが葉山御用邸で静養していたときに、共通の知人を介して50年ぶりにお会いすることができました。

陛下からは“石塚さんはわれわれのキューピッドだね”というお言葉があり、“今度(試合を)やったら負けないだろうね”ともおっしゃっていました。

美智子さまは当時と同じく“ケンちゃん!”と呼んでくださって、昔話にも花が咲きましたね」

美智子さまにとってテニスとは、そんな「交流の輪」を保ち、広げるものでもあるのかもしれない。

軽井沢の脇田美術館館長代理の篠原克代さん(71)が、『週刊女性』の取材に答える。

「両陛下と初めてテニスをさせていただいたのは、’80年ごろです。私は当時、軽井沢の自宅近くにあったコートでテニスに熱中していたのですが、両陛下のテニス仲間と知り合う機会がありました。

そして、両陛下がそのコートでプレーすることになったときに、お誘いを受けたのがきっかけです」

初恋の舞台になったコートよりギャラリーが少なく、静かな環境だったのを両陛下は好まれたようだったという。

テニスの後、篠原さん(右端)らテニス仲間と歓談され和やかな様子の両陛下(’80年代)

「のちに、画家である私の夫が小学校時代、美智子さまの軽井沢の疎開先と同じ国民学校に通っていたことがわかり、“ぜひ、お会いしたい”ということになりました。

その後、’86年に両陛下がわが家にお越しになることになりました。そのようなご縁から、美智子さまに、“一生のお友達でいてね”と、言っていただいたことは、私の宝です」

そんな親交は続き、昨年8月の軽井沢静養のときには、両陛下はお忍びで約30年ぶりに、篠原さん宅を訪問されたという。

「テニスの話題にもなり、以前から“地元の人たちと(テニスを)やりたいと願っていたのよ”と、美智子さまはおっしゃっていました。

美智子さまとしては、大好きな思い出の地である軽井沢で、テニスを通じていろいろな人と交流の輪を広げたかったということだと思います」(篠原さん)

高校時代から65年近く続く美智子さまのテニス─。

今でも、美智子さまがテニスのボールを追い続けるのは、そんな“仲間”たちを大切に思われているからなのかもしれない。