ミュージシャンはもちろん、プロデューサーとしても卓越した才能を持つ、ミッキー吉野

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 夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第76回はゴダイゴのヴォーカル、タケカワユキヒデさんとキーボードのミッキー吉野さん。数々のヒット曲を生んだスーパーグループの誕生秘話です。

【写真を見る】デビュー50周年…あの素晴らしい楽曲と演奏は健在!

音楽のために生まれた二人

 1978年「ガンダーラ」に始まり、わずか1年にも満たない期間で「モンキー・マジック」「ビューティフル・ネーム」「銀河鉄道999」のメガヒットを飛ばしたグループ、ゴダイゴ。

ミュージシャンはもちろん、プロデューサーとしても卓越した才能を持つ、ミッキー吉野

 ヴォーカルのタケカワユキヒデ(73)は、昨年で活動50周年。そしてゴダイゴとしては今年が活動50周年。そうした経緯もあり、ここ2年でタケカワと、リーダーのミッキー吉野(74)に2回ずつインタビューする機会があった。

 ミッキーは60年代、在日米軍向け英語ラジオ放送FENでジャズ、ポップス、ロックンロールからカンツォーネ、はたまたシャンソンまで。あらゆる洋楽を聴いて幼少期を過ごした、天才的な音楽センスのキーボーディスト。

 タケカワは母親の実家が鈴木バイオリン製造で、音楽教育で知られるスズキ・メソードの創始者・鈴木鎮一が大叔父という家系に生まれ、小学校1年から作曲をやっていた。客観的に考えれば、ゴダイゴは音楽のために生まれた2人が出会うべくして出会い、掛け合わさったようなもの。

 そんな天才たちも人知れず、グループの産みの苦しみがあった。

 オルガンを自在に弾きこなしたミッキーは、中学時代からバンドマンとしてステージに立ち、一人ベンチャーズができた。GSブームの中、高2の6月にザ・ゴールデン・カップスに加入し、高校は中退したものの、幸運なことにアメリカの名門、バークリー音楽大学に留学し、アメリカの音楽を身をもって体験した。

 ミッキーには「人生を変えた一曲」「秘蔵写真」というテーマで話を伺ったが、有名ミュージシャンの名前が出るわ出るわ。トニー・ベネット、シャルル・アズナヴール、サミー・デイヴィスス・Jr……聞いているうちにクラクラしてきた。

「一曲」はリトル・リチャード「Send Me Some Lovin’」。目の前のキーボードを軽やかに弾き、口ずさんでくれるので、それだけで得した気分だった。

 ドップリとアメリカの音楽に浸ったミッキーだが、アメリカかぶれにならなかったのが凄い。音楽ビジネスを直視し、日本人が英語の世界で勝負しても勝てないことを悟り、マーケティングも学んで帰国する。当時の日本の音楽界は、

〈当時は吉田拓郎、井上陽水らのフォーク全盛の頃……陽水の詞はいいんだけどサウンドに違和感があった〉

『ミッキー吉野の人生(たび)の友だち』(シンコーミュージック・エンタテインメント)で、こう書いている。カップス時代にザ・芸能界の嫌な面を見て拒否反応もあった。さて、どう動こうか……。

「ガツンと行こう」

 タケカワにも「一曲」を聞いた。小6で観たビートルズの映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」の「Can’t Buy Me Love」だった。

 中2の時には、日本語の歌詞を英語に訳した曲を作った。それが納得できず、3年間は英語の歌詞の曲を作ることを封印したが、一変するのが高2の英語の時間のこと。歌詞とメロディーが降ってきて、それから授業中に何十曲も英語の曲を書いた。

 75年、ゴダイゴ結成の前年、タケカワは高校時代から書いた全曲英詞から選んだ曲のソロアルバム「走り去るロマン」をリリースした。

 そんな両者をくっつけたのは、音楽プロデューサーのジョニー野村。アメリカから帰国したばかりのミッキー、野村、タケカワで会うことになった。

 ミッキーはミッキー吉野グループとして「走り去るロマン」のバックも務めながら、アメリカ時代から考えていたグループ、ゴダイゴのデビューアルバムとして決まった「新創世記」に取り掛かる。メンバーは4人。しかし、肝心のヴォーカルが決まっていないなどモヤモヤする状況が続いていた。一方のタケカワは一人でやっていて、次の展開が見えない……。

 思い至ったミッキーがタケカワに電話した。

〈ボクの方も4人でやっていてもなかなかヴォーカルが決まらないし、タケもひとりでやっていてもパッとしない状況だった。そこで“両方でしょぼしょぼやっていてもしょうがないじゃないか、じゃあ、これ一緒のグループにしようか、それでヒットさせよう!ガツンと行こう!”って言ったら、タケも“そうだよね”って。状況を見ていてあいつも感じていたと思うんです〉(『人生の友だち』から)

「ガツンと行こう」の掛け声がグループ結成の決め手だった。

ミッキーの戦略

「ガンダーラ」のリリースは78年だから、76年のアルバム「新創生記」からは2年余りある。

 ミッキーが模索したのは日本語で歌うシングルだった。英語の詞を書いてきたタケカワには日本語の歌に抵抗があったが、「とりあえずシングルだけは日本語でやろうよ」(『人生の友だち』から)という話になり、リリースした7枚目の「ガンダーラ」が大ヒットした。

 ミッキーの戦略はこうだ。ザ・芸能界はノーでもカップス時代のノウハウを注ぎ込む、拓郎や陽水らフォークの人はテレビに出ないから逆に大量露出する――これが当たった。ヒットしたら二の矢、三の矢を放つ……バークリー時代に教わった理論も功を奏した。

 大人気だったドラマ「西遊記」の劇伴(劇中音楽)に関していえば、「リトル・リチャードの『Send Me Some Lovin’』に代表されるようなロックンロールの自由とエネルギーがあった」とミッキーは語る。

 85年に解散、99年のゴダイゴ復活と紅白出演、06年に再始動し、今に至っている。タケカワの50周年記念アルバムは英語詞と日本語詞で録音した40曲。それを記念したゴダイゴのコンサートは老若男女で満員になった。

 音楽のあらゆる要素を集約した伝説的グループがゴダイゴということか。

峯田淳/コラムニスト

デイリー新潮編集部