「もう産めない」不妊治療10年の末、子宮全摘。手術当日、妻が夫に綴った本音「養子縁組、考えてほしい」
30歳から不妊治療に10年を費やし、流産も死産も経験した池田麻里奈さん。しかし30代後半から悪化した子宮腺筋症の影響で、42歳の時に子宮を全摘することに。長い努力の末に「もう産めない」という現実を突きつけられた時、池田さんの心に浮かんだのは「それでも子どもを育てたい」という、消えることのない願いでした。
【写真】40代で養子縁組をし念願の母にお宮参りでわが子を抱く池田さんの笑顔(5枚目/全10枚)
子宮全摘後に夫に綴った本音「養子縁組を」
── 10年に渡る不妊治療のなかで、流産や妊娠7か月での死産も経験された池田麻里奈さん。30代後半から悪化していた子宮腺筋症の影響で、42歳のときには子宮の全摘出をされます。
「もう子どもを産めない」とわかったその瞬間、池田さんのなかで湧き上がってきたのは、「あきらめ」ではなく「育てたい」という思いだったそうですね。
池田さん:手術が決まってから「きっと私は、死ぬときも『やっぱり親になりたかった』と思うんだろうな」という気持ちが浮かんできたんです。もう産めないことは受け入れていました。でも、だからといって、ずっと子どもを育てたかった気持ちが消えるわけじゃない。
夫はたぶん、手術でひとつの区切りがつくと思っていたはずです。でも私には、この先もずっと隣にいる人に、その消えない思いを知っておいてほしかった。だから、その思いを書いた手紙を書いて渡したんです。
── 手紙にはどんな言葉を綴ったのでしょう。
池田さん:「私の夢はお母さんになることです。養子縁組を考えてほしい」という内容でした。あわせて、夫への思いも伝えました。あなたが会社の成長を願い、頑張る姿をパートナーとしてずっと応援してきたし、その成功は自分のことのように嬉しかった。でも、あなたにとってそれが人生の大きな目標であるように、私にとっても「親になること」は人生でやってみたい夢なんだ、と。
夫は手紙を見て衝撃を受けていたようでした。以前から養子縁組の話は口にしてきましたが、私がここまで本気で考えていたとはわからなかったのでしょう。でも、切実な思いを伝えたことで初めて、夫も自分ごととして考えてくれたのだと思います。返ってきた言葉は「わかったよ、君に付き合うよ」でした。
──「付き合う」という言葉は、受け取り方によってはどこか他人事のようにも聞こえてしまいますが…。心にひっかかりませんでしたか。
池田さん:普通ならそう感じるかもしれませんね。でも私は、むしろすごく正直な言葉だなと思いました。
なぜなら私自身、夫の夢に付き合ってきた感覚がずっとありましたから。彼が努力する姿を見ながら、その夢を一緒に応援する。それが、夫婦という関係の楽しさであり、素敵なところでもある。
だから夫の言葉も「今度は彼が私の夢に付き合ってくれるんだな」と受け止めることができました。夫は「次は君の夢を叶える番」と言ってくれました。その言葉が本当に嬉しかったです。
養子縁組には年齢のリミットがあります。子どもとの年齢差が45歳までという基準を多くの団体が設けていて、当時の私たちには時間がほとんど残っていませんでした。退院後、もともとアクティブな夫が積極的に動き出してくれて養子縁組の話が一気に進みました。
「自分の子どもの顔が見たい」かつては葛藤も
── そもそも養子縁組という選択肢は、いつ頃から池田さんのなかにあったのでしょうか。
池田さん:最初に知ったのは、通っていたクリニックに置いてあったパンフレットです。興味を持ち、シンポジウムなどにも足を運びましたが、当時は養子縁組で子どもを迎える人の話をほとんど聞いたことがなく、現実味は薄かったんです。
不妊治療をはじめて5年ほどたった頃、夫に「養子縁組ってどう思う?」と聞いてみたことがあります。しかし、夫から返ってきたのは「いや、今はまだ考えられない」という答えでした。私の中にも迷いや葛藤があったのですが、話し合いに発展することはありませんでした。夫には「自分たちの子どもを妊娠できる可能性に賭けたい」という思いもあったでしょうし、「血の繋がらない子どもを育てる自信がない」とも。一般的な反応だと思います。私も同じ不安があったので。
── 池田さんご自身は、血の繋がりに対してどんな思いを持っていましたか。
池田さん:やはり、自分の子どもの顔が見たいという気持ちは強かったですね。夫と半分ずつ遺伝子を受け継いだ子がどんな顔をしているのか。友人たちの子どもが親にそっくりで愛らしい姿を見るたびに、「自分もその喜びを味わいたいな」と。だから、別の道へ踏み出す勇気はなかなか持てず、ずいぶん葛藤していました。
── 36歳で死産を経験された後、乳児院(保護者の養育を受けられない乳幼児を預かり、親の代わりとなって育てる施設)などのボランティアを始められています。子どもを見ることさえつらい時期に、あえて関わりを持とうとされたのはなぜだったのでしょう。
池田さん:当時の日本には約4万5千人の子どもが親と離れて暮らし、大半が施設で育っていました。乳児院とはどんな場所なのか、ずっと気になっていました。抱っこしてくれる人やミルクをあげる人が足りない現状を知って、少しでもその子たちの隣にいられるなら、という思いもありました。
仕事のペースが変わって少し時間ができたときに、ミルクボランティアの募集を見つけて、自分の目で確かめたいと思ったんです。赤ちゃんを見るのがつらいという気持ちよりも、何かできることはないか、実際に知りたい、関わってみたいという気持ちのほうが強かった。
私たち夫婦はあれほど望んでも叶わなかったいっぽうで、さまざまな事情の中で生まれてくる子がいる。その現実に複雑な思いがなかったと言えば嘘になります。ただ、その気持ち以上に、誰かが絶えず世話をしなければ生きられない赤ちゃんたちが、ここにいる。その事実がずしんと胸に響きました。
職員さんたちは、その時々でできる限りのことをされています。それでも、赤ちゃんたちのお腹がすく時間は重なりますし、全員を抱いてミルクをあげられるだけの人手はありません。哺乳瓶を固定できる枕のようなものに角度をつけて、赤ちゃんがひとりで飲めるようにしている場面もありました。生きるためのお世話は懸命に続けられている。でも、家庭で一対一で積み重なっていく時間とは、やはり違うのだと痛感しました。
子どもの支援に関わるほど見えた自分の本音
── ボランティアとして子どもたちに関わることで、自分が本当はどうしたいのか、逆にみえてきたのですね。
池田さん:最初は、親になれなくても、子どもに関われることはあるのかもしれないと思っていました。近所のおばさんのような「ななめの関係」でもいい。子どもを産まなかった人にも、果たせる役割はあるんじゃないかと考えていたんです。
でも、子どもたちの支援に関わるほど、ひとりの子の人生をずっと見続けて伴走できるのは、やはり「親」なのだと感じるようになりました。支援者として関わる時間と、生活の中で毎日その子の隣にいることは違う。些細な言葉ひとつでも、親が子どもに与える影響はすごく大きい。やっぱり私は親として子どもの隣にずっといたいという気持ちに改めて気づいていったんです。
取材・文:西尾英子 写真:池田麻里奈

