#4 心の自由度を表す「ゆとり」と「あせり」のものさし──斎藤環さんと読む、中井久夫の著作【別冊NHK100分de名著】
斎藤環さんと読む、「こころの医師」・中井久夫の思想
回復が難しいとされてきた統合失調症の治療に希望をもたらし、阪神・淡路大震災において被災者の「心のケア」を行うなど、常に苦しむ人の心に寄り添い続けた精神科医・中井久夫。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫』では、優れた文筆家でもあった中井久夫の論文・エッセイを、精神科医・筑波大学名誉教授の斎藤環さんと読み解きます。やさしさと鋭い知性から紡がれた中井の言葉は、心の病に関わる人だけでなく、あらゆる人のセルフケアのヒントになるでしょう。
2026年7月~9月に開催の「100分de名著」シリーズ・図書カード全員還元キャンペーン対象書籍でもある本書より、「はじめに」と「第1講」を全文特別公開いたします(第4回/全6回)。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』書影
急性期の患者に起こる「あべこべ感」
中井は、統合失調症は特異な素因を持つ人の病であるというスティグマにつながる考え方を否定し、誰しもが発症しうる病であると繰り返し訴えました。では、統合失調症を発症した人としていない人の違いは何なのか。その問いに彼は、システム論的な発想からアプローチしています。
分裂病でない人は、のほほんとしていても分裂病にならないのではなくて、日々、何らかの入力によって、分裂病状態という、とても苦しい、逆説的な、宙づりになっているような状態の実現を妨げられているのだと考えることもできるでしょう。つまり分裂病状態にならないためにはエネルギー的に入力が必要であり、またそのためのシステムが必要だということです。
人間には、病原体から体を守る免疫システムのように、自他を区別し続けるためのシステムがあり、このシステムの維持のため不断にエネルギーをそそいで統合失調状態にならないようにしている、と中井は考えていました。言い換えれば、このシステムがうまく作動しなくなれば、誰でも発病する可能性があるわけです。統合失調症の発病過程として、脳の中のわずかな異常が少しずつ広がり、やがて脳全体を巻き込んで異常な活動状態になってしまうモデルを想定し、その過程を原子炉の暴走にたとえています。
器質的精神病が脳の粗大な変化によって粗大な結果がもたらされるものとするならば、分裂病は微小な変化によって大きな結果がもたらされるものといってよいでしょう。
中枢神経系は暴走すれば原子炉以上に危うい代物です。
ここで指摘されている「器質的精神病」との違いは、臨床的な実感にも一致します。アリの穴から堤が崩れるように、極小の変化から極大な病理が生み出される。そこに統合失調症の特性があると言っていいと思います。閉鎖系の中で、間違った作動が無限に増幅してしまうようなイメージです。発病から間もない急性期初期には、「何が起こっていて、どこに連れて行かれるのかさっぱり分からない」という強烈な恐怖が患者を襲います。完全に閉じた世界で起きるこの恐怖は、とても言葉に表せるものではなく、それに比べれば語ることができる幻覚や妄想は「物の数ではない」と中井は書いています。
余談になりますが、中井は統合失調症の発症初期の圧倒的な恐怖を表現するために、ある漫画の言葉を引用しています。
「背後からしのび寄る恐怖に比べては他のものは何ほどでもない」とつげ義春の『ねじ式』にあったと思いますが、それに近いでしょうか。
急に『ねじ式』が出てきたのには驚きましたが、漫画も読んでいたのかな、と想像するとちょっと面白いですね。この引用は実は少し違っていて、「死なんて真夜中に背中のほうからだんだんと………/巨人になっていく恐怖と比べたら/どうってことないんだから」というのが原典通りの表現ですが、いずれにしても、足元の闇が無限に深まり、どこまでも落下していくような恐怖をとてもよく表していると思います。
さらに、急性期に現れる特徴的な感覚の一つに「あべこべ感」があります。
ものみなが非常に美しくみえることも、すべてが夢の中のようであることも、宙づりになったような感じも、「すべてがさかさま、あべこべになっている」と直観することもあります。
あべこべ感とは、治療者側からは共感や実感が難しいという意味で謎めいた症状なのですが、事実、多くの患者さんがこうした経験を訴えます。このあべこべ感の記述を参考にして、私も統合失調症が疑われる方の診察では、頭の中が何となく騒がしく感じる「ざわざわ感」、自分の考えが周りに漏れているような「つつぬけ感」、そして「あべこべ感」の三つがあるかを聞き、個人的な診断の手がかりにしています。いずれも自発的に訴えられることが少ないのですが、問えば「あります!」と即答される特異な体験です。
回復の目安となる「あせり」と「ゆとり」
統合失調症の寛解過程の中で、中井久夫が特にこと細かに観察したのが、回復期の患者に起こるさまざまな事象でした。回復期や慢性期になると、患者の言葉数が減り、「眠れていますか」「薬はのんでいますか」といったシンプルなやり取りしかできなくなることがあります。そのため、言葉以外のコミュニケーションツールである身体診察や絵画療法を使った経過の観察を通して、中井久夫は具体的な回復の目安を見つけていきました。
回復の進み具合は、絵画療法で描かれる絵の変化や、夢を見るかどうかに現れます。夢は、発症初期にはほとんど見られず、回復期に入ると増えてきます。そうした回復に伴う変化は、患者にも治療者にも希望を与えるものです。
回復期の初期には眠りが訪れるとともに悪夢を見ます。最初は不定形のヘドロのような悪夢、それから怪物などが登場する悪夢、そして人物が登場する悪夢に変わって夢が淡くなります。穏やかな夢を報告する人も、シリーズの夢を報告する人もありました。これに平行して眠りが深く、めざめ心地がよくなります。この段階は苦しいけれども、ぜひ前向きに突破しなければなりません。
とにかく絵であるとか、今日は省きますが粘土であるとか、そういう“目に見える”回復の目安があると、回復期の診察が非常に楽になり、張り合いもでます。
回復が目に見えると気分が楽になる、というのは、私も大いに共感するところです。絵画や夢のほかにも、疲労感や消耗感といった身体感覚を意識に上らせられるようになること、「母は自分の母であり、父の妻でもある」といった、概念の拡大を理解できるかどうかといったことも、回復の目安として挙げられています。
このほかの回復の目安として、一見矛盾する認識の両立が挙げられます。中井はよく「自分が世界の中心であると同時に世界の一部でもある」という表現を使っています。統合失調症の方はどちらか一方に偏りやすく、急性期に妄想に支配されているときは自己中心モードになり、回復期になると、今度は自己を抑え過ぎて周囲に助けを求めにくくなる傾向があります。矛盾するものの間で折り合いをつけ、両立させられるかが回復や精神健康の度合いを知るポイントになるという指摘は大変重要だと思います。
また、中井が回復の目安として重視していた要素に、「あせり」と「ゆとり」があります。あせりとゆとりに関する名論文も残していて、「ゆとり感は心の自由から測られるものである」という話をよくしています。心の自由度をチェックするシンプルな方法として紹介しているのが、数字をランダムに言ってもらう「乱数発生」です。
自由度については、私よりも先に、井村〔恒郎〕先生のひきいる日大グループが、急性期には乱数発生が全然できないということを発見しています。これは、あまり知られていませんが、私は強い印象を受けました。「できるだけでたらめに一から九までの数を言って下さい」というのです。いちおう数は百箇で打ち切ります。これに対して、急性期の患者は一二三四五六七八九、一二三四五六七八九としか言えないのです。
乱数発生能力の有無あるいは程度はこの「ゆとり」「余裕」の尺度だと思います。「ゆとり」とは心の自由性を実感したものです。「あせり」とは自由度の欠乏を感じながら、ほんのわずかでも自由度を高めようとする懸命の努力を実感したものでしょう。
ゆとりがなければ既存の秩序に従うしかなく、ゆとりがあればでたらめをつくることができる。この考え方はいろいろな応用が可能で、中井も、枠の中をでたらめに仕切る空間分割法、分割したものを色で塗り分ける分割彩色法といった絵画療法に応用しています。また、統合失調症に限らず、日常のさまざまな場面で「ゆとり」のありようを知る上での一般的な尺度にもなるでしょう。
臨床の現場では、回復の途中で患者が「仕事を始めたい」などと言い出すことが珍しくありません。ただ、それが「少し体力が回復したから働こう」というゆとりから生まれた言葉なのか、「働かなければ自分がダメになる」というあせりから生まれた言葉なのか、治療者は慎重に見極める必要があります。あせりとゆとりの物差しは、治療上の重要な判断をくだす際にもきわめて有用なものです。『最終講義』には、中井が統合失調症の回復過程を表現した印象的な一文があります。
分裂病の回復は登山でいうと、山を登る時でなく山を下りる時に似ています。
森の中で道を見失って孤独な登山のはてに到達するのが病であり、発症したときに患者はすでに頂上にいて、治療は山岳遭難救助に似ていると中井は言います。私たちがオープンダイアローグで治療した回復期の患者さんの中に、まさに「みんなで山に登って下りてきました」という表現をした方がいました。患者さんの実感としても、本当にそういうことがあるようです。
この喩えは、単なる比喩ではないと私は考えています。回復期には、山を自分の足で一歩ずつ下りるように、患者本人が回復の過程を理解することがとても大切です。これはあくまでも私の実感としてですが、この過程をきちんと理解し記憶している人は、比較的再発が起こりにくいという印象を持っています。薬物や電気ショックを使った治療に関して、私が一番問題だと思うのは、一時的にせよ記憶が飛んでしまい、自分がなぜよくなったのかを理解できないことがあるという点です。患者ができるだけ回復の過程を意識できるような治療を行うべきだ、という意識は中井にもあり、その意識が山下りの喩えにつながっているのだと思います。
本書『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』は、大好評を博した「NHK100分de名著 中井久夫スペシャル」の番組テキストに、後期の代表作『徴候・記憶・外傷』を読み解く書き下ろし新章を加えた決定版として、
・「心の生ぶ毛」を守り育てる
・「病」は能力である
・多層的な文化が「病」を包む
・精神科医が読み解く「昭和」と「戦争」
・「記憶」がひらく新たな地平
という全5講義で、中井久夫の著作とその思想を紹介しています。
斎藤 環(さいとう・たまき)
精神科医、筑波大学名誉教授。1961年、岩手県生まれ。医学博士。筑波大学大学院医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授を務める。2024年、つくばダイアローグハウスを開業。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、ラカンの精神分析。一方で、時事問題から文学、美術、音楽、サブカルチャー全般に及ぶ評論活動を行う。著書に『ひきこもりはなぜ「治る」のか? 精神分析的アプローチ』(ちくま文庫)、『母は娘の人生を支配する』(NHKブックス)、『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)ほか多数。『心を病んだらいけないの』(與那覇潤氏との共著、新潮選書)で第19回小林秀雄賞を受賞。
※全て刊行時の情報です。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』(斎藤環 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書第1講における『最終講義』からの引用は、『最終講義──分裂病私見』(みすず書房)に拠ります。

