梅宮アンナさん(撮影:本社・奥西義和)

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19歳でモデルデビュー以来、カリスマ的な人気を博している梅宮アンナさん。2024年に乳がんのステージ3Aで闘病していることを公表し、現在も自らの体験を日々発信されています。そんな経験を通して、梅宮さんは「乳がんになって、私はやっと生きがいを見つけた」と語ります。そこで今回は梅宮さんの著書『フルコース がんと私と家族の日々』から一部を抜粋し、赤裸々ながん闘病記をお届けします。

【写真】乳がん診断から約2年…積極的に発信を続ける梅宮アンナさん

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マネージャーとの別れ

マネージャーからは、がんを公表することに反対された。

がん告知を一緒に聞いたマネージャーだ。

彼は長年、大手芸能事務所で働いてきたこともあって、どうしても芸能界のルールに縛られてしまう。

「芸能人が病気を公表すると、仕事が逃げる。隠さなきゃいけない」

そう考えたんだと思う。

私は隠したくなかった。十数年前に、大手事務所から独立して、大きな傘で守られる立場じゃなくなった。その分、世の中がどうなっているのか、日本の景気はどうなのか、SNSで何を発信するべきか、そもそも芸能界とはどんなところか、全部じゃないけど、いろんなことがわかってきたと思う。

視野が広がるにつれて、マネージャーと意見がぶつかるようになった。

私は、まずはネットで連載中の「OTONA SALONE」で乳がんの事実を公表し、SNSで逐一状況を発信しながら、マスコミのインタビューを受けたりして、闘病生活を伝えていきたかった。自分の生活が明かせないんだったら、SNSをやる必要はない。嘘をついてまで続けることでもない。

でも、マネージャーは思うように動いてくれなかった。何度も話し合いをしたけど平行線をたどるばかり。

「申し訳ないけど、解散しましょう」

がん告知を受けてから1か月後だったと思う。最終的に私から別れを告げた。

彼は仕事のできる優秀な人で、全幅の信頼を置いていた。

でも、今の私に必要なのは、芸能界でどう仕事するかよりも、自分らしくどう生きていくかだ。人間って誰しも、大変なときには価値観がガラッと変わる。どんな人と優先して付き合うべきかも、自然と見えてくる。

冷たいことを言うようだけど、それが現実だと思った。

新しい仕事がしたい

「がんを公表するのはいいけど、ステージ3Aであることは言わないほうがいい」

実は先生からも、こう釘を刺されていた。


『フルコース がんと私と家族の日々』(著:梅宮アンナ/文藝春秋)

「世の中の人は、ステージのことをすごく気にしています。でも、実際のところは詳しくは知らない。ステージ1だから助かるとか助からないとか、そういう話ではないんです。多くの人からは、ステージ3Aが、かなり症状が進んでいる状態だと思われてしまうはず。それで、アンナさんのお仕事がなくなっちゃうかもしれない」

すごく親身になってくれて、ありがたかった。

私はこう答えた。

「でもね、先生。私ね、新しいお仕事がしたいんです」

今までの芸能界の仕事にはもちろん感謝している。でも、新しい分野、新しい体験をもとに活動していくことは私の性分にも、今の身の丈にも合っている。

がんになったんだから、芸能人として医療やウェルネスの情報を発信していくことだって立派な仕事のはずだ。

それに私が「ステージ3A」であることを公表すれば、ステージ1、2、3のがん患者の人たちは「ああ、梅宮アンナ、3Aなんだ。私、まだマシかも」なんて、ちょっとでも安心してくれるかもしれない。

人に希望を与えられるのなら、それでいい。

がんであることに加えて、ステージを公表する考えも揺らがなかった。

まこちゃん

「今日、あんこって病院にいた?」

突然、まこちゃんからLINEがきたのは、5月30日のこと。

まこちゃんは、川村中学校で一緒だった大の親友だ。

もう40年以上の付き合いになる。

「あんこ」は昔からの私のあだ名だ。

右胸の異変に気づいて、マンモグラフィとエコーの検査を受けに病院に行った日だった。もちろん、このときはまだがんの告知は受けていない。

「うん、いた。え、なんで?」

「友だちが病院であんこを見かけたって」

「実はなんか胸があやしくて、いま検査してるんだよ」

まこちゃんはビックリしていた。

すぐに会うことになり、胸の異変や検査のことを詳しく話した。

その後、がん告知を受けてからも、症状や治療方法、マネージャーとうまくいっていないことも聞いてもらっていた。

まこちゃんは、かの大企業「トヨタ」で秘書として働いていた立派な社会人だ。芸能界のことはよく知らないけど、私にはかえってそれがよかった。

同い年で、私と目線も、考え方も近い。スケジューリングなども、お手の物。私がアタフタしていると、何かと手伝ってくれた。

ああ、まこちゃんみたいな人だったら、信頼できるのになぁ。

今の私に必要なのは、芸能界の仕事を切り盛りするマネージャーではなく、生活をアシスタントしてくれるサポーターだと思った。

でも、まこちゃんには仕事も家庭もある。

どうだろうか。

「まこちゃんが、アシストしてくれたらいいな」

そう本音を口にすると、まこちゃんは、迷う素振りもみせずに、

「いいよ」

と即答してくれた。

やった!

それから闘病中はずっと、まこちゃんと一緒に悩み、一緒に泣いて、一緒に笑う。そんな日々が続いた。

なぜ標準治療を選んだか

先生から「がんです」と告知された日の夜。

実は、何年かぶりにぐっすり眠ることができた。自分でも不思議だった。

でも、心の奥底できっと「これで休める」と思ったのかもしれない。長年続けてきた芸能生活からいったん離れて、新しく自分の道を進み始める、これが私にとって本当のミッションの始まりなんだ、そう気づいたんだと思う。

私の父親、梅宮辰夫は81歳で亡くなっている。

晩年に前立腺がんと尿管がんを発症して、おまけに慢性腎不全にもなって、週に数回の人工透析もしていた。そばで見ていても本当に苦しそうで、ママも介護に疲れ切っていたし、本人も安楽死を望んでいた。

パパの死は、私にとって生きる糧を失ったようなものだった。同時に老いていく親を見て「81歳までは絶対に生きていたくない」とも思っていた。

私は自分の人生を70歳までで終わらせたかった。

80過ぎのママはタクシーもろくに呼べないけど、私だって同じくらいの年齢になったら、その時代のスマホアプリなんて使えなくなっているはずだ。そんなおばあさんになってまで長生きしたくない。若い人のお荷物になってまで生きていたくない。普段からそう思っていたし、友人にも言っていたくらいだった。

そんなときに、がんになった。

告知された瞬間、自分でもビックリだけど、早く死にたいとは思わなくなった。

私にはやることがいっぱいある。やっと生きがいが見つかった気がした。

本音を言うと、芸能界は私の身の丈に合っていなかった。毎日が楽しくなかったし、毎日がすごく空虚だった。人がやっていないこと、自分にしかできないことは何なのか。それを見つけるために必死にもがいていた。

でも、今なら胸を張って言える。

がん闘病の経験を、世の中の人、後に続く人たちに残すこと。そのために記録することが、私の役割だって。

パパの死を見届け、今度は私ががんになった。生と死の問題に直面したことで、自分のこれまでの価値観が集大成されたような感じだ。

「がんは、あなたにとって必要な経験ですよ」

そう言われているような気がする。

そのためにも生き抜かなきゃいけない。

だからこそ、私は、最初から標準治療の一択だった。

私が身をもって伝えていきたい

私は、何も自由診療が悪いとか、免疫療法が悪いとか言いたいわけじゃない。

もし、病院で「余命3か月です」と言われれば、免疫療法を受けたくなる気持ちもわかるし、それは間違いじゃない。実際に助かっている人もいるかもしれない。

でも、あの日、私は乳がんで、ステージ3Aと宣告された瞬間、「標準治療だよね」と直感した。それ以外の方法を選択しようとは思わなかった。

「免疫療法は1クール400万かかる」

そんな話も耳にする。もし仮に400万円あったら、私は家族との食事に使いたい。

これは価値観の問題だと思う。

何より科学的なエビデンスがない治療は嫌だったし、世の中の多くの医者が推奨している標準治療を信頼すべきだとも思った。

抗がん剤をやりながら、混合で免疫療法を受ける人もいる。

でも、それは危険だと思う。

標準治療はデータや数値こそが命であって、治療するたびに何が効いたのか、逆に何が悪かったのかを厳しく見極めなければいけない。並行して免疫療法を受けたら、それがわからなくなってしまう。だから、絶対においしいとこ取りはできない。

標準治療を選んで、がんを克服する。私が身をもって、みんなにきちんと伝えていきたい。

そんな覚悟が私の中で生まれていた。

※本稿は、『フルコース がんと私と家族の日々』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。