俳優・歌手の倍賞千恵子がこの6月29日に、85歳の誕生日を迎えた。年齢でいえば、昨年(2025年)11月に公開された映画『TOKYOタクシー』で倍賞が演じたマダム・高野すみれに追いついたことになる。(全3回の1回目)

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『TOKYOタクシー』では、木村拓哉演じるタクシー運転手の宇佐美浩二が、同僚(明石家さんまが電話の声のみで出演)から急遽代わりを頼まれ、すみれを神奈川・葉山にある高齢者施設へと送り届ける役目を担う。

 そこで浩二はまず、すみれを都内にある自宅まで迎えにいくのだが、その場所が何と、葛飾・柴又。倍賞が長らく出演し、『TOKYOタクシー』と同じく山田洋次が監督を務めた映画『男はつらいよ』シリーズの舞台であった。

 倍賞は『男はつらいよ』の全50作(1969〜2019年)で主人公の“寅さん”こと車寅次郎の妹・さくらを演じた。柴又でさくらは叔父夫婦が営む団子屋に結婚後も暮らし(のちに近所に家を建てて住むようになってからも毎日顔を出す)、全国各地をテキ屋稼業で渡り歩く寅次郎がときどきぶらりと帰ってきては、彼の引き起こす騒動に巻き込まれる。

『男はつらいよ』でさくらはシリーズを通し、兄から迷惑をこうむるとはいえ、主婦として平穏な生活をすごしてきた。それに対して『TOKYOタクシー』のすみれは後半生で事業に成功したものの、波瀾の人生を送ってきた。そんな対照的な2人がいずれも柴又で長らく暮らしていたという設定は、まるでポジとネガの関係、あるいは別の世界線上で生きる同一人物なのかと思わせた。

「“終わり”と“始まり”をすごく意識しました」

 当の倍賞にとっても、『TOKYOタクシー』の自身の登場シーンが柴又で始まるのはうれしいサプライズだった。《『男はつらいよ』の映画が終わって、この先はそう何度も柴又には来ないだろうな、と思っていたら、また映画の撮影で来ることができて、しかもそこからタクシーに乗り込んで映画が始まる。いろいろな意味で、“終わり”と“始まり”をすごく意識しました》と感慨深げに語っている(『anan』2025年11月26日号)。


2025年、映画『TOKYOタクシー』初日舞台挨拶での木村拓哉と倍賞千恵子 ©時事通信社

 さくらとすみれと同じく倍賞もまた東京・下町に育った。『TOKYOタクシー』ではすみれが人生に縁のあった場所に車を寄り道させながら葉山に向かうが、それが倍賞の思い出の地とも重なり、下町の路地では、自分自身が子供時代をすごした場所を思い出したという。現在の夫(作曲家の小六禮次郎)と結婚する前後より住む横浜でも撮影をした。そのため《だんだん自分の人生を旅している気分になり、私はどういうふうに最期を過ごすだろう、これからの生き方について考えなきゃ、なんて思ったりもしました》という(『婦人公論』2025年11月号)。

『TOKYOタクシー』には、車が隅田川を通りかかると、すみれが東京大空襲のさなか、人々が大挙して川に逃げてくるなかで父親と離れ離れになったつらい思い出を語る場面もある。倍賞自身には空襲の記憶はないが、母から焼夷弾が落ちたときの話を聞かされたという。

日中戦争のさなかに生まれた

 倍賞が生まれたのは日中戦争中の1941年6月で、東京の市電(現在の都電)の運転士だった父は彼女が生まれて8日後には召集され、戦地に渡っている。それから半年を経ずして太平洋戦争が始まった。戦争末期の1945年、4歳になった倍賞と2歳上の姉、3歳下の弟は母に連れられて、その実家のある茨城県の片田舎に疎開する。

 父は終戦の翌年に復員して運転士に戻ったが、終戦直後の東京は深刻な住宅難で一家で住むことはかなわず、父は東京に単身赴任しながら茨城に住む家族にときどき会いに来るという生活をしばらく送った。この間、倍賞に妹と末の弟が生まれている。5歳下の妹は同じく俳優となる倍賞美津子である。

 倍賞は「下町の太陽」をはじめヒット曲を出した歌手でもあり、現在も精力的にコンサートを行なっている。じつは歌のほうが俳優よりキャリアは長い。疎開先の茨城で入学した小学校で学校放送が始まると、マイクの前で歌う役に多数決で選ばれた。このとき「木の葉のお船」という童謡を歌ったという。

東京・北区に親子7人で暮らす

 小学4年生になった1951年に東京に戻り、北区滝野川の6畳と3畳だけの小さな家に親子7人で住み始める。そのころ、姉と一緒にNHKラジオの『子供のど自慢』に出場した。あがってしまいうまく歌えなかった姉に対し、倍賞は物怖じせず淡々と唱歌を歌い合格する。このときの審査員の一人だった作曲家の百瀬三郎から自身の主宰する「みすず児童合唱団」に誘われ、入団したのが、歌手になるきっかけだった。

 合唱団の稽古場のあった表参道までは、父が都電の運転士だったので家族パスで通えたが、両親の負担は相当のものだった。母は内職や質屋通いをしてやりくりした。娘には言わなかったが、合唱団の地方公演で持っていくグリーンのトランクも、母が自分の着物を質屋に入れて買ってくれたものだったようだ。

 中学に上がるころから声変わりしたこともあり、合唱団をやめた。その後は歌の個人レッスンを受けたものの、歌手になるつもりはなかったという。将来は教師にでもなろうと漠然と考え、中学3年のときには都立高校の受験勉強に没頭した。だが、両親は根を詰める娘を見て、万が一受験に失敗したときを心配したらしく、合唱団の先生とも相談したうえ、松竹音楽舞踊学校の受験を勧めてきた。この学校は、当時、宝塚歌劇団などと並び人気を集めていた松竹歌劇団(SKD)の養成学校である。

度胸試しのつもりで受けて合格

 本人は最初は気乗りしなかったが、1000人以上受験するなかで合格するのは60人あまりしかいないと聞くと負けず嫌いな性格をくすぐられ、度胸試しのつもりで受けて合格する。

 入学してからは、授業料以外にもシューズなど備品を買うためますます両親の出費はかさんだ。そこで母は倍賞には内緒で保険外交員のパートを始め、姉も中学を卒業するとすぐ就職して家計を助けた。思えば、『男はつらいよ』でさくらが家族のため家計をやりくりしたりする姿には、案外、倍賞の母の面影が反映されているのかもしれない。

 家族の期待に応えるため倍賞は努力するほかなく、毎朝誰よりも早く登校してピアノの練習をした。通学のバスのなかでタップダンスの練習をして車掌に叱られたこともあったという。猛練習で足が血だらけになり、家のなかを這って歩くほどだった。

 松竹音楽舞踊学校には卒業までの3年間、半年ごとに試験があった。倍賞にはどうしても勝てない同期がいて成績はずっと2位だったが、最終試験では首席をとる。卒業してSKDに13期生として入団すると、同歌劇団の名物レビュー「東京踊り」のフィナーレでは、ステージ上の大階段から生徒たちを引き連れて下りてくるバトンガールの役を担った。

「映画なんて大嫌いだ!」

 こうしてSKDのトップスターへの道を登り始めた倍賞に、松竹大船撮影所から声がかかる。同撮影所では映画監督・中村登が次回作『斑女(はんにょ)』(1961年)のために新人女優を探していたところだった。そこでSKDの新入団生のなかから倍賞に白羽の矢が立ったのである。

 いざ撮影現場に入ると、方々から指示が出され、誰が監督かわからないありさまだった。一つのシーンを撮り終わっても、次々に別シーンの台本が渡されてなかなかSKDに帰れない。そのあいだに舞台で得た役を代役をしている人に取られてしまうのではないかと不安な毎日を送る。大船撮影所から江の島に足を延ばすと、海に向かって「映画なんて大嫌いだ!」「早くSKDに帰りたいよーぉ!」などと叫んでは憂さを晴らしていたという。

 そんな倍賞の気持ちをよそにその後も映画出演は続いた。2作目の『水溜り』(1961年)には町工場の臨時工役で出演、そのワンシーンで、のちに『男はつらいよ』で寅さんを演じる渥美清と初共演する。工場をクビになった彼女が公園で男たちからお金を取ってスカートをまくり上げて見せるというシーンで、渥美はそれをカメラで撮ろうとする客の役だった。さすがに20歳になる直前の倍賞には恥ずかしくて、「とてもやれません」と難色を示し、結局、スタッフたちが周囲から見えないように照明のレフ板で囲んで撮影を続けたとか。

 そんなことなど彼女はすぐ忘れてしまったが、渥美はしっかり覚えていて、後年、「おまえ、監督に駄々こねていたじゃねえかよ」と言われたという。なお、倍賞が映画デビューしたこの年には、山田洋次も松竹大船撮影所に入社8年目にして短編『二階の他人』で監督デビューしている。

 翌1962年には『酔っぱらい天国』に出演、このとき渋谷実監督と出会ったことも俳優として成長するうえで大きかったという。ものすごく厳しい監督で、《忘れられないのは、主演の笠智衆(りゅうちしゅう)さんとのシーンで、何十回とやり直しをさせられたこと。それでも、もうできません、と投げ出さなかったのは、自分が「できない」ということが、嫌だったんだと思います》と倍賞は振り返る(『暮しの手帖』2023年10・11月号)。笠はのちに『男はつらいよ』で御前様こと帝釈天の住職を演じ、晩年まで彼女と共演することになる。

 こうした経験を重ねることで、翌年、雑誌に寄稿した手記では《去年あたりから、映画のおもしろさと難しさがわかるようになって、演技者としての私の前に、さまざまの困難が出てきた事に気づきました。難しいこと、辛いことが現われると、またぞろ、私にはファイトが湧いてくるのでした。いつの間にか、最初はすすめられるままに出演した映画に対し、すごい意欲が出るようになっていたのです》と書くまでになった(『婦人公論』1963年4月号)。

「我々が目指す世界でちゃんと芝居してくれる女優だ」

 倍賞が映画にデビューすると、松竹の若いスタッフたちは生粋の庶民性を漂わせた彼女の出現に色めき立ったという。山田洋次いわく、スター女優といえば化粧をして美しく装っていた時代に、倍賞のようにサンダル履きでどぶ板を踏んで駆け出す娘の役が似合う、あふれる生活感を身につけた女優は新鮮だった。《倍賞ってのはいいねえ。これこそリアリズム。我々が目指す世界でちゃんと芝居してくれる女優だ、と撮影所の食堂でコーヒーを飲みながらみんなでそんな話をしていたね》と山田は振り返っている(『キネマ旬報』2025年11月号増刊)。

 その倍賞の初主演映画を1963年、山田が監督2作目で手がけることになる。それが彼女が前年にリリースしたデビュー曲を題材にした『下町の太陽』だった。このときの会社側が要請したのはヒット曲が次々と歌われる「歌謡映画」だったが、山田は反発して、高度成長期の光と影を背景にした真面目な作品に仕立てた。当然、会社には評判が悪く、脚本を読んでもらった師匠筋の監督にも「これはあまりよくない」と言われ、ひどく落胆したまま撮影に入る。

デートシーンで撮影が止まり…

 倍賞によれば、相手役の勝呂誉との夜のデートシーンの撮影中、山田が難しい顔をしたまま黙り込み、撮影が止まったことがあったという。いつまで経ってもOKが出ず、彼女は自分の演技のどこが悪いのかと泣いてしまったが、山田もまた孤立無援の心境で、泣きたい気分であったらしい。

 倍賞にとっては、それまで監督をはじめスタッフの言うとおりに演技していればよかったのが、『下町の太陽』で初めて演技をすることの難しさ、苦しさを知ったという。それは自分なりに一つひとつのセリフの持つ意味を考えて、自分とは違うもう一人の人間になる必要があったからで、そこから彼女は演技の面白さに少しだけ触れたような気がするとも顧みている(倍賞千恵子『倍賞千恵子の現場』PHP新書、2017年)。

木村拓哉も驚いた山田洋次&倍賞千恵子の関係

 山田監督の作品にはその後、『男はつらいよ』の48作を含め、『TOKYOタクシー』までじつに70作に出演し、盟友ともいうべき関係を築いた。『男はつらいよ』で倍賞演じるさくらの一人息子・満男役で長らく共演した吉岡秀隆によれば、『隠し剣 鬼の爪』(2004年)で彼女と久々に共演した際、山田が松たか子のアップをどう撮るか悩んでいたところ、突然怒り出して「倍賞くん、君も一緒に考えてくれよ!」と言い出したことがあったという。

 木村拓哉も『TOKYOタクシー』の撮影中に山田と倍賞のやりとりを見ていた印象を次のように語っている。

〈《お二人の場合、あうんの呼吸であったとしても、すべてを許しているわけではないんですよ。誤解を恐れずに言えば、第三者、さらにもっと周囲にいる僕たちが驚くぐらい厳しい。山田監督は倍賞さんに対して、「いや、そうじゃないだろ」、「もっと苦しいんだよ」、「暑かったんだよ」と“もっと”を望んでいくわけです。そのやり取りのエネルギーは本当にすさまじくて、同じ空間にいるだけで持っていかれそうなくらい躊躇ない言葉が、バシッと投げかけられていく。それに対して、倍賞さんの返しは「はい」なんです。「なんで?」でも、「どこが?」でもなく、「そうじゃない」となったら、「はい」。その感じがすごい。なんか言葉にしがたいというか》(『キネマ旬報』前掲号)〉

『TOKYOタクシー』の公開時点で山田は94歳、倍賞は84歳。長年一緒に仕事を続けながらも、妥協を許さない関係に揺らぎはないことをうかがわせる。(つづく)

《離婚、高倉健との熱愛報道も…》「休みたい、辞めてしまってもいい」『男はつらいよ』に苦悩する倍賞千恵子に、渥美清がかけた“かっこよすぎる一言”〉へ続く

(近藤 正高)